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マリア・ジョアン・ピリスのモーツァルト KV466 [音楽]

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Maria João Pires

ネットで何か他のものを検索しているとき、偶然、ピリスの奇妙な動画を見てしまった。それはリッカルド・シャイーの公開リハーサルのようで、ピアノ・コンチェルトを弾こうとするピリスが、いざオーケストラが始まったら自分の用意していたはずの曲と違っていて狼狽えるという内容である。

曲目はモーツァルトの第20番 KV 466 という有名なd-mollのコンチェルトなのだが、その出来事について書いているブログなどを読むと昨年 (2013年) に話題になったことと記されているが、元のYouTubeの動画はすでに2009年6月にアップされているし、なによりピリスの顔が若い。いったい何時の話? と思ってしまう。それに動画も上書き録画されたような妙な続き具合になっていて、まともな出自のファイルとは思えない。
こういうのはクラシック音楽の話題のように見せながら、どうも午後のワイドショー的な興味本位だけの記事というのが実態なのだろう。発信元のNYデイリーニューズというのはいわゆるゴシップ系のタブロイド紙である。

マリア・ジョアン・ピリス Maria João Pires のKV 466 については、すでに触れたことがあるのだけれど (→2012年02月04日ブログ)、再び聴いてみるとちょっと違う印象があった (ピリスについては、最近NHKなどではピレシュとかいう表記をしているが、慣例的にピリスとしておく。それに本人の発音でもピレシュとは聞こえない。NHKは以前もポリーニをポルリーニと表記していたことがあるがいつの間にか戻してしまった経緯がある)。
まずピアニストを支えるブーレーズとベルリン・フィル。ブーレーズがモーツァルトなんか振るの? という先入観はもはや当たらない。ブーレーズの指揮は、ともするとすごくつまらなそうな機械的な指揮のように見えて、たとえばカルロス・クライバーの指揮とは対極的であるが、内実は全然違うのがこの曲からもよくわかる。

モーツァルトに過剰な感傷は必要でない。かつてモーツァルトの短調の曲のフレーズが 「疾走する悲しみ」 という表現で支配されたことがあったのかもしれないが、それはかつてのアルチュール・ランボーの翻訳がいまでは色褪せてしまっているのと同様に、やや時代錯誤のように思われる。確かに西洋文化輸入期の端緒にはそうしたインパクトのある、日本人の精神構造におもねった表現も必要だったのかもしれないがそれは過去のことである。
それに 「疾走する悲しみ」 なる惹句の元ネタといわれるアンリ・ゲオンを少し読み返してみたが、それはモーツァルトへのセンチメンタルなシンパシィとは無縁の内容であった。
たとえばa-mollのピアノソナタ KV310 (300d) やg-mollの弦楽クインテット KV516 などはセンチメンタルな感想を生み出すターゲットとして格好の曲であるが、ゲオンにそうした傾向の記述はほとんど見られない。作曲家の生涯における日常生活と作曲活動とは必ずしもリンクしないというのがゲオンの態度であって (と私は読んだ)、悲しいことがあるから悲しい曲ができるとは限らないのである。

KV466の冒頭の印象的な主題も、ブーレーズの指揮は深刻な意味づけをもたらさない。そもそもKV466には、KV310やKV516のような俗っぽいドラマの背景が存在しない。KV467のC-durのコンチェルトは466と対のような曲で、この時期、モーツァルトは最も曲を書き続けていた頃であり、父レオポルドにできあがった曲を聞かせたりしていた。作曲家として最も活躍していた時代である。

ブーレーズ/ベルリン・フィルという万全なバックの下でピリスの演奏が展開される。気負わないけれど強い線が1本通っている演奏がこの曲には必要で、ピリスは丁寧にモーツァルトの音を積み重ねてゆく。
第1楽章のカデンツァ (本来、演奏者がソロで即興演奏をする部分。実際には作曲者本人または他の作曲者によって作られた楽譜にしたがって演奏する) は最も使用頻度の高いベートーヴェンを使用しているが、ここで明らかに音が変わり、ぴんと張りつめた音群が流れ落ちる。モーツァルトはこの曲のカデンツァも書いたと伝えられているが、その楽譜は発見されていない。

ピリスのベートーヴェンのソナタはあまり評価がされていないように思われるが、それに似て、感傷的表現に堕ち過ぎないモーツァルトの短調曲が聞ける。そのことは同時に、第2楽章がいたずらに官能的になったり唯美的になるのを避ける姿勢として一貫している。
モーツァルトだから優美に、ベートーヴェンだから激しく刺激的に、というイメージもすでに過去の遺物だ。音楽とはそんなに極端で雑駁なものではない。
それは最近のピリスのシューベルトやショパン後期の作品の演奏と共通していて、70歳になったピリスの音楽への対峙の仕方が、かつての憂鬱なイメージとも、そして年齢を重ねたから枯淡になってきたというのとも違って、より作曲家の精神性に寄り添った音の表情を持つようになってきているように感じられる。


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KV466のベートーヴェンによるカデンツァ冒頭


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http://tower.jp/item/3355040/Europa-Konzert-from-Lisbon

Maria João Pires/後期ショパン作品集 (ユニバーサルミュージック)
後期ショパン作品集




Maria João Pires, Pierre Boulez/Mozart: Piano Concerto No.20 KV 466
ジェロニモス修道院の動画
https://www.youtube.com/watch?v=DvZ6BlCYjzQ

シャイーとのKV 466の冒頭
http://www.nydailynews.com/entertainment/music-arts/pianist-horrified-orchestra-plays-wrong-concerto-live-performance-article-1.1500562
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