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バレエ音楽について — バルトーク《かかし王子》を聴きながら [音楽]

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昨夜、準・メルクルが振る《ダフニスとクロエ》をTVで見ていた。すごく丁寧な指揮で美しいラヴェルが甦っていた。
バレエ・リュスによる《ダフニスとクロエ》の初演は1912年6月8日で、その約1年前の6月13日にはストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》が初演されている。1909年からのバレエ・リュスの活動とそれにかかわった人々のムーヴメントは、100年も過ぎた現在から歴史として振り返ってみると恐ろしいほどの魅惑に満ちていて、ディアギレフのようなカリスマ的人物が歴史の流れの中に突然現れて消えていくといくような現象は神の悪戯に違いないと、いつも思うのである。

この前のブログでバルトークの交響詩《コシュート》について書いたが (→2013年03月14日ブログ)、この《コシュート》の収録されている Hungaroton/コチシュ盤のもう1曲はバレエ音楽《かかし王子》A Fából Faragott Királyfi/The Wooden Prince である。
この前《コシュート》の記事を書くために繰り返し何回か聴いていたのだが、《コシュート》が終わってもそのままストップしないでおけば、プレーヤーは自動的に《かかし王子》のトラックを再生し始めるわけで、それをなにげなく聴いていてその音に少しびっくりしてしまった。「かかし王子ってこんな曲だったっけ?」
その音は色彩感に溢れているだけでなく何よりも官能的で、むしろセクシャルな響きを秘めているようにさえ思えた。
もっとも、音楽の批評において色彩感という表現がよくなされるが、バルトークの色彩はラヴェルやストラヴィンスキーとは違っていて、ではどう違うのかを説明することが今の私にはまだできない。これは今後の課題である。

バルトークのステージ用音楽は3曲あって、《青髭公の城》《中国の不思議な役人》そしてこの《かかし王子》である。順に、オペラ、パントマイム、バレエのための曲であり、つまりこれらのジャンルは彼の作品履歴の中には各1曲しか存在しない。
青髭やマンダリンに較べると、かかし王子はやや知名度も落ちるし、地味な印象があるが、そもそもバレエ音楽とは生身の肉体を動かすための強靭な音が必要なだけでなく、禁欲的でソフィスティケートされている外見にもかかわらず、実はセクシャルなイメージが内包されているという特質を備えているのだと思う。そうした特質がコチシュの音によって私の中に呼び覚まされてしまったのだと言ってもよい。
特に青髭におけるバルトークのセクシャルさは、ストーリーの表面的には何も事件が起こらないということが、かえって強く暗示される何かを意識させる。

そもそもクラシカルな、あるいはトラディショナルな芸術は、ソフィスティケートされたステージ上に存在するもので、澄ました上品さが真髄のように見えながら、その背後に見え隠れするセクシャル度はむしろ異常に濃かったりするものだ。つまり現代的な露出の多い衣装によるダンスよりも、クラシック・バレエのほうがセクシャル度は高い。
突然、たとえが能の話になってしまうが、「井筒」 は、ソフィスティケートされて見えにくくなっているが、その官能性とトランスヴェスティスムを感じることができるかどうかが鑑賞者のレヴェルを決めるのではないかと思う。昔を懐かしむ女が、業平の姿をして井戸の水に自分の姿を映す。「女とも見えず。男なりけり。業平の面影」 なのであるが、シテの多くは男性であり、男が女の姿をして、その女がさらに男装するという倒錯性に井筒のテーマがあるのだとするのではまだ半分しか正解ではない。女が男装するという行為は、男が女装するという行為の裏返しであって、それをストレートに出さずに女が男装するという話にしたのが世阿弥の秀逸な手法なのである。ソフィスティケートとはそういうものだ。

ところで (これは以前にも書いたことだが)、バルトークについて、ネットのブログなどを周回してみると、フィボナッチ数列とか中心軸システムとか、レンドヴァイの説について掲げている記事があったりする。最初に読んだときは面白くてハマッたのだけれど、今更、レンドヴァイの亡霊につき合うのは古過ぎる、と私は直感的に感じる。たぶんバルトークはレンドヴァイの分析したようなことは考えていなかっただろうし、そうした技法を援用したことがあったとしても、それは楽曲構造の根幹ではない。
コチシュの演奏、特に彼が指揮をしている最近の演奏にはそう考えさせる何かがある。私はブーレーズのバルトーク演奏も信頼するが、ブーレーズは今まで連綿と続いてきたバルトーク解釈の上に乗っていて、あまり否定的な強い欲求は感じられない。そういうふうな視点で見ればブーレーズはごく伝統的なのだ。しかしコチシュには、今までの解釈と異なる何かを感じる。

フィボナッチ数列と同様に、バルトークにおける民族音楽のフィールドワーク、それへの傾倒というのも一種の 「ひっかけ」 である。もちろん彼は戯れにフィールドワークをしたわけではないし、その行為自体は真摯であるが、それがその後の作品に正当に反映されているかというとそうではないように思える。そうした民族音楽的テイストは特徴があるから目立つのだけれど、彼の基本は西欧伝統音楽から逸脱するものではない。

ひとつのヒントとしてバッハがある。バッハに対するバルトークのもっとも顕著なリスペクトは無伴奏ヴァイオリン・ソナタであるが、それだけに限らないように私には思える。後期になるにつれて、作品のタイトルは固有名詞を失い抽象的になっていった。音楽の抽象性への傾斜ということではベートーヴェンの後期と似ている。

またバルトークは、未完の作品こそあるが、原則として交響曲というタイトルを用いなかった。そして完全に調性が失われることもなかった。これも彼の限界というようりは彼のスタイルであり美学の帰結が調性の維持に固執したのだと私は感じる。

《かかし王子》は当時、バレエ・リュスが大評判となり、1912年にブダペストにも公演にやってきて、その評判を聞き、実際に観たミクローシュ・バーンフィが同様の作品が欲しいということで、ベーラ・バラージュ/ベーラ・バルトークというコンビに書かせた作品である。
ストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》と《かかし王子》は、わら人形という設定では似ているようで中身は少し異なる。ペトルーシュカはピノキオのヴァリエーションであるが、かかし王子は、その導入部で森が魔力を持っていることでは 「眠れる森の美女」 風でもあり、かかし王子自体の比喩は、いまひとつよくわからない。

コチシュには過去にフィリップスで録音したバルトークのピアノ・コンチェルトがあり、その時も堅実でよい演奏だとは思ったがそれ以上の感想はあまり持たなかった。だがこの、フィリップス盤のパッケージとカラーリングの似た新しいフンガロトンのバルトーク・シリーズはコチシュをメインのひとりとしているように思えるし、コチシュもその期待にこたえているような気がする。


Zoltán Kocsis/Bartók: Kossuth・The Wooden Prince (Hungaroton)
Wooden Prince (Hybr)

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