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How deep is the ocean? — ビル・エヴァンス [音楽]

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昔の、外国映画を日本で公開するときの邦題の付け方はちょっと洒落ていて、その頃の日本の文化のいきいきとした雰囲気が偲ばれる。今だとダイレクトに原題をカタカナ表記にしただけなことが多いが、昔の映画のタイトルは、全然原題とかけ離れていても、ちょっとカッコよかったり、キャッチのいい語呂だったりする。
今年ヒットした映画《アナと雪の女王》でその手法が久しぶりに復活していた。この映画の英語タイトルは《Frozen》で、これをそのままカタカナにしただけだったら、きっとこんなにヒットしなかったんじゃないかと思ってしまう。

そうした翻訳タイトルの付け方は、昔からの有名曲、いわゆるスタンダードといわれる曲にもあって、〈Night and Day〉は 「夜と昼」 ではなくて 「夜も昼も」 で、この 「〜も〜も」 という使い方は〈Come Rain or Come Shine〉→ 「降っても晴れても」 とか、〈Body and Soul〉→ 「身も心も」 とかあって、このパターンを編み出した人はすごいなあと思うのだ。
〈How Deep Is the Ocean?〉は〈愛は海よりも深く〉で、原タイトルに愛なんて言葉は入っていないが、ずばり歌詞の意を汲んだ邦題になっている。
〈How Deep Is the Ocean?〉を作曲したアーヴィング・バーリン (Irving Berlin 1888〜1989) はユダヤ系ロシア人で子どもの頃、アメリカに移住。〈ホワイト・クリスマス〉の作曲家として有名である。

スタンダードと呼ばれる曲は、誰でも知っている耳慣れたメロディなので、だからスタンダードなのだが、時にそのわかりやすいはずのメロディを必ずしもストレートに弾かず、ちょっとひねって弾いたりするのがビル・エヴァンスの特徴である。
ビル・エヴァンス (William John Evans 1929〜1980) はアメリカのジャズ・ピアニストで、その独特な、聴けばすぐにそれとわかる特徴を持つタッチと和声の斬新さで、以後のピアニストに多くの影響を与えた。
最も有名なアルバムは《Sunday at the Village Vanguard》と《Waltz for Debby》というヴィレッジ・ヴァンガードというジャズクラブで録音されたライヴで、それは1961年6月25日のこと。現在ではこの2枚のアルバムの収録曲に未発表テイクを加えた《The Complete Village Vanguard Recordings 1961》として、その日の全ての演奏がまとめられている。

ビル・エヴァンスというと、その繊細で美しく、時に耽美とも感じられる演奏と、全盛期の端正で神経質そうなかっちりとしたビジネスマンのような外見から、ともすると禁欲的なイメージを抱いてしまうが、実際には彼はドラッグ漬けであり、後年、ヒゲを伸ばし長髪にして外見が一変したのも、実は麻薬による顔の変化を隠すためだったともいわれる。医者嫌いで常に治療を拒み、最後には指が腫れて隣の鍵盤を弾いてしまうくらいになり、病院に担ぎ込まれたときはあまりにも遅過ぎる状態だった。

ヴィレッジ・ヴァンガードのライヴが有名でピアノトリオの至高の演奏とされているのは、グループのベーシストであったスコット・ラファロとエヴァンスとの相性が絶妙だったためであり、2人の共演はヴィレッジ・ヴァンガードのライヴ2枚を含めて全部で4枚のアルバムに残されている。ヴィレッジ・ヴァンガードのライヴの直後、ラファロは交通事故で亡くなり、エヴァンスは大きなダメージを受ける。やがて立ち直り、それからも数多くの演奏とその録音を残したのだけれど、彼の人生を俯瞰してみると、後年、身体が不調になりながらも医者を拒んだのは一種の緩慢な自殺であり、それはラファロとの永遠の別れの後から少しずつ落下していったゆるやかな死への道を意図していたのかもしれない。

ビル・エヴァンスについて書かれた本は多数あるが『ビル・エヴァンス あなたと夜と音楽と』という古い本があって、何人かの著者によるアンソロジーや対談などが収められているのだが、時が過ぎてしまうと、その時代にアップ・トゥ・デイトに感じていたビル・エヴァンスへのアプローチそのものも歴史の中の過去となってしまい、歴史の重層化というフィルターを透してそのむこう側の過去を見ているようで興味深い。

ビル・エヴァンスには《At The Montreux Jazz Festival》という1968年のライヴがあるが、これは名盤じゃないと言っている高名なジャズ評論家がいて、ああいろいろな感じ方があるなぁと思うけれどちょっと斜め読み (斜め聞き?) が過ぎるようでがっかりする。
モントルーは、ビル・エヴァンスの音が鋭くクリアで、乾いていて、後ろ向きの悲しさでなく前向きな力強さの感じられる有数のライヴだと私は思う。冒頭のフランス語のアナウンスから曲に入っていくところのちょっと冷たい空気感がたまらない。それはヴィレッジ・ヴァンガードのライヴと同じように、ディスクに封じ込められたその日のライヴの時を共有できる喜びであって、それが幻想の中でしかないのにせよ、過去の時を再現してくれる録音の秀逸さである。

私が最も好きなエヴァンス/ラファロのアルバムはスタジオ録音の《Explorations》なのだが、たとえばこの1曲目の〈Israel〉のクリアな美しさは完璧で、たとえば下記にリンクした1965年のロンドンの演奏と較べると緻密さで上回る。だが〈Nardis〉はモントルーのほうがスリルがあってスピード感があって、オリジナルとは全然違うが、強い印象を残してくれる。

もっとも、ビル・エヴァンスというと〈Waltz for Debby〉というイメージに縛りつけてしまうリスナーが多いのはピアニストの真実と多様性を見ていないのであって、この本の中にジョージ・ラッセル・オーケストラにおけるエヴァンスのことが書いてあるのだが、ここから彼の別の一面をはっきりと識ることができる。

 このような理論的根拠を背景とするラッセルのアンサンブル書法の魅力
 は、異なるモードに基づき、異なる時間構造をもったメロディ・ライン
 が、多層的に重なり合うことによってかもし出す音楽的スリルにあるが、
 ここでのエバンスほど、その音楽構造にふさわしい演奏を行い得るピア
 ニストを思い出すのは難しい。
 そしてこの演奏上の特徴は、エバンスがジョージ・ラッセルのオーケス
 トラと共演する時には必ず顕著となるものなのだった。(中略) エバンス
 は、左手のハーモニーで右手のラインをサポートするということをほと
 んどしていないし、また、そこでラッセルは、エバンスのピアノを無伴
 奏の中に放り出しているのだった。(p.100/加藤総夫)

理論的根拠とはラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトのことを指すが、それについては武満徹の項ですでに書いた (→2014年07月16日ブログ)。
ビル・エヴァンスはごく短い期間、マイルス・デイヴィスのグループに在籍していたが、マイルスが《Kind of Blue》を作ったとき、すでにエヴァンスはグループから抜けていた。つまり《Kind of Blue》を作るためにマイルスはビル・エヴァンスをわざわざ呼び寄せたのである。それはこのアルバムの中のウィントン・ケリーとビル・エヴァンスのピアニズムがまるで違うことでも明白であり、マイルスは、このアルバムのためにはエヴァンスの音とそのコンセプトを必要としていたのだと思われる。

マイルスのグループは当時全て黒人であり、エヴァンスはその中の唯一の白人で、いわゆる白人としての差別を受けたといわれる。白人なんかにはジャズはわかりっこない、という黒人ミュージシャンの優越感があり、マイルスも口では同じようなことを言ってエヴァンスをからかっていたというが、実際にはその音楽性を最も信頼していた。
《Kind of Blue》はモードをとりいれたアルバムといわれているが、モードとは簡単にいえば既存の和声にとらわれないスケール主体の考え方であり、そのためにマイルスはエヴァンスのモードに拮抗できる和声感覚を求めたのだ。
〈Nardis〉も、また《Kind of Blue》の中のほとんどの曲も、作曲はマイルス・デイヴィスとクレジットされているが、実際にはビル・エヴァンスの作曲だったり2人の共作であるといわれる。エヴァンスはそのことについて後年、そんなことどうでもいい、と語っているがそれも2人の信頼度の結果なのであろう。

晩年のビル・エヴァンスのライヴは、死後ある程度の期間を経てから数多くリリースされてきたのだが、これらの演奏を聴くに値しないといって切り捨ててしまう知人がいる。私にはそれほど断定的な意見を言えるほど、自分の記憶の中に比較すべきアーカイヴを持っていない。
ただ、先の評論家と同様、そうした断定的な意見は、同時に空振りの危険性も内包している。その知人はブラインドフォールドで幾多のジャズ・プレイヤーを聞き分けられるほど耳は良いのだが、耳が良いこととと感性とは必ずしも同調しないのかもしれない。

 ごく一部の熱狂的なファンのみに支持されるような閉鎖的な音楽は、そ
 れが超一流の芸術であったとしても、その芸術家は、徐々にスポイルさ
 れていってしまうだろう。商業第一主義は問題外として、幅広い層に支
 持されてこそ 「音楽」 なのだ。(p.113/高木宏真)

スタンダードなチューンを演奏することは決して通俗なのでも大衆迎合なのでもなくて、それは音楽のわかりやすさの手がかりとなるマテリアルである。ビル・エヴァンスの解釈は単なるひとつのパターンに過ぎないのかもしれないが、いつまでも見飽きないパターンである。
音楽は深い海で、その海がどれほど深いのかは上からながめただけではわからない。


Bill Evans/The Complete Village Vanguard Recordings 1961
(Riverside)
Complete Village Vanguard Recordings 1961




Israel (London, March 19, 1965)
https://www.youtube.com/watch?v=UvveXCcmvPM
Nardis (London, March 19, 1965)
https://www.youtube.com/watch?v=csGnvbJCQKU

Bill Evans/Explorations (full album)
https://www.youtube.com/watch?v=nQw6RkZfHFI
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コメント 10

シルフ

それほどジャズファンではないですが、ビル・エヴァンスは確かによく聴きましたねぇ。ホントチョットひねって轢くスタイルは天性ですよね。独特の茶目っ気っていうか。
天才は違うねぇ。
by シルフ (2014-10-09 13:06) 

lequiche

>> シルフ様

どんなジャンルでもよくご存知ですね。スゴイデス。(^^)
今では、ジャズピアノといえばビル・エヴァンスみたいに
大ピアニストになってしまいましたが。

わざとメロディを崩すのは茶目っ気なんでしょうか。
ストレートに弾くと恥ずかしいっていう意識が働くのか、
それがジャズっていえばそうなんですけど。
某評論家は歌モノが好きなので、肝心のメロディが聞こえにくい
こういう崩し方に最初は不満だったみたいなことを書いていました。
そういう感じ方もあるんでしょうね。
by lequiche (2014-10-10 11:27) 

mwainfo

私の好きなピアニスト、よく記事にしていただきました。エバンス、ラファロの出会いは、まさに運命の出会いでした。
by mwainfo (2014-10-10 22:44) 

lequiche

>> mwainfo 様

そう言っていただけるとうれしいです。(^^)
音楽を演奏するときの相性ってかなり重要だと思います。
心と心が通じ合えば、言葉を交わさなくてもお互いが理解できますし、
そういうとき、二度と再現できないような演奏が残ることがあります。
エヴァンスとラファロの場合がまさにそのような組み合わせですね。
by lequiche (2014-10-11 00:18) 

Loby

私も翻訳をやっていることもあって、
よく映画の原題と訳された邦題やポルトガル語題名などを
よく比較してみます。
やはり”よく出来ているなぁ” と思うものもあれば、
”全然合ってない” と思うものもあります。

by Loby (2014-10-14 08:06) 

lequiche

>> Loby 様

専門家のご意見ありがとうございます。
やはりどの言語でもそういうことはあるんですね。
最近、原タイトルそのままを使うことが多いのは、
訳がうまくないとダメだと言われるかもしれないから、
それを避けるために原タイトルをカタカナ書きにしてしまう、
ということで、一種の逃げです。
でも音の響きなど、原タイトルそのままのほうがいいこともあり、
むずかしいだろうなぁと思います。
by lequiche (2014-10-15 02:04) 

アヨアン・イゴカー

>ごく一部の熱狂的なファンのみに支持されるような閉鎖的な音楽は、そ
 れが超一流の芸術であったとしても、その芸術家は、徐々にスポイルさ
 れていってしまうだろう。

閉鎖的な音楽。クラシックの場合、20世紀の無調音楽などは、その一例かもしれません。思想や宗教に近くなり、大衆が理解できない物を自分たちだけが理解できるという優越感がその「芸術」を支えたのかもしれない、という感想を持っています。
バルザックの『知られざる傑作』の画家のような、枝葉末節に拘り、そこに他者の理解を圧倒する説明をつけ、自分だけは納得している、それは一面非常に重要なことで正しい行為でもある、しかし、少年が「王様は裸だ」と言えば突然現実が目に入り「自分は、自分の方向は間違っていたかもしれない」と言う焦り、徒労感、疎外感に襲われることもある、そんな風に感じます。
by アヨアン・イゴカー (2014-10-15 08:34) 

lequiche

>> アヨアン・イゴカー様

20世紀の無調音楽ですか。的確な一例ですね。
ただ私の場合、そういうのも好きなので困ってしまいますが。(^^;)

音楽でも、それ以外の芸術でも種々の視点があるんだと思います。
私は20世紀の無調音楽系の作品はそんなにむずかしいと感じません。
聴くほうも、つい構えてしまって、そこに深淵な哲学があるとか、
穿った見方をしてしまう傾向はあるかもしれませんが、
単純に聴くとそんなに構えることはないというのに気がつくんです。
Perfumeもブーレーズもそんなに違いはないのです。
とりあえず私はそういうふうに音楽を聴いています。

たとえば本でも、すべてがノウハウ本やラブロマンスだったら、
それは誰にでも読めますけれど、でもそれじゃ物足りないし飽きます。
それと同じで、音楽にも色々な内容があっていいと思います。
by lequiche (2014-10-15 18:46) 

アヨアン・イゴカー

>ただ私の場合、そういうのも好きなので困ってしまいます
私もシェーベルク、ベルクやメシアン等も嫌いではありません。
どちらかと言うとその流れを汲んだ、真似した人々のことです。誰が作ったか識別の難しい物、それを私は亜流、模倣と呼ばざるを得ないかもしれません。優秀な、それなりに才能のある人々なのでしょうが、それだけなのです。

>すべてがノウハウ本やラブロマンスだったら
退屈で退屈で死んでしまいます^^
by アヨアン・イゴカー (2014-10-15 22:57) 

lequiche

>> アヨアン・イゴカー様

なにか1つの新しい方式が注目を浴びれば、
100の亜流が発生しますから、それは仕方のないことですね。
もっともそうした亜流も含めた全体の傾向が
トレンドを変えることもあって、それはファッション界に顕著です。

音楽の場合も、少し時が経ってから歴史的な視点で振り返ると、
そのときどきの流行というものは存在するようです。
ただ中身のないものはやがて淘汰されますから、
トレンドの本質となる存在は、ほんの一握りなのかもしれません。
by lequiche (2014-10-17 00:19) 

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