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Ce n’est rien, ce n’était rien — それは何でもないし何でもなかった [音楽]

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Brigitte Fontaine

1978年11月の同志社大学における講演会はとても刺激的だ。何十枚ものレコードをかけながら講演は進行するが、まず最初にグレン・グールドとマウリツィオ・ポリーニのシェーンベルクの聞きくらべが行われる。そしてグールドの演奏のほうが圧倒的に優れているとし、ポリーニの演奏は中身が無く、制度的で、ファシズムだと断定するのだ。
そして今、最も貧しい作曲家として武満徹をあげる。その音楽は権威主義でしかなく、その延長線上に音楽の可能性は何もないという。
こうした発言は一種のアジテーションであり極端な表現であるが、その極端さは一定の意味を持って、この時代、1978年という時をあらわしているように思える。そして彼がその1978年という時の壁を乗り越えることはなかった。

印象に残るライナーノーツはブリジット・フォンテーヌの最も有名な《comme à la radio》(ラジオのように/1969) へのものではなく、4枚目のアルバム《je ne connais pas cet homme》に対する文章だと私は思う。comme à la radioのライナーのように厳格で生硬ではなく、それはごくプライヴェートで微視的で感傷的な書き方で始まり、暗くて寒い状態が現実的にも精神的にもずっと続いていることをあらわしているように思える。かつて Il fait froid dans le monde. (世界は寒い) とフォンテーヌが歌った言葉がそのまま変わらずに彼の中に生存し続けていたのかもしれない。

 少しずつ少しずつただ時だけが過ぎていった。わずかな光のその小さな
 午後の陽だまりの中で僕はもう何物でもなかった。一つの言葉、一つの
 物音、一つの決意、一つの感情もついには僕を支え、あるいは動かすこ
 とがなかった。十二月二十一日のその日、僕は朝早く目覚めた。開け放
 したままの窓からの朝の光と風、僕は寒さと共に目覚めた。僕はシーツ
 に深くもぐり込みそのまま遠くの車の音と階段を上がり降りする音をど
 こかで聞きながらじっとしていた。煙草が一本そしてすったマッチが一
 本、僕のいるその屋根裏の部屋は変形の部屋で窓が不自然に大きくそし
 ていびつにせり出していた。ベッドからテーブルへは三歩、机へは四歩、
 窓へは五歩そして鏡へは三歩、ドアへは一歩、僕はそれを何度かぞえた
 ことだろう、悲しいことにはそれは何度数えても同じなのだ。僕はまだ
 パリへ着いたばかりだった。だがもう僕は時と場所から投げだされたよ
 うにも感じていた。(p.98)

間章 (あいだ・あきら 1946〜1978) の著作集が完結して、このライナーノーツはその最後の第3巻に収録されている。第3巻は、上記の同志社大学講演会などの数々の彼の文章の拾遺というか、いわゆる雑纂の様相も備えているが、逆にそうした細かな断片のようなものを含む言葉の隙間から彼の思考とその時代の表情が確実に見えてくるような気もする。
だが同時に全集とか著作集というものは、その文章を歴史という時系列の中に封じ込める巧妙な手段でもあって、アーカイヴとなったテクストは昆虫標本のように固定され、もう動くことのない過去の遺産となる。

ブリジット・フォンテーヌ (Brigitte Fontaine 1940〜) の何枚かのアルバムはその当時、一種の事件であって、つまりシャンソンという、彼の言葉をなぞれば、いわば制度的なジャンルからはみ出したような歌でありながら、その後のワールドミュージックという安易な言葉で括れるような音楽形態とも乖離したポジションに立っていて、その本質を的確に感じ取った彼の文章はまだ若くて瑞々しい。けれどアーカイヴを開いてみた現代の目はもはや冷静で、上記に引用した冒頭のサンチマンで無造作に書かれたようにみえる文章の中に、つい技巧を見つけてしまうし、この後にある 「……」 の連鎖は、ルイ・フェルディナン・セリーヌのパロディなのが見て取れてしまう。こうした醒めた視点は、彼の嫌ったポリーニの演奏と同等の、解析的で、かつ無機質な目なのかもしれないと反省したほうがよいのかもしれない (セリーヌへのシンパシィはそのプロデュース作品にセリーヌの著作と同名の《Mort à crédit》を使い、導入部にセリーヌの自作を朗読する声を入れたことからも明らかである)。
でも翻って、全集というのはそういうものなのだ。かつて雑誌とか、このライナーノーツのようなアクティヴなシーンにあわせて書かれていたものも、アーカイヴとして格納された今は等しくのっぺりとして見えていて、それは時間がそれだけ経過したということの証明にほかならない。
といってもこのことは、時の過ぎたことが文章の価値を減退させたということではなくて、むしろ感情に惑わさせずに記述された内容の本質を冷静に読み取ることができるという点においてプラスであると思うのだ。これが全集という形態の長所である。

フォンテーヌのアルバム《je ne connais pas cet homme》(こんな男知らない/1973) の中の最も印象に残る曲は、間章も書いているように〈C’est normal〉(それって、ふつー) である。
歌詞の内容は、男 (アレスキー) と女 (フォンテーヌ) が爆発したビルから落下していって最後には死んでしまうのだが、その落下する途中にどうして私たちはこのように落下しているのか、と女が男に問いかけ男が答えるという構成になっていて、C’est normal という言葉は直訳すれば、それは正常 (ノーマル) なことだ、と意味だけれど、実際の状況は全然ノーマルじゃなくて、でもそれを冷静に分析して、それは普通のこと、当然なことだ、と解説する男とその言葉に騙されてしまう女を演じていてそれはアイロニカルでかつ種々のメタファーを感じさせる。フォンテーヌはしゃべるだけで全然歌っていない。つまり歌ということに対するアンチテーゼでもあるわけだ。なによりまだ若い頃のフォンテーヌの声がコケティッシュで美しい。
歌詞の中に incendie (火事) という言葉が使われていて、それは次のアルバムタイトル《L’incendie》(1974) につながっていくように思える。もっとも incendie という単語は comme à la radio の中にもあって、フォンテーヌの歌詞におけるキーワードのひとつでもある。

だが《L’incendie》あたりから、フォンテーヌの音楽も徐々にステロタイプの様相を帯び始める。《comme à la radio》のアイデアを拡大再生産することは、間章がポリーニや武満徹をさして、それが制度的で権威主義的だと嫌ったはずの罠にフォンテーヌも同じようにして嵌り込んでいったのだとも思える。
もっとも先にも書いたように、こうした彼の発言は多分にアジテーションとしての性質を帯びていて、その当時、そうした挑発的な表現が彼の、ないしはその時代に要請されていたひとつのスタイルであったのかもしれないという想像をすることもできる。実際に状況がどうだったのかはわからない。あくまでこれは今の21世紀から見た想像、ないしは推理に過ぎないのだから。

しばらく低迷していたフォンテーヌが復活し確立したのは、1995年の《Genre Humain》であると私は思う。そこに見られるのはシャンソン本来の韻の復活であり、おそろしく律儀に作られた韻を踏む歌詞が毅然としている。それを制度的な後退とか保守的とか言う人がいるのだろうか、それはわからない。
ただ制約された規律のある作法が自由律よりも劣っているとは私は思わないし、それはフリージャズがトラディショナルなジャズより優れているということではないのと同様だ。問題は形式でなく、形式を借りることによって、ないしは形式にたよらずに表現するものが表現者の中にあるかどうかである。

しかし、これはたぶんそうだと思うのだが、こうしたコンテンポラリーな音楽もまた、発表された時と、時間の経過した今になってからそれをとりあげて聴いてみる時とでは、リスナーの感じかたも違うのだと思うのである。私はリスナーの耳が時代とともに常に進歩していると何度も書いているが、その当時の耳と現代の耳では感じ方も異なると思うし、その当時にリアルタイムで聴いた音楽と、時代を遡って過去に記録された音楽を聴くのとではその音楽作品から受ける印象は違うのではないかと思う。
といって昔の作品をリアルタイムで聴くことはタイムマシンが無い限り不可能だし、もしタイムマシンがあったとしても、現代人が過去に行ってその音を聴いたときどのように感じるのかは不明である。過去に遡ってもその時代に同化することはできない。訪れる現代人は単なるエトランジェに過ぎないのだから。

そうしたことも含めて、歴史とは残酷でもあり、逆にいえば公平なものである。それはリニアに流れ、不可逆性であり、幾多のパッションを封じ込める。いつの間にかパッケージングされ、あるいはガラスケースに収められて、均一な、記憶喪失者の過去の記憶のようになって冷え冷えとした博物館の展示物のように変貌して閲覧される。録音も著作も原則的にはその冷たさに支配されているはずであり、それゆえに過去をふりかえることはあたかもハドリアヌスの遺構を訪ねるように興味深い。


brigitte fontaine/je ne connais pas cet homme (フォンテーヌ4/オーマガトキ)
ブリジット・フォンテーヌ4




brigitte fontaine/Genre Humain (Virgin France)
Genre Humain




間章著作集III さらに冬へ旅立つために (月曜社)
間章著作集III さらに冬へ旅立つために




フォンテーヌの画像は
www.astronaut-photo.com
Brigitte Fontaine@Festival des voix d’hiverより
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コメント 6

sig

こんにちは。
音楽の門外漢が述べる場ではないのですが、「しばらく低迷していたフォンテーヌが復活し確立したのは」以降の文は、多少かじった映画史に通じるものがあります。芸術とかクリエイティブな活動に関して共通で、普遍的な見解だと共感しました。これほど濃密な評論を毎日執筆されているとは、ほんとにすごいことだと思います。
by sig (2014-10-21 15:34) 

lequiche

>> sig 様

ありがとうございます。
でも、まだまだ文章が練れてませんし内容もスカスカで
お恥ずかしい限りです。

音楽に限らず、芸術一般に共通する考え方はあると思います。
すごく簡単に言ってしまえば、
自分をどのように表現するかについての覚悟でしょうか。
外見とか、他人の意見とかに動かされるのでなく、
まず自分が何を目指すかが明確にあることが必要だと思います。
韻についてのテクニックはアルチュール・ランボーは別格として、
歌詞においてはセルジュ・ゲンズブールを
私は重要だと思っています。
ゲンズブールについての見方は、
たとえば下記に書いておりますので、おヒマな時にでも。
http://lequiche.blog.so-net.ne.jp/2012-05-10
by lequiche (2014-10-21 19:02) 

kyoro

遅ればせながら、先日のオフ会ではありがとうございました!
私のBlogにも訪問&コメントして下さりありがとうございます(つД`)ノ
読み応えのある素敵なBlogですね♪
これからも楽しませて頂きます(*^^*)
by kyoro (2014-10-23 01:21) 

lequiche

>> kyoro 様

こちらこそありがとうございました。
kyoroさんのブログはキュートなアイデアのブログですね。
色と線がクリアで、ほんわかします。
今後ともよろしくお願い致します。(^^)b
by lequiche (2014-10-23 04:42) 

DON

ぼんぼちさんの 行かれたんですね
残念乍ら 仕事の都合で参加できませんでした・・・
by DON (2014-10-23 11:39) 

lequiche

>> DON 様

へい。そうなんでやす。
(と、ぼんぼちさんのマネしてみる ^^;)

DONさんもお忙しいでしょうけど、
次は是非ご参加ください。
DONさんもぼんぼちさんと並んで、
ソネブロ有数の人気スターなんですから。
あ、それよりご自分でオフ会開催するというのもありかも?(^^)
by lequiche (2014-10-23 11:46) 

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