喪失感について — 伊藤正道展・2 [アート]
先日、伊藤正道展 「僕への小さな旅」 に行ったこと (→2013年02月16日ブログ) を書いたが、giogio factoryからそのお礼状のポストカードが送られてきた。〈four apples〉と名付けられた作品が印刷されていて、宛名面にはお姉様が文章を書かれている。あらためて正道氏の急逝が惜しまれる。
絵は淡く濁ったピンクを背景にして、おじいさんと少年が大きな器のようなもののフチに腰掛けていてそれぞれに青いリンゴを持っている。床にはさらに2個、リンゴがある。全部で4個のリンゴ。
絵本『マフィー君とジオじいさん』(2000年) のあとがきで伊藤正道はこの2人について書いている。
ジオじいさんの中にぼくの子ども時代の夢があり、マフィーくんの中に
ぼくの子ども時代の姿があるようです。
ふたりの出かけるのはカラフルなドリームランドでありネバーランドである。ジオじいさんはマフィーくんにとっての遊びの師匠であり、楽園への案内人なのだ。また明日、今度は何して遊ぼうか、その楽しみは尽きない。
もう少し前の作品『三日月の夜』(1997年) では、おじいさんはすでに亡くなっていて、少年は犬のペロと一緒にセロファニア国へ旅に出かける。三日月に向かってどこまでも歩いて行くとセロファニアに辿りつくのだという。
だがなかなか辿りつけないセロファニア。途中で出会うティア・クラウンもピアノ弾きのロボットもなぜか悲しい。その悲しみの黄昏のような雰囲気はカラフルに見えるCD-ROMゲーム〈Cellofania〉にもひっそりと存在していた。
少年 (子ども) もおじいさん (年寄り) も、社会的な目から見れば〈数に入らない世代〉のひとびとだ。伊藤正道はその絵とストーリーの中にこの世界を動かしているはずの一般的な壮年のひとびと (オトナ) を描かない。それはチャールズ・M・シュルツがスヌーピーのコミックスの中で、基本的にオトナをオミットしているのと通じる。
そもそもパーティとかカーニバルとか、そうしたお祭りの後には物憂い悲しみのようなものが澱となって残るものだが、そして絵本に描かれるパラダイスはそうした自分のイマジネーションの具現化であって、その世界へのトリップ感覚が読者をも楽しませるのだろうけれど、でもそうした喧噪が静まってからの、アフター・アワーズの悲しみと伊藤正道の淋しさは少し異なるようだ。
ハイになるような喧噪も狂奔もなくて、そのかわりにずっと持続している通奏低音のような淋しさの音があって、それが私には喪失感のようなイメージとして感じられてくる。
〈four apples〉の床にころがっている2個のリンゴの持ち主は誰なのか。それとも持ち主は不在なのだろうか。このポストカードの絵からもっと色々なことを考えたのだが、あえて書かないことにする。
伊藤正道/マフィーくんとジオじいさん (小学館)
伊藤正道/三日月の夜 (ART BOXインターナショナル)
コメント 0