SSブログ

センチメンタルな影 — ヴィオッティ:ヴァイオリン協奏曲第22番 [音楽]

Giovanni_Battista_Viotti_afterTrofsarelli.jpg

子供の頃、最初に聴いた音楽というのは頭の中に刷り込まれているものらしくて、それから後、幾つもの曲を聴いてレパートリーが増えていくうちに最初の頃の初心者的な曲を省みなくなったりするのだが、やがて思い出すことが気恥ずかしくなってしまうような時期を乗り越えると、やっぱり原点回帰というのか、時に一番最初の気持ちに立ち戻ってみたりすることがある。

私にとってそうした曲のひとつはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲で、繰り返し聴くものだからかなり細部まで覚えていて、でもそのうちに、このティンパニ、単調でちょっとダサいな、などと生意気にも思うようになって聴かなくなってしまう時期がやってくる。

それであちこちへ寄り道しているうちに、なんとなく昔聴いていた曲が聴きたくなり、とりあえず同じ曲を聴いてみるのだけれど、私は作曲者が第一で、演奏者は誰でもいいと常日頃思っているにもかかわらず、こうして刷り込まれた曲は、演奏者も最初に刷り込まれた音でないと落ち着かないということに気がついた。それが名演かどうかとは関係ないのである。

ヴァイオリン協奏曲というのにも幾つかの気恥ずかしいと自分で決めてしまっている曲があって、それは私の思い込みに過ぎないのだが、このメンデルスゾーン、チャイコフスキー、そしてヴィオッティはなんとなく気恥ずかしい。それがベートーヴェンとかシベリウスだったら堂々とこれが好きだと言えるのに、と勝手な分類をしてしまっている。

この中で、ヴィオッティというのは特殊である。ヴィオッティの協奏曲というとそれは普通、22番の協奏曲であって、極端にいえばヴィオッティはこれ1曲の人である。もちろん最近は他の協奏曲の録音もあるし、さらには全集まで出ているけれど、名曲アルバム的な選択でいうのならば断然22番である。

だが私の聴いていた22番は演奏者が誰だったか忘れてしまっていて、確かラロのスペイン交響曲とカップリングのLPだったと思うが、ラロはあまり聴かず、ヴィオッティばかりを聴いていた覚えがある。

22番は甘ったるくてセンチメンタルで、でもこれがツボにはまると怖い。昔、何かの本で読んだことがあるが、それはアメリカの話で 「黒人がジャズなんか聴いていると思うかい? 聴くのは甘ったるいムードミュージックだ。なぜなら生活が辛いから」 というので、ウソかホントかは知らないが妙な説得力があった。甘ったるくてもセンチメンタルでも、健康によくなくても身体には毒でも、そういうものを身体と精神が欲しがる時はあるわけで、たとえ幼児退行現象でも聴きたいときは聴けばいいと思うのである。

というとヴィオッティがすごくダメな曲のようだがそんなことはない。むしろそれだけ知られている曲ゆえに、意外によい演奏が無いような気がするのである。つまり自分の頭の中に、ここはこういうふうに弾いて欲しいという理想の音がすでにあって、それから外れる音楽をどうしても拒否してしまうからなのだろう。
これがプロコフィエフとかサン=サーンスだったら、どんな演奏であっても 「あぁ、こういう演奏もあるよね」 で済んでしまうのになぜなのだろうか。こういうのが思い入れというものなのかもしれない。

きっと私の当時聴いていたヴィオッティに巡り会ったら、これだ、とわかるのかもしれないが、もしかすると探し求めている音はそれではなくて、誰でもない理想の演奏を追い求めているだけなのかもしれないとも思うのである。


Lola Bobesco/Viotti: Violinconcertos Nr.22&23
Viotti: Violin Concertos  22 & 23

nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0