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モビールの思い出と影のささやき — シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』 [本]

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シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』(Cherie Priest/Boneshaker) は2009年に書かれたSF小説で、今年の5月にハヤカワ文庫SFで翻訳が出された。読んでみたのだがあまりよい読後感を得られなかった。こうしたブログでは、なるべくなら否定的な話は書きたくないし、どうしようかと悩んだのだが、さらっと書いておくことにする。

この作品は著者自身の言葉によればスチームパンクとのことであり、最近はネオ・スチームパンクなる言葉まであるようだけれど、そのベースであるSFそのものの捉え方が決定的に弱いので、SFに分類されながらもSF的風味に乏しい作品であるように思える。
スチームパンクというジャンルは、乱暴に言えば科学が蒸気機関を動力源として発達している世界での出来事・物語のことであり、いわばアナザーワールド、パラレルワールドの亜種であるが、この作品について、穿った見方をすればスチームパンクというのはメクラマシで、これはむしろ何かの象徴小説なのかもしれない、と思ってしまうほどである。

すごく簡単なあらすじを書くと、時代設定は1879年、南北戦争が続いているアメリカで、ボーンシェイカーという名の、地中を掘り進むドリルマシーンの暴走によって地下から有毒ガスが吹き出したシアトルは、重くて下に溜まるガスを封じ込めるため、高い塀に囲まれている (つまり閉鎖された腐海である)。塀の中は死の街であり、ガスとゾンビ (腐れ人と呼ばれる) で満たされているのだが、その中に侵入していった息子・ジークと、彼を助けに後を追ってゆく母親・ブライアの冒険譚である。
ジークがなぜ塀の中に入っていったのかというと、ボーンシェイカーを暴走させたのは彼の父親・レヴィであり、街を壊滅させた犯罪者として記憶されている人なのだが、その父親の汚名を晴らすため、何かを探しに入ったのが動機ということになっている。
そんな毒ガスの充満した世界なら放棄してしまえばよさそうなのに、そこに人が群がり続けているのは、毒ガスからドラッグが抽出でき、それを商売にしている者がいるためなのである。

この終末世界的パターンの設定自体はすぐれたイメージであり、飛行機でなく飛行船の飛び交う空というのも魅力的に思えるのだが、いざ読んでみると、話が晦渋で全く進まない。文庫本で600ページもある本文の200ページくらいまで、つまり最初から3分の1は話が暗くて動きがなくて、これはつまらないなぁと思わせるのに十分な辛気くささだ。
ルーディという、ジークを連れ回す不良がいるのだが、彼に魅力の無いことがつまらなさを助長している。ともかく悪役に魅力が無いというのは致命的だ。
もっともジーク自身も主人公のひとりなのに、共感しにくいキャラクターであるのも一因だ。つまりジークがなぜ父親の汚名を晴らそうと思ったのか、そこまでして危険の中に飛び込んで行ったのか、その必然性が乏しいのだ。

もうひとりの主人公、ジークの母親であるブライアは、女性である作者の思い入れもあるのか、それなりに描かれているが、その性格はいわゆるブレヒト的な 「肝っ玉おっ母」 であって、映画《ターミネーター》のサラ・コナーを連想させる (ちなみにSFマニア的視点で《ターミネーター》を見た場合、シリーズでは1がカルトではあるけれど最高傑作であり、2以下は制作費こそ多くなったのかもしれないが何か違う方向に行ってしまっているように見える。それはリンダ・ハミルトンがウケ過ぎてしまったからだと思う)。

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アメリカ映画に出てくる女性/母親が強い性格のイメージを持ちだしたのはいつ頃からであろうか。強い女、自立する女であるだけでなく、男を必要としない、男よりも執着する精神的な強いパワーと、時として強い母性を必要以上に感じさせる女性像はフェミニズムの擡頭とも合致しているが、それはやはり観客がそうしたキャラクターを望むからなのだろうか。
フェミニズムを否定するわけではないが、時としてそれはもはやステロタイプの衣をまとい始めているようにも思える。というかアメリカ人の平均的な思考はそうした女性像を本当に理想とし、求めているのだろうか。
こうしたたくましい女とたよりない男という構図は日本のアニメでも同様で、ナウシカもエヴァンゲリオンも、そしてCLAMPも圧倒的な女性の優位を描く。

しかしこれだけ既視感や類似性を伴う作品も珍しい。ブライアの勤務先のポンプ系の仕事はバチガルピの 「第六ポンプ」 を連想させるし、片腕のルーシーのその腕は、腕を切り落とされた後のルーク・スカイウォーカーのようだし、ミス・アンジェリンはドクター・クレハのようだ。たまたまなのかもしれないが。
なにより壮大なはずだった話がだんだんと狭まり、家族内の話に矮小化してしまう点では《スターウォーズ》をトレースしているように見える。

プリーストのストーリーは、ジークとブライアが会えるのか、というサスペンス的構造を持つと同時に、レヴィは本当に犯罪者だったのかという謎と、レヴィに似たミンネリヒトという科学者の出現によって推理小説的テイストを帯びてくる。
ただ、ブライアのレヴィとミンネリヒトに対する言及には、その途中で、推理小説でいう 「信頼できない語り手 unreliable narrator」 的部分があり、つまり 「できの悪い推理小説」 風な味わいがあることも否定できない。
このへんはこの小説の核心の部分なのではっきりと書かないようにするが、テクニックとしての 「信頼できない語り手」 が出てくるのならば必ずそれに対するどんでん返しがあるはずだ、と読者は期待するものであって、『ボーンシェイカー』は、そこまでの要望に応えてくれる作品では残念ながらない。むしろ種明かしが曖昧で尻つぼみな 「できの悪い推理小説」 のようでさえある。

と随分否定的な意見ばかり並べたが、《E.T.》あたりから見えてきた、荒んでいて必ずしも幸福でない生活感と、少なくとも表面的には強く見えるような女性像を描くことのほうが現在では無難であるというような方向性が見えてくる。たとえばレイア姫とルークでも、マチルダとレオンでも同様である。そういうふうに見た場合、この作品もアメリカの抱く価値観というか、平均性を如実に示すストーリーテリングであって、その点については (これは皮肉でなく) すこぶる興味深く読んでしまった。
この方向性はアメリカの 「いま」 を顕す方向性でもあって、このプリーストの作品もその方向性に対しては従順である。その指し示す先は、かつてのティプトリーJr.やル=グィンとはやや異なるイマジネーションを基にしているように思う。最初から映画化を想定しているというのも違和感を持つことのひとつである。それは結果として小説世界としてのスペースを狭くしてしまうことに他ならない。

  照明はチリチリいう音とともに、細かく分かれた光線を落とし、床一
 面に描かれた白い光の模様が、影に向かっておかしなことをささやいて
 いる。それを見てブライアが思い出したのは、レヴィと子供を持つこと
 を話し合っていたときに、彼が作ったモビールだった。
         (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』p.458)


シェリー・プリースト/ボーンシェイカー (早川書房)
ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市 (ハヤカワ文庫SF)

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