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フォートリエ展に行く [アート]

fautrier1951.jpg
Jean Fautrier

東京ステーションギャラリーで開催されているジャン・フォートリエ展に行ってきた。
東京駅の丸の内北口の赤煉瓦の駅舎の中に東京ステーションギャラリーはある。保存された古い煉瓦壁に真新しくてきれいな今の時代の金属製の構造物が取りつけられていたりして、ちょっと違和感があるけれど、うまく建物を利用した美術館になっている。

ジャン・フォートリエ (Jean Fautrier 1898−1964) はアンフォルメル (informel) というジャンルに属する画家であるが、いままでその作品を見たのはほんの数点であり、ほとんどは Éditions du Regard版の画集 Yves Peyre《Fautrier》で識ったのに過ぎない。

一般的に抽象画 (Art abstrait) という表現があるが、それではあまりに範囲が広汎過ぎて、でもそれらを細分化したジャンルに分け入ってもその違いはよくわからず、「美術検定」 に挑戦しようとでもしなければ永遠にわからないのかもしれない。それはアヴァンギャルドという表現に出会ったとき、何がアヴァンなのかという問いと共通している。
ともかくアンフォルメルはそうした抽象のジャンルではあるのだが、それになぜ至ったかというのがフォートリエを見てぼんやりとわかったような気もする。
展覧会のキャッチコピーは 「絵画なのか」 となっているが、絵画であることは確かでありながら、幾つかのフォートリエの作風の変遷と合わせて考えてみると、テクニックそのものよりも哲学のようなものに主眼があり、でもそうした見方をするべきなのかどうか、少し迷う。それは衒いであったり、ひっかけであったりすることも多いからだ。

フォートリエの初期の具象作品は、すでにその頃から暗くて、それは色彩的な暗さだけでなく精神の暗さを伴っている。暗さはシュルレアリスムに関しても同様に存在した、ヨーロッパを席捲したアフリカ芸術の影響ともいわれるが、その暗さはアフリカの色合いとは違っていて、絵画の喜びみたいなのが伝わって来にくいように思われるし、暗さの質もフランス的でなく、私は東欧の画家を連想してしまった。
裸婦が何点もあるが、異常にぶよぶよとした体型がおおくて、やがてそれらの輪郭はどんどん単純化されていって、子どもの描いた不定型な宇宙人みたいな像に辿りつく。
(この時代について私は、シュルレアリスムを介在して興味を持ち続けているが、大平具彦の著作を読みながらの感想はまだ書きかけのままである。→2013年07月09日ブログ)

花とか野菜や果物、さらに魚といった静物画があるが、それらはすでに 「花というから花なのだろう」 というくらいのレヴェルに下がりつつある。比較的初期の《兎の皮》(1927) はブラ下げられた幾つものウサギの皮を描いているが、これは結果として、後期作品への一種の予兆だったのかもしれない。
絵の具は厚塗りを越えて盛り上がり、絵画の表面を立体的に浮かび上がらせる。盛り上がった絵の具の先が光って見えたりして、その生々しさにフォートリエの仕掛けを見る。

フォートリエで最も有名なのは戦争体験をもとにした 「人質」 というシリーズであるが、頭部 (首) を描いていると思われるそれらは極度に抽象化されていて、単なる楕円形の絵の具の盛り上がりにしかみえない。しかしなぜ抽象化しなければならなかったか、ということを考えることもできる。グロテスクさゆえの抽象化でありながら悲惨さは抽象化されないという際どさへの挑戦ともいえる。

絵画は絵画であり、その拠り処を音楽や哲学に頼るのは本質と外れる。しかしそうしたムーヴメントは数多く存在してきたし存在しているのだろう。
《All Alone》(1957) はそのタイトルが示すようにマル・ウォルドロンの作品に触発されたものだと解説されていた。フォートリエはジャズが好きだったとのことだが、そのジャズの捉え方は、たとえばモーリス・ラヴェルのジャズへのアプローチとは少し違う。もちろん音楽と美術の違いはあるけれど、それ以前の根源的な差である。

上映されていた生前の画家のインタヴューは、ともすると狷介な印象があるが、たとえば彼にユーモアのセンスは存在していたのだろうか。制作時間はそんなにかからないというようなことを語っていたが、そして実際に描いている様子も映されていたけれども、それをそのまま信じるべきなのかどうかわからない。

晩年には、もう何を描いてもテクニック的には同じでありながら理念的には同じでないとでもいうべき状態であって、1959年に描かれた《黒の青》とか《雨》(これは大原美術館所蔵のもの) といった作品の、表層的に表現するのならば、中央に色の絵の具の塊があって、それにいろいろな加工をしたものとしか見えないが、私が最初にフォートリエをとらえたのはまさにそうした単純な唯美主義者的な美学であって、特に《雨》は美しい。
それにしても《黒の青》とは形容矛盾であり、フォートリエのアイロニーが垣間見える。

Regard版の画集は比較的良い印刷ではあるのだが原画には程遠く、暗い厚塗りの盛り上がった絵の具の質感は再現不能である。それはネット上での画像も同じで、実物の持つ重さは取り払われてしまいがちだ。
絵画に限らず、芸術とはできあがった作品そのものが評価すべき対象であって、その過程とか思想性はまた別物であるべきだと思うが、かといって歴史的な側面を考えないと全く異なった感想を持ってしまう可能性もあると、今回のフォートリエを見ながら気がついた。まさに美学的視点だけで見ていた私のような人間も存在するからである。

美術館の外に出るとそこはいつもの東京駅の雑踏で、美術館内の異空間との落差を感じた。実物の作品と対峙していたときに感じた歴史を遡ることへの畏れのようなものは、単なる夢でしかなかったのかもしれなくて、だがそうした感覚を抱ける作品がそんなにあるわけでもない。


東京駅丸の内北口01.jpg
東京駅丸の内北口

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東京ステーションギャラリー入口

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この中に東京ステーションギャラリーがある

フォートリエ展パンフ01.jpg
フォートリエ展画集。右は Éditions du Regard版《Fautrier》


東京ステーションギャラリーhttp://www.ejrcf.or.jp/gallery/

Yves Peyre/Fautrier ou les Outrages de l'impossible (Les Editions du Regard)
http://www.amazon.fr/Fautrier-Outrages-limpossible-Yves-Peyre/dp/2903370540/ref=sr_1_29?ie=UTF8&qid=1403132734&sr=8-29&keywords=fautrier

日本amazonは現在、例によってとんでもない価格に。
Fautrier

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コメント 8

シルフ

ジャン・フォートリエはいいなぁ。好きですよ。
by シルフ (2014-06-20 00:16) 

lequiche

>> シルフ様

そうですか。
そう言っていただけるとうれしいです。(^^)b
by lequiche (2014-06-21 05:00) 

Enrique

アンフォルメル,文字通りインフォーマルの意味なんでしょうが,面白いジャンルがあるものだと。文章読ませていただいて,特にこういう画家は実物を見ないとだめだと言う事がよく分かります。
by Enrique (2014-06-21 06:45) 

Ujiki.oO

 こんにちは。 古い東京STホテルの時代に、今は亡き父と、新幹線が運休した日に一泊した思い出があります。 あまりにも客室の天井が高かったので・・・ ここは日本のホテルかと、何か古いヨーロッパの城の部屋かと感じました。 改築された後、どの様に客室が変わったか知りたいものですが、落胆もしたくないので・・・・(笑)
 画家については、いつも「生前経済的に困窮していなかったのかな?」と思いを馳せます。 良いパトロンが居たのか、画廊と契約出来たのか、死後にやっと有名になったのか、とか心配になります。 衣食住に恵まれて、恋愛にも燃えて、そして芸術できたのなら良い! 「誰も良い評価をしてくれない」等と、世を恨む芸術家だとしたら・・・・ その奈落を感じるには、あまりにも困難な理解が必要だなと思わされます。 釈迦に説法で済みません。
by Ujiki.oO (2014-06-24 14:24) 

lequiche

>> Enrique 様

ジャンルについては私もあとから知ったので、
ああそうなのかと思いました。

絵画も、印刷物やPC画面で見てもそんなに違わないものと、
実物と全然違うものとがありますが、フォートリエは後者ですね。
色の厚み・深みが実物でないとわかりません。
by lequiche (2014-06-25 05:15) 

lequiche

>> Ujiki.oO 様

いろいろと高度な実験をされていますね。
私にはほとんど謎のような仕組みです。(^^;)

東京STホテルというのがあったのですか。知りませんでした。
あの建物は確かに日本離れした雰囲気があるかもしれません。
とりあえず壊されなくてよかったです。

生活に関してはどうだったのでしょうか。
作品に対する賞賛や評価の記事はありますが、
それらが必ずしも収入に結びつくかどうかは別ですから。
絵画に限らず芸術というものは、
必ずしも正当な評価がされるとは限らないように思えます。
by lequiche (2014-06-25 05:17) 

Ujiki.oO

 おはようございます。 東京駅を知らない人は居ないし、経由利用した人は五萬とおられるに違いありません。 東京駅の改札を抜けて外から東京駅を観た方も多いと存じます。 今は知りませんが、改築される前は、あの建物にホテルが在るなんて想像出来ない程に「ホテルの入り口」は質素でした。 「えっ!これがエントランス?!違うんじゃない?」と思わせてくれました。 経営母体の資産が潤沢だからか派手なPRは無用なのですかねと当時は思った程です。 最高の立地にあって素敵な部屋でした。 京都STホテルには一週間連泊しましたが、ビル自体がマンモスで近代的美術館的な風合いのホテル。 異国の地に跳ばされたかとの思いを感じさせてくれるJR直系ホテルです。
 さて、資産価値を上げて利潤追求の商売だけを考えているプロモーターは歌謡界の芸能だけでなく、絵画などの美術の世界にも居て、画家から生活費に足りない金で買い求め、画家が死ぬまで画廊の倉庫に保管温存し、画家の死去と共にプロモーションに打って出る。 「金の卵」を「駄作」の評価で買い取り、死んだ直後に「みなさん!彼が遺した作品は実に金でした!」と店頭に並べる。 歌謡界なら売れなければ自業自得と本人も納得できますけど、美術の世界は過酷で残酷だなと感じています。
 So-net向け実験ブログでのご協力に心から感謝します。 本当に感謝します。
by Ujiki.oO (2014-06-25 09:06) 

lequiche

>> Ujiki.oO 様

入口が質素で分かりにくいというのは、
秘密の部屋への入口みたいで想像力をかき立てますね。
東京ステーションギャラリーの入口も、
秘密の入口というほどでわかりにくくはないですが、
さりげなくそこにありました。

なるほど、絵画にも当然そういう青田買いみたいなのはあるのでしょう。
その結果として本人が生きている間は赤貧、
死んでから名前が出ても本人には還元されないという悲劇です。
ただ、いけるかなと思って囲っておいたが、
やっぱり駄作だったという可能性もあるわけで、
そういうふうに考えていくと、美術も投資の目でしか見られなくなる
という、これもまた同様に悲劇的な結末になりますね。
by lequiche (2014-06-29 00:30) 

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