いつの日も曇り空 — トマス・スタンコ《Wisława》 [音楽]

Wisława Szymborska (1923-2012)
トマス・スタンコの《Wisława》を聴く。
スタンコ Tomasz Stańko については以前書いたことがあるが (→2012年02月14日ブログ)、なによりもその暗くて体温の低い音色に特徴があって、この暑熱の今の時期にはいいのかもしれないとも思う。
タイトルの 「ヴィスワヴァ」 とはポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカ Wisława Szymborska のことを指し、昨年2月に亡くなったのを悼んで捧げられたCDアルバムである。2012年の6月4〜6日、ニューヨークで録音された。
前回とりあげたスタンコのアルバム《Litania》は、ポーランドの作曲家でポランスキーなどの映画音楽も多く手がけたクシシュトフ・コメダへのオマージュであったが、今回のはシンボルスカへのオマージュというわけである。
シンボルスカの詩は難解ではなく、しかし知的であり感情に流されない。1996年のノーベル文学賞を受賞している。1993年の詩集『終わりと始まり』の 「眺めとの別れ」 はT・S・エリオットの『荒地』の冒頭〈埋葬〉の 「四月は残酷極まる月だ」 への返歌のようにして始まる。
眺めとの別れ
またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない
わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
草の茎が揺れるとしても
それは風に吹かれてのこと
(沼野充義訳)
かつてコメダも、シンボルスカやチェスワフ・ミウォシュの詩に音楽を書いた。シンボルスカはポーランド人にとってはカリスマであり、スタンコがコメダにならってシンボルスカへのレクイエムとして曲を書いたのもまた当然の帰結だろう。
スタンコに対するインプレッションとして、ポーランドの、あるいは北欧のマイルスといった形容もあるようだが、それはスタンコもまた自国において有名でありカリスマ性を備えているからマイルスという安易な比喩が用いられたのに過ぎなくて、マイルスとスタンコの音楽は根本的に違うと思う。それは思想的にも、また技術的にも。
マイルス・デイヴィスの特徴としてたとえばミュート・トランペットがある。本来、音を弱めるために使用するミュート (弱音器) を付けた状態でわざと強く吹くことにより、マイルスの独特な音色がかたちづくられる。つまりそれは強いテンションの音といってよい。
だがスタンコの音は、悪い表現をすれば時に弛緩していて、そのユルサとかリズムのルーズさが、わざとなのかそれともヘタなのか判然としないところがある。簡単に言ってしまえばそれが 「味」 なのだろう。
ゆっくりなリズムの時、そのスタンコの、実際にはそんなことはないのだが、まるで唇がゆるいのではないかと思わせてしまうようなルーズで不安定なトーンは、かえって魔術的な魅力を発揮する。
それでいて、たとえばこのアルバム1枚目、タイトル曲である1曲目〈Wisława〉が終わり、俄然スピードのあるハードバップのようなニュアンスの〈Assassins〉では、マイルスのようなテンションがない分、そのフレーズのなめらかさは暗い輝きを放つ。スタンコは、前のブログにも書いたが、その色合いが常にダークなのだ。というよりそれは無彩色で色そのものが稀薄である。
そう考えているうちに私の中で、幾つかのモノクロームなイメージが結びついた。それはアブデル・ラーマン・エル=バシャの弾いたショパンの第3番ソナタであり、デヴィッド・ギルモアのグダニスクの造船所でのコンサートである (→エル=バシャ/2012年10月17日ブログ) (→ギルモア/2012年02月09日ブログ)。
エル=バシャの弾いたショパンは、曇り空のような灰色のショパンであって、またギルモアの大コンサートは、重量級の密度の濃い演奏でありながら、もはや派手な色彩でなく、ギルモアの弾く黒いストラトのように闇に響く音である。
このスタンコと、エル=バシャのショパンと、ギルモアのグダニスクをつなぐ共通項はポーランドという名の影。きっと私の追い求めるものにはいつも色彩が欠けているのかもしれない、そのモノクロームの中に求める幻影があるのではないか、ということを漠然と考えてみる。
こうしたスタンコのクール・ビューティのような佇まいは 「結果としてオシャレ」 なアイコンとして成立してしまっているが、それはたぶんECMというブランドが撒いた錯誤の種子であり、擬装であって彼の本質はそうではないはずだ。
もっといえば、オシャレな音楽とは 「偽」 音楽であって、本来の音楽とはもっと夾雑物の無いものである。映画のサウンドトラックとは総合的芸術として成立している映画の仕様におけるひとつのピースであって、だからサントラというテリトリーが存在するのである。
PVとかイメージ・ムーヴィーというようなあらかじめ映像+音楽をドッキングさせたセットは、シンプルな音楽こそが表現のスタンダードとして位置づけられるというような考え方からみれば、それ自体がいわばノイズを包含した非・正統的な作品形成であるという視点もあり得たのだろう。しかし今では、そうした映像主体のコンセプトが正統な道を奪っている。それは音のみで屹立する音楽が不可能になりつつある前触れかもしれない。
もっとも音楽がライヴで演奏される場合、それは常に視覚効果を伴うものである。しかし、だからといって再生音楽 (オーディオ) においては映像 (動画) が常に音楽とペアで存在しなければならない理由は存在しない。などといいながら、私はYouTubeの動画のリンクを貼り付けているのだけれど、それでいて私は、本来ピュアであるべき音楽に付随する映像は、まやかしだと思うのである。

Tomasz Stańko
Tomasz Stanko/Wisława (ECM)

Tomasz Stanko/Litania (ECM)

Tomasz Stańko/Little Thing Jesus
http://www.youtube.com/watch?v=94dkiKOa6kk
Tomasz Stańko/Oni
http://www.youtube.com/watch?v=c9ZoAVB1kok
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