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飛べないピーターパン —— トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』(1) [本]

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Thomas M. Disch (1940〜2008)

人間の記憶とは、やがて風化し溶解してゆくもので、たとえば1冊の小説を読んだとしても、記憶として残るのはほんの数パーセントからせいぜい十数パーセントでしかないと、どこかできいたことがある。

トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』も、以前読んだことのある本で、今回再読した国書刊行会版は、サンリオ文庫と同じ友枝康子による改訳版とのことだが、前回の記憶は薄れていてほとんど痕跡をとどめていないようだった。
だが不思議なことに、ストーリーは思い出せなくても、その作品があらかじめ持っていて自然と浮き出てくる印象や雰囲気は色濃く残っているものなのである。その色はペシミスティックで、涙を流すよりも悲しい味がする。

「歌の翼に」 (On Wings of Song) というタイトルから連想するのはメンデルスゾーンのよく知られた歌曲 Auf Flügeln des Gesanges であって、巻末の若島正の解説によれば、その歌詞はハインリヒ・ハイネに拠るものだとのことだが、つい先日、過去の本を整理していたら、たぶんまだ十代の頃に買ったハイネの詩集が出てきて、その偶然と気恥ずかしさに苦く微笑むしかなかった。

1979年に上梓されたディッシュのこの作品は、ジャンルとしてはSFである。21世紀になってからのSFも時に読んではみるのだけれど、単なるページ数の消化に終始する作品であることが多くて、センス・オブ・ワンダーを感じることはほとんどない。でも、このディッシュは、ページ数の残り少なくなるのが惜しくて、少しずつ楽しみながら読み進めていた。こんな本は滅多にない。
そこから醸し出されてくるのはSFの常套であったセンス・オブ・ワンダーとは違うのだが、心がしんとしてしまって、だからそれを言葉にすることが億劫で、文章にしなくてもいいやという誘惑もあるのだが、でもとりあえずたどたどしくでも書いてみようと思う。

『歌の翼に』はダニエル・ワインレブという男の生涯を伝統的な手法により描いた小説で、その筆致はいわゆる教養小説のそれであり、より正確にいうのならそのパロディである。イギリスに渡り、当時の先進的なニューウェーヴ運動の作家であったディッシュというイメージからすれば意外とも言える形式である。
そこから滲み出てくるのはアメリカ中西部の、保守的な土壌の香りであり、その憂鬱さは先行するディストピアを描いた古典SFであるジョージ・オーウェルの『1984年』という年まであと5年という時代としてのアメリカを映し出している。
全然内容は異なるのだが、私がこの暗鬱な世界から連想したのはコナン・ドイルの『恐怖の谷』であった。

     *

以下は簡単なあらすじである。

その世界では 「翔ぶ」 ことのできる人間がいる。飛翔装置という機械に入って、歌うことにより翔ぶのだが、外から見るとそれは幽体離脱に似ていて、翔んで行ってしまった人は見えず、後には抜け殻のような肉体が残る。
元の肉体に戻って来る人もいるが、そのまま戻って来ない人もいる。誰でもが 「翔べる」 わけではなく、翔ぶのには 「歌の力」 が必要なのだ。翔ぶ人はフェアリーと呼ばれる。
翔ぶことに憧れる人は多いが、世間的には翔ぶことはあまり好ましく見られていない。そのため、翔ぶための触媒である音楽も同様に好ましくない行為であり趣味であると思われている。

主人公ダニエル・ワインレブはアメリカ中西部アイオワ州エイムズヴィルに住んでいる。ダニエルの母は彼が5歳の頃、翔ぶのを学ぶために失踪したが、4年後に翔ぶことができずに戻ってきた。
ダニエルの小学校の担任ミセス・ボーイズモアティアは音楽好きで、週末最後の時間、生徒たちに歌を歌わせていたが、音楽を否定するアンダーゴッド信者たちから嫌がらせをされることも多かった。
ダニエルは先生の家に行き、レコードを聴かせてもらったが、モーツァルトの弦楽四重奏は単調でつまらないとしか感じられなかった。

14歳のとき、ダニエルは友達のユージーンとミネアポリスに出かけるが、ユージーンの逃亡計画に利用されてしまう。ユージーンは行方不明となり、ダニエルはひとりで戻って来る。するとユージーンの父親はダニエルを恨んで手を回し、ダニエルは不当な理由で逮捕されてしまう。
刑務所はひどい場所だった。高い塀で囲われているわけではないが、囚人はP-W錠剤という薬を飲まされ、胃に定着した錠剤が刑務所の敷地の外に出ようとすれば爆発するという仕組みで拘束されていたのである。
刑務所内の管理も腐敗していて、ワイロを渡さないと満足な食事さえできなかった。
しかし囚人の中に歌の上手い男がいた。その歌を聞いてダニエルは、自分も歌いたい、翔びたいと思う。

法律が変わって釈放されたダニエルは高校に通学するようになり、そこでボウアディシアと出会う。彼女は町の有力者の娘で、種々の困難はあったが音楽が好きなことで意気投合し、2人は結婚することになる。
ハネムーンでニューヨークからローマに向かう日、その前に2人はニューヨークの 「第一飛翔基地」 に行って、翔ぶことを試す。
ボウアは 「翔ぶこと」 に成功するが、ダニエルは翔べずに後に残される。ローマ行きの飛行機に乗る時間も過ぎ、そしてボウアは帰って来なかった。しかし、2人が乗るはずだった飛行機は大西洋上でテロにより爆発する。2人はその事故で死んだことになってしまう。

ダニエルは30歳になり、偽名でニューヨークで貧しく暮らしている。翔んで行ったまま帰って来ないボウアの抜け殻の面倒をみている。
ところがあるきっかけからダニエルは、オペラの殿堂であるテアトロ・メタスタージオの座席案内係という職を得る。だがそこで、オペラを観に来ていたボウアの叔母ミス・マースパンにダニエルであることを見破られてしまう。
ダニエルはミス・マースパンにすべてを話し、ボウアの父親グランディソンには真実を知られたくないと頼む。そしてボウアの抜け殻の維持に、ミス・マースパンからの援助を受けることになった。

ダニエルはミス・マースパンの友人、ミセス・シッフと暮らすことになる。ミセス・シッフは高名なカストラート、エルネスト・レイの元妻で、メタスタージオのコピイスト (筆耕者) であり、編曲・改作の仕事をしている。
メタスタージオの案内係の仕事でダニエルはその容貌に助けられ次第に頭角を現し、収入も増えてくる。
ダニエルはエルネスト・レイに食事に誘われるが、それはレイのファンである女性からのラヴレターを、ダニエルが書いたものとレイが思い込んでいたことが発端だった。レイの求愛をダニエルは頑なに拒む。

ところがミス・マースパンが突然亡くなり、ダニエルには後ろ盾が無くなったので、ダニエルはレイに窮状を訴え、レイの男妾となる。
ダニエルは肌を褐色にさせられ、趣味の悪い派手な服を着て、股間には淫売のしるしである狂気帯という名の貞操帯をつけさせられる。

だが、やがてレイはダニエルを理解し、ダニエルはレイから歌を教えてもらうことになる。
ダニエルは小さなパーティで初めて人前で歌い好評を得る。そしてミセス・シッフの作曲したオペラでデビューする準備をするが、金銭的に窮乏し、ボウアの抜け殻を生かしておくのはもう限界だと思い始める。
ダニエルが思い切ってボウアの父、グランディソンに電話をしようとしたその時、ボウアが戻って来る。

ダニエルのデビューは大成功となり、彼は有名人となった。そんなダニエルにボウアは 「あなたも翔ぶことを覚えなきゃ」 と言う。ダニエルはインタヴューで、自分は翔べると嘘をついたことを告白する。自分はいまだに翔べない、翔べないような気がする、とボウアに言う。
ボウアは 「ここにわたしがいて、わたしの身体が滅んだらわたしも滅ぶけれど、向こうに行けば永遠にわたしは在る」 と言い、そして再び翔ぶ。ダニエルに、あなたは翔べる、あなたも翔んで来て、と言い残して。
それはもう戻って来ない飛翔で、その後彼女の身体を維持する装置は外され、彼女の肉体は死ぬ。ボウアは灰となり、彼女の生家の敷地に空からひっそりと撒かれた。

     *

この小説の時代設定は、小説の書かれた1979年からやや未来の話——つまり20世紀末あたりだと思われる。そこに描かれている世界は、食糧難だったりテロがあったりでそんなに明るい時代ではない。
最も重要なタームでありテーマであるはずの 「翔ぶこと」 についてはその原理も科学的説明も一切なされない。医療機器のような飛翔装置に入って、AEDのようなパッドをつけて歌を歌うことによって 「翔べる人は翔べる」 という仕組みでしかない。とするとこれは、一種のメタファーなのだろうか。

まずこの話の中でそもそも 「翔ぶこと」 が本当に実在しているのか、という問題がある。
翔ぶ行為とははたから見ると幽体離脱的な現象でしかなく、翔ぶことを可視的に認識することはできない。とするならば、翔んでいる間に飛翔者が見たことは、実は長い夢なのではないか、と疑われる要素が内在している。
手術室のランプが 「手術中」 と点灯するのと同じように、飛翔装置が 「飛翔中」 を表示したところで、それは単にランプのon/offにしか過ぎないのだから。

ジェームス・マシュー・バリーのピーターパンとウェンディの関係は、飛べる男と飛べない女であり、ウェンディは妖精の粉によって飛ぶことができたが、それも子どもの間だけで、やがて彼女は大人になり飛べなくなる。
このディッシュの小説では、それは逆転している。簡単に飛べてしまったウェンディと、どうしても飛ぶことのできないピーターパン。似非黒人の、股間を強調させたフェティッシュな装いのダニエルは、フェアリーのピーターパン/常人のウェンディの関係とは異なって、露悪的な外見を備えている陰画のピーターパンである。

似非ピーターパンはつまり似非フェアリーであり、夢にはかなう夢とかなわない夢があることを残酷に指し示す。
そしてその2分法は芸術論としても認識できる。つまり先天的才能があるかないか、という取捨選択に他ならない。ダニエルは努力の人ではあったが、その外見同様 「フェイク」 でしかなくて、というより、フェイクを顕在化させるためにその外見が与えられたのだと言ってよい。
大ヒットとなった『ハニバニー・タイム』のポスターでウサギの耳をつけてニッコリ笑っている似非黒人のダニエルもフェイクとしての成功であり、同時にショービジネスがフェイクであることの証左ともなる。 「想像してみてごらん」 と陰画のジョン・レノンも歌うかもしれない。

翔ぶことは幽体離脱的な現象というだけでなく、自分の肉体に戻って来ない飛翔者は自殺とどこが違うのか、という見方も可能である。時の政府が飛翔を排斥し迫害したのも、まさにそのネガティヴな部分にある。
一方で、この小説の中では幾つもの自殺が描かれる。翔ぶことのできない人の自殺はリアリティに満ちている分、翔ぶという 「きれいごと」 の飛翔を批判しているようにも読み取れる。翔ぶ自殺と翔べない自殺は、すごく抽象化され変質した人種差別を連想させなくもない。

翔ぶことの影になりがちであるけれど、この小説におけるディッシュのもうひとつの重要なアプローチは宗教 (キリスト教) である。宗教に対するディッシュのこだわりは強い。ダニエルが刑務所内でむさぼるように読む本は、ジャック・ヴァン・ダイクの宗教書であるが、それはレストランの広告を兼ねた内容であり、打算的な御利益宗教でしかない。
一方で、アメリカ南部を中心とした保守的で反動的な層にはアンダーゴッド信者が存在していて反目し合っている。つまりどちらも本来の宗教的な精神性からは遠く、それはその時代のおざなりな宗教への、ディッシュの絶望と蔑視を表している。
下卑た宗教家であるヴァン・ダイクは西洋文明に対して悲観的で、それはやがて終焉すると説くが、文明が崩壊しつつあるというこうした認識は『ねじまき少女』のSF作家、パオロ・バチガルピの終末史観に近い (バチガルピについては→2012年03月06日ブログ、2012年03月12日ブログを参照)。

まことの宗教とは何か、と模索するペシミスティックだけれど真摯なダニエルの問い (p.369) は上記のいずれでもない宗教への帰依がほの見える。それはヨハン・セバスチャン・バッハへの憧憬によってあらわされるが、おそらくこの時代、バッハは不在なのだ。かつてメンデルスゾーンが発掘するまで埋もれていたバッハのパッションのように、宗教的にも音楽的にもこの世界が暗黒時代であることをその記述に漂わせている。

巻末の若島正の解説によれば、ディッシュは空を飛ぶ夢をときどき見て、その経緯を書きたいと思ったが、それをスーパーマン幻想にはしたくなかったという。そのアイデアのエッセンスは How to Fly (1977) という短編に書き留められたままだった。長編への変貌となったきっかけは、ジョン・バージャーの評論集 The Moment of Cubism (1969) だったという。

  バージャーが言う 「キュビズムの瞬間」 とは、キュビズムの傑作が輩
 出した一九〇七年から一四年までの短い期間を指す。その期間は、ヨー
 ロッパにおいて時間と空間の概念が根本的に変化したときであり、今こ
 こ、という現前からの解放が謳われた。その一つの象徴となるのが、当
 時の飛行機で、キュビズムの詩人であったサンドラールやアポリネール
 の詩には、超越のメタファーとして飛行機がしばしば登場する。
 (p.417・若島解説)

そしてアポリネールの詩の一節を読んだとき、『歌の翼に』のアイデアとプロットの大半が思い浮かんだのだという。

ギヨーム・アポリネールに代表されるキュビズムは、art nègre (黒人芸術=アフリカ芸術) への理解/信奉とその優位性を認めている。これはこのブログで先に書きかけた大平具彦『二〇世紀アヴァンギャルドと文明の転換』 (→2013年07月09日ブログ) の第2章でとりあげられている。同書からの孫引きになるが、ホアン・グリスの指摘によれば、ヨーロッパ芸術の模範であるギリシャ芸術に対する反理想主義芸術として黒人芸術を対比させているとのことだし (p.50)、ジャン・クロード・ブラシュールの指摘では、アポリネールが黒人彫刻の表現の核として見ていたのは passion (情動) であったという (p.61)。

しかしそのアポリネールは1918年に急死する。キュビズムやダダの流れがやがてシュルレアリスムへと転換していったという見方もできるが、キュビズムが黒人芸術を信奉していたのに対し、シュルレアリスムが重用したのはオセアニア芸術であり、シュルレアリスムはキュビズムの後裔ではないという仮定もなりたつ。
私か感じたのはアポリネールの明るさに対するアンドレ・ブルトンの暗さで、シュルレアリスムという言葉はアポリネールが作ったのにもかかわらず、それはキュビズムを引き継いではおらず、アポリネールの死後、シュルレアリスムという暗黒時代が勃興してしまったとする視点もあるような気がする。

ダニエルの歴史の中で重要な3人の女性がいる。バーバラ、ボウア、それにミセス・シッフである。
バーバラ・スタイナーはスピリット・レークの刑務所で知り合った同じ囚人の中のひとりである。辛辣だが真実を見る目を持っている。彼女はダニエルが刑務所に入れられている不条理について次のように語る。

 「あんたがここ[刑務所]にいるのは、あんたがやったことのせいでは
 ないのよ。のろまさん。あんたがそれをやらなかったせいよ。あんたは
 自分の心の奥の衝動にしたがわなかった。それが大きなまちがいね。そ
 のせいで、あんたはここにいるのよ」 (p.75)

そしてミネアポリスにダニエルが友人と行ったのは正しかったが、でもひとりで帰ってきたのは間違いだったと言うのである。
バーバラは強気な面を持っているが、その裏側にダニエルと同じ弱い心があって、それは 「翔ぶこと」 というダニエルと共通の願望を共有していることでダニエルを理解する。彼女は一度だけ翔んだことがあるというが、その後、翔べないのは音楽に向いていないからだともいう。そしてある日、バーバラは刑務所の境界を自ら越えて自殺する。

トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』(2) (→2014年02月04日ブログ) につづく


トマス・M・ディッシュ/歌の翼に (国書刊行会)
歌の翼に(未来の文学)




トーマス・M・ディッシュ/いさましいちびのトースター (早川書房)
いさましいちびのトースター (ハヤカワ文庫SF)

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シルフ

ディッシュも色々読みました。好きな作家です。
売らなきゃ良かったって後悔してます。
「人類皆殺し」だとか、色々持っていたんですが…。
ブライアン・オールディスやJGバラード、Rゼラズニィ
SF黄金時代でしたね♪
by シルフ (2014-02-01 21:18) 

lequiche

>> シルフ様

お〜、とてもお詳しいんですね。
私はそんなに知りませんが、
ディッシュはイギリスに住んでいたこともありますし、
イギリス作家的な面もあるように思います。
ゼラズニィの短編集 The Doors of His Face, ... は傑作です。
by lequiche (2014-02-03 01:00) 

Enrique

作者は知りませんでしたが,小説とlequicheさんの読後感にはナゾとともにあちこち共感できる心情があります。最近とんと見ませんが空を飛ぶ夢をよく見た時期があります。
by Enrique (2014-02-03 08:07) 

lequiche

>> Enrique 様

そうですか。ありがとうございます。
空を飛ぶ夢というのは精神分析的には何を意味するのでしょうか。
といっても、もうそういうフロイト的な見方は前時代的ですが、
無意識の記憶とか欲望などが一番再現されやすいスクリーンが
夢のスクリーンで、夢という映画館なのかもしれません。
まだ未知のことが多いですね。
by lequiche (2014-02-04 05:53) 

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