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シルヴェット・ミリヨ『弦楽四重奏』を読む・1 [音楽]

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Ignaz Schuppanzigh

ハイドンの弦楽四重奏曲のCDをサーチしていたらシュパンツィヒ・クァルテットというグループがあって、ピリオド楽器を使用しているらしい。ハイドンだけでなくリースとかブルネッティといった作曲家の作品も演奏していて興味をひく。というより、そのシュパンツィヒという名前が魅力的だ。

ベートーヴェンとラズモフスキー伯爵の関係のことを書いたとき (→2013年02月10日ブログ)、唐突にシルヴェット・ミリヨを引用してしまったが、シュパンツィヒというヴァイオリニストの名前を教えられたのがこのミリヨのクセジュ文庫だったからである (Schuppanzigh はシュパンツィクと発音するべきだという意見のブログも拝読したが、人名というのは何とも言えないのでとりあえず通例のまま、シュパンツィヒとしておく)。
シュパンツィヒはリヒノフスキー侯爵のお抱えのクァルテットの1stヴァイオリニストで、ベートーヴェンはリヒノフスキーやラズモフスキー庇護下にあったとき、このシュパンツィヒ・クァルテットに弾かせることを想定して曲を書いたのだと言われる。もっとも今存在するシュパンツィヒ・クァルテットはこのシュパンツィヒと直接的関係があるわけではなく、だから正確には新シュパンツィヒ・クァルテットである。でもシュパンツィヒという由緒ある名前に心が動かされる。

シュパンツィヒは一時期、サンクトペテルブルクにいたことがあり、私の偏愛するヴュータンとの関係があるかもしれないという期待もあったのだが、ヴュータンはシュポーアとの面識はあったが、残念ながらシュパンツィヒとはやはり世代がずれていたように思える。
またリヒノフスキーやラズモフスキーとベートーヴェンとの関係もいろいろと葛藤があったようであり (ベートーヴェンはリヒノフスキーに反逆し大げんかをしたことがあったという)、そしてシュパンツィヒ・クァルテットの帰属もリヒノフスキーからラズモフスキーへと移った時期があったようだが、このへんはベートーヴェンの歴史を詳しく読んでいくと現代の音楽業界と変わらないどろどろした部分がすでに存在しているかのようだ。

さてシルヴェット・ミリヨ Sylvette Milliot のクセジュは『弦楽四重奏』という書名で、入り込むのにはちょっと読みにくい印象もあったが、弦楽四重奏というジャンルを簡単に解説していて楽しめた。以下は内容の簡単なまとめである。

当時のシュパンツィヒ・クァルテットは、それまでの貴族お抱えの音楽家から職業的演奏家へと時代が動いていく頃の最初のグループだったといえる。そうした潮流はハイドンの項でも述べられていて、ハイドンのop.71やop.74はザロモン四重奏曲とも呼ばれ、それらの作品は 「貴族的サロンという限定された聴衆の前でなく」 て、ザロモンのコンサートという 「一般大衆向けに設営されたハノーヴァー・スクウェアの一般聴衆の前で演奏された」 とある (p.22)。
ヨハン・ペーター・ザロモン Johann Peter Salomon は演奏者であるとともに、このように音楽をビジネスとしてかたちづくったいわゆる興行師でもあり、ハイドンをロンドンに招いたことでも知られる。

ザロモンについてミリヨは、

 ザロモンのヴァイオリンの腕前は、エスタルハージ公のオーケストラの
 「コンツェルト・マイスター」 でハイドンとも面識のあったルイージ・
 トマシーニを凌ぐほどすぐれたものであった。ヴィオッティがイギリス
 で開発した最新の技術の進歩を彼は高く評価していた (p.23)。

と書いているがヴィオッティの最新の技術というのが具体的にどういうものなのかがよくわからない。ただヴィオッティがそのテクニックにおいて一種のカリスマ性を保持していたのではないかというふうに読み取れる。

 イタリアのコレルリ、タルティーニ、ヴィオッティ、フランスのルクレ
 ール、アヴィニエスが当時 [18世紀末] を代表する最高のヴァイオリン
 奏者である (p.33)。

とも書いている。
ベートーヴェンが弦楽四重奏曲を書いた時期とその空白の理由については、すでに前記ブログに書いたが、シュパンツィヒの存在がベートーヴェンにとって弦楽四重奏曲を書こうとする大きな動機のひとつだったことは確かである。
その後期の弦楽四重奏曲についてミリヨは、

 耳が聞こえないため外界と遮断された孤独な音楽家の瞑想の成果である
 と言えるこれらの作品 [後期弦楽四重奏曲のこと] は、音楽を複雑で自
 発性に欠けるものにし、時には晦渋きわまりないと思えるまでに押しす
 すめられた探究によって産み出された (p.77)。

と規定する。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を3つの時期に分けると、第1期は1798〜1801年出版の6曲。第2期は7〜9番のいわゆるラズモフスキー3曲と10、11番。そして晩年の12〜16番ということになるが、第1期のフォロアーはC・G・ラインガー、ケルビーニ、G・オンスロフであるとする (p.81)。
シュポーアは34曲もの弦楽四重奏曲と1曲のピアノ五重奏曲を書き、ベートーヴェンと親しい存在であったがそのシュポーアについては

 きわめて個性的な [シュポーアの] これらの作品は、輝かしいチェロ奏
 者であっただけでなく、誠実な作曲家でもあったこの芸術家の人格を忠
 実に反映している (p.83)。

と書きながらも、シュポーアやK・M・フォン・ウェーバーなどを 「あまり革新的でない作曲家のグループ」 とも形容している。
シュポーアとかサリエリのような作曲家は2流なのだけれど、でもシュポーアについていえばその2流さから滲み出る暖かみが存在するように私は思う。サリエリもミロシュ・フォアマンの映画《アマデウス》では悪役として描かれているが、モーツァルト毒殺説という噂は当時からあったようでベートーヴェンはその醜聞についてサリエリの立場を案じていたという。歴史とは少し経ってみなければ真実が見えてこないこともあるし、また同時にいくらでも捏造もできるのである。

弦楽四重奏曲における最も重要な作曲家であるベートーヴェン以降、メンデルスゾーンを経てシューベルト、シューマン、ブラームスへと歴史は流れるが、ミリヨに拠ればベートーヴェンとシューベルトに交流はなくて、それは世代間および階級的な断絶であり、なぜならベートーヴェンは貴族社会に庇護される音楽家としての最後期の存在であるが、シューベルトはフランス革命の影響による前衛的思想の中にある環境だったとのことである。
そのシューベルトも初期作品はサリエリの生徒としての作品に過ぎず、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの影響下にあったと説く。
だが1819年の五重奏曲 「鱒」、1824年の八重奏曲あたりからシューベルトはその真価を見せはじめ、そして四重奏曲断章を経て 「死と乙女」、G-dur D.877に至る作品群はとりわけ重要である (p.87) とミリヨは書いている。そしてベートーヴェンが最も活動した頃、シューベルトがその存在を現し始めた頃のウィーンはミリヨの次の言葉に集約されている。

 十九世紀初頭のウィーンは弦楽四重奏を偏愛した都市であった (p.85)。

(→ 2につづく)


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シルヴェット・ミリヨ (山本省・訳)/弦楽四重奏 (文庫クセジュ/白水社)
弦楽四重奏 (文庫クセジュ)

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コメント 2

Loby

シュパンツィヒ・クァルテットの演奏をYoutubeで聴いてみました。
なかなか素晴らしい演奏ですね♪
(この程度の貧弱な感想しかできません。^^;)
by Loby (2013-05-09 22:58) 

lequiche

>> Loby様

いえいえ、いつも暖かいコメントありがとうございます。
そしてわざわざ探して聴いていただき申し訳ありません。
何か動画をリンクすればよかったのですが、
迷ってしまってリンクしませんでした。(^-^;)

弦楽四重奏団は作曲家や演奏家の名前を冠したグループが多く、
しかも名前は同じでも
時期によってメンバーが違っていたりしますから、
好不調の波もあって面白いです。
by lequiche (2013-05-10 00:22) 

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