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永遠の麦わら帽子 — ONE PIECE展に行く [コミック]

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雨の中、六本木ヒルズのONE PIECE展に行ってきた。
チケットが予約制ということで、ジブリ美術館と同じでなんとなく億劫だと思っているうちに期日の残りが少なくなってきて、そしたら 「行っておいたほうがいいよ」 ということを聞き、とりあえず予約をとっておいたら、すぐその後、全日売り切れになってしまった。あぶないあぶない。

日比谷線を下りると、ヒルズに行く通路はONE PIECE展の掲示だらけで期待感が膨らむ。ヒルズに上がっていくエスカレーター正面のスクリーンにもONE PIECE展のCMが大きく映し出される。3階で前売りチケットを交換して52階へ。平日の昼だったので客層はほとんどオトナ。夜の階はかなり子ども連れが多いとの情報で昼間にしたのは正解だったかもしれない。でもすでにかなりの人数だ。

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全体が暗くてイメージビデオの部屋に誘導されるセッティングはTDRに似ている。ビデオの部屋が2つあるが、どちらも静止画のアレンジに過ぎなくて、ジブリ美術館みたいにここだけで見られるアニメというわけでもなくちょっと残念。

さて、いよいよメインは原画の展示である。
これはすごい。最後の広い部屋にはカラーの扉画がずらっとかかっているのだが、上下2枚に、しかもそんなに幅をとらないで並んでいるので、なかなか列が動かない。もうほとんど静止状態だ。たぶんフェルメール展よりも動かない。
でも辛抱強く待っているうちにじりじりと列は進み、1枚1枚と見ていくと、動かないのはあたりまえという感じがする。描き込みがすご過ぎるのだ。全然どこにも手抜きがない。

モノクロ原画のほうは、フキダシに写植文字が貼ってあったり、余白にはページ数の指示がエンピツで入っていたり、ゴム印が押してあったりするのだが、その箇所のストーリーを思い出してしまうので、たとえばヒルルクの桜の画面など、それだけでは何ということのない絵なのかもしれないが、右側にチョッパーの泣き顔があって、見ていてうるうるしてしまう。

尾田栄一郎の手法は、ほとんどアナログであることに尽きる。スクリーントーンも可能な限り使わず、ひたすら執拗な細かい線によって陰翳を出そうとするその偏執狂さ (ホメ言葉です)!
ユルいところや空白を嫌う空間恐怖症的な描き込みは、ジャンルが違うけれど島田ゆかといい勝負だ。それとONE PIECEはかなり長期の連載であるにもかかわらず、それほど画風が変化していない。つまり最初から完成されているといってよい。
コミックとして読んでいる場合、どうしてもストーリーを追うことが主になってしまうけれど、それと切り離してこうして絵だけを作品として見た場合、こんなにも描き込んでいたのか、と驚嘆してしまう箇所があちこちにある。

作品を仕上げている様子がエンドレスのビデオで映し出されていたが、これもすごい。エンピツで下書きしてからペンでスミを入れ、さらに色を付けるのだが、色はコピック (カラーマーカー) で塗っている。時間があれば水彩を使いたいのだが、時間的な制約があるのでコピックとのことだ。またなるべくカラフルに色をたくさん使うというのが信条だということだ。
最近のマーカーの性能がどうなのか知らないが、やはりゆくゆくは褪色してしまいそうな気がする。だからコミックスとは印刷物としての仕上がりを前提とした複製芸術であって、長期保存に耐えることを考えていないという潔さがあるのは認めるのだけれど、これらの絵が永遠でないというのはもったいない。
コピックで塗った後、光のあたっている部分を白のエンピツで入れ、さらにハイライトはホワイトを筆で入れてゆく。ほんのちょっとした最後の仕上げで、とたんに人物が生き生きとしてくる。それはまるで魔法だ。

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↑ 尾田栄一郎仕事用デスクの再現
(館内は撮影禁止なので JDN デザインのお仕事 2012/04/04記事より画像拝借。
机左端に見えるのがコピック)

私が今まで見たカラー原画の中で一番すごいと思ったのはまつざきあけみだが、カラーインクを使用していて目を瞠るような透明感があって、それは印刷物としてのラチチュードの範囲外なのでその透明感を再現することは不可能だと思った。しかし尾田栄一郎の場合は、印刷物としての仕上がりを逆算して塗っているので、かなりの高い比率で原画が再現されているように思う。たとえばルネ・マグリットも印刷物にしたときの色再現性が比較的高いがそれと同じようだ。

今回の展示は、あくまでその作品についてだけであったが、ONE PIECEに影響を与えている音楽とか文学とかいろいろな要素があるはずで、そういう方向からのアプローチができるともっと興味深いものがあると思う。
私はONE PIECEについてはごく浅い読者でしかないし、ネットなど見ているとものすごく深いところまで捉えているマニアな方がたくさんいるので、これ以上とてもヘタなことなど書けそうもない。

といいながらヘタなことを書いてしまうのだが、ニコ・ロビンとクロコダイルの関係は、ニコという名前からわかるように歌手のニコ (クリスタ・ペーフゲン) とアンディ・ウォーホルの関係性を暗示していて、つまりウォーホルにとってニコは 「アンディの夜のおもちゃ」 (バンコランの夜のおもちゃのパロディ) であって、ニコは性的なものを含めたサディスティックなディシプリンをウォーホルから受けていたはずである。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに無理矢理入れられたときだって彼女は居場所が無かったはずであり、だからニコがウォーホルから独立するとき (=ロビンがクロコダイルから独立するとき) が彼女の覚醒のときなのだったと思う。もっともロビンの場合は、その後、もう一波乱あったわけだが。
ニコの亡くなりかたは自転車で転んでアタマを打ってそのままという、とてもあっけなく唐突なことだったそうで、坂井泉水が亡くなったとき私が思い浮かべたのはニコのことだった。

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↑ Nico (1964)

それとONE PIECEにおけるキャラクターの過剰なデフォルメが気持ち悪い、それで読まないという人も多いのだが、私も最初見たとき拒否反応があったのだけれど、と同時に直感的に 「あぁ、これはドノソだ」 と思った。ホセ・ドノソはチリの作家だがラテンアメリカ文学の最高傑作『夜のみだらな鳥』はフリークスを描くことで特異な美学を形成している。つまり、より強い畸形がいれば、そんなでもない畸形は畸形として認識されないということだ。たとえばニコ・ロビンだってミス・オールサンデーの時は結構フリークスなのだけれど、周囲にもっとすごい怪物を配置することによってそれは意識されないことになる。
という比較論より、ドノソの幻想の組み立てかたとしての方法論がONE PIECEのフリークスに援用されていると私は思う。

それにしても尾田栄一郎が今、現役のマンガ家で、その作品を読める時代に私がいることはすごく幸せなことだ、というのが今日の展示を見てあらためて感じたことである。

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↑ 今日の戦利品
 「記憶」 が図録、「体感」 がパンフレット。


尾田栄一郎/ONE PIECE 第66巻 (ジャンプコミックス・集英社)
ONE PIECE 66 (ジャンプコミックス)

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