SSブログ

死の影の谷に — ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』 [本]

JoyceCarolOates01.jpg
Joyce Carol Oates

ジョイス・キャロル・オーツの『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』The Corn Maiden and Other Nightmares (2011) を読む。
冒頭の中篇 「とうもろこしの乙女 ある愛の物語」 は、〈愛の物語〉とするには奇妙な愛で、その言葉がもしかすると皮肉なのかもしれないと思わせるだけでなく、ストーリーが近年頻繁に起こる嫌な事件を連想させて、日本もアメリカも病んでいる部分は変わりがないと感じる。

この作品のあらすじは、13歳の少女が同じ学校の年下の少女を誘拐監禁して、インディアンの儀式のように生贄にして殺そうとする計画であり、しかしその動機は、犯人の少女によれば、被害者の少女の髪が、とうもろこしのヒゲのように金色だったからということなのだ。と言われても、それは普通に考えて納得のできる理由とはならないし、簡単に言えばサディスティックな願望の一種の狂気であり、こうした狂気が今の世界には蔓延しているのではないかという危惧をあらためて確認することになる。

日本で現実に起こった同様の事件が記憶に新しいが、マスコミはそれを猟奇とか、あるいは不条理という表現で理由づけしようとする。だが、猟奇とはアブノーマルでありながらもそれなりの道筋が見えるものだし、不条理という哲学的な言葉で修飾するには、その行動は幼稚で粗雑過ぎる。つまりそこに見えるのは発育不全の、あるいは徒長枝のように異常に突出した欲望 (屈折した性欲といってもよい) の発露としての狂気である。犯人の少女は裕福で、寂れているけれど宏壮な邸宅に住み、しかし放任されて好き勝手をしているというのも異常性の素地となっているように思える。
そして、こうした類似のストーリーをオーツが書くということは、同様の病巣がアメリカにも存在するということにほかならない。

フィクションにおける理想的で明るいアメリカというステロタイプな描き方が、やがて少しずつ変質していって、翳りのある 「病んだアメリカ」 を見せ始めたのはいつ頃からだったろうか。私がはっきりとその翳りを感じたのは、映画《E.T.》だったように記憶している。スピルバーグの映画自体は、異星人を匿って助けるというハッピーエンドなファンタシィなのだが、家の中の乱雑に散らかった風景とか、疲れているような表情を見せる母親といった幾つかのリアリティのある描写に、素顔を見せてしまったアメリカにはもはやアメリカン・ドリームは存在しないのだ、とぼんやりと感じたのを覚えているからだ。

オーツのこの作品を読んでいると、まず、娘 (マリッサ) を誘拐された母親 (リーア) が警察にすぐに連絡することを逡巡して、先回りしてよくない妄想に陥り、あげくの果てにビールを飲んで現実の困難から逃避しようとしたり、非常に読者をいらいらさせる、あるいは呆れさせる行動をとるのだが、そうしたバカさ加減というのが誘拐犯の少女 (ジュード) の、自分以外の人間を 「バカども」 と見下す傲慢な狂気と呼応していて、オーツの周到なストーリー構想を感じる。
ジュードは、バカな女友達2人を手下としているが、その小さなコミュニティのなかで彼女は絶対者であり、今起こっている犯罪を制止できる者は誰もいない。少女の狡猾さと幼稚さの混合した企み (犯罪者特有の、やらなくてもいいことをわざとせずにはいられないという心理) を、オーツは冷静に記述してゆく。

事件後の話として印象深いのは、学校でコンピュータ指導者であった男 (ミカール・ザルマン) が —— 彼は犯人の嫌疑をかけられたのだが —— 事件で翻弄された後にコンピュータへの興味を失い、歴史を学ぶために大学院に行きたいという希望を持つというくだりだ。それは《華氏451》の中で主人公モンターグが歩む道、つまり (焚書をする) 消防士としての職を捨てて、森の中でブック・ピープルとなって暮らす道を選択するのと似たイメージを感じさせる。体制への無批判な順応、あるいはマジョリティな時代の流れの怠惰さから抜け出すという意味において。

こうした題材は多分に通俗的で、その展開が、よりスキャンダラスに事実を誇張してゆく午後のワイドショーのようになるかもしれないという危険性を備えている。オーツのそれぞれの人物の描き方は、冷静に平等で、だから読者が登場人物の誰かに感情移入するのを拒否しているかのようだ。

最終ページで、ピクニックを楽しむ被害者の少女マリッサに対して、突然の唐突なハゴロモガラスの声が書かれ、物語は終わる。

 ガマにつかまってゆらゆらしているハゴロモガラスが、鋭い声でマリッ
 サに呼びかけた。
 〈「死の影の谷」 にあっても私が汝を永遠に守ろう、アーメン〉(p.146)

死の影の谷とは旧約聖書・詩篇の次の個所のことである。

 たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害 [わざはひ] をおそれじ、
 なんぢ我とともに在 [いま] せばなり。(詩篇23.4)

オーツが影響を受けた作家としてあげるなかのひとりにヘンリー・デイヴィッド・ソローの名があるのは (ソローとジョン・ケージの関係性についてはすでに前ブログで触れた)、時代が安易な頽廃の中に沈んでゆくことを拒否する姿勢をとるということと無縁ではない。


ジョイス・キャロル・オーツ/とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢
(河出書房新社)
とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ---ジョイス・キャロル・オーツ傑作選

nice!(42)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 42

コメント 2

アヨアン・イゴカー

>時代が安易な頽廃の中に沈んでゆくことを拒否する姿勢をとる
作家として必要な態度だと思います。
by アヨアン・イゴカー (2014-09-27 12:18) 

lequiche

>> アヨアン・イゴカー様

そうですね。
こうした題材で書く場合、通俗になるかならないか、
という境界線は意外に曖昧なように思います。
つまり作家が安易だと幾らでも俗っぽくなってしまいますし、
どのように表現していくか考えるための原点ですね。
by lequiche (2014-09-30 14:37) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0