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コパチンスカヤの弾くウストヴォリスカヤを聴く [音楽]

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Patricia Kopatchinskaja

ガリーナ・ウストヴォリスカヤ Galina Ivanovna Ustvolskaya (1919−2006) は最近取り上げられることの多くなってきたロシアの作曲家である。ソフィア・グバイドゥーリナより12年前に生まれているが、やはり最近ポピュラーになりつつあるグバイドゥーリナと較べると、かなり重くそして暗い。

ウストヴォリスカヤはペトログラードの生まれであり、当地のペトログラード音楽院 (当時の名称はレニングラード音楽院) でショスタコーヴィチに学んだ。
ショスタコーヴィチとの関係は単なる師弟関係を越えるものだったとも言われているが、彼女の選びとったのはたぶん恋愛よりも自らの音楽を深化させていくことだったのだろう。その求道的な方向性が音楽にも感じられる。

ソヴィエトの時代にもウストヴォリスカヤはその作風を曲げることはなかったが、当局から、例えば退嬰的であるとか反社会主義的であるというように非難され粛清されるほどのネームヴァリューも無くて、シーンからは遠く離れ、その作品は無視され続けた。ソヴィエトが崩壊してから次第にその作品が知られるようにはなったが、ほぼ最後まで、無名に近いままに亡くなった。
その作品は多くないが、近頃あらためて評価されつつある作曲家である。

このウストヴォリスカヤをパトリツィア・コパチンスカヤ Patricia Kopatchinskaja が弾いている独ECM盤を聴いてみた。コパチンスカヤは最近注目されているヴァイオリニストでもあり、少しまとめて聴いてみようと思っていたのだが、片山杜秀は音楽評でこのディスクを 「女囚さそりか修羅雪姫か。これぞまことの怨み節」 などと書いていて、当たっているのかもしれないが、比喩が通俗過ぎて笑ってしまった。

収録されているのはヴァイオリン・ソナタ (1952)、クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲 (1949)、ピアノとヴァイオリンのためのデュエット (1964) の3曲である。
最初のトラックにあるヴァイオリン・ソナタは5個の単純な音からなる動機が執拗に繰り返され、それに基づいて表情がかわっていくところが狙いなのだろうが、聴いていてややツラい。なぜならモティーフがあまりに単純というか朴訥過ぎてシンパシィの入り込む余地が無いように感じてしまうからだ。その、シンパシィを働かせにくいというような傾向がウストヴォリスカヤの作品には存在する。音楽もまたコミュニケーションを必要とする表現形態だとするのならばそれを拒絶しているのかもしれないような印象がある。なにものをも撥ねつけてしまうような強い意志であり、それは頑なさのなかに屹立する孤高ともいえるのだが、といって高貴とも狷介さとも違うような気がする。もっと生身の感情を剥きだしにしたようなリアリティな音がチラッと見える瞬間があって、それを片山は 「怨み節」 と、まるで演歌のような形容をしたのだろうと思える。

最も聴かせるのは、2曲目の〈クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲〉で、この3つの楽器の組み合わせはバルトークの〈コントラスツ〉と同じである。メシアンの〈世の終わりのための四重奏曲〉(構成楽器はクラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ) にも感じられることだが、クラリネットが担う性格というのは独特なものがあるように感じる。

第1楽章 Espressivo はぼんやりとしたクラリネットで始まるが、ピアノの強い連打に続けて入ってくるヴァイオリンはいきなり鋭く振り切っていて、ピアノに覆い被さるように自己を主張し続ける。その後、激情は萎んで飛散し、再びクラリネットが静謐を受け持って終わる。それは2楽章 Dolce に受け継がれ、淀んだままの音が重なるさまは官能を湛えているように思えるが、それは不毛な官能だ。仮に官能と形容したが、正確にはもっと色彩のない性的な傾向とは無縁な、あるいは押し殺した美学なのかもしれない。
この曲におけるクラリネットのキャラクターは、常にひかえめで、おどおどはしていないがあまり自己主張が強くない。キレまくりのヴァイオリンと好対照となっている。
第3楽章 Energico は古典的とも思えるピアノで始まる。それは溶暗に向かうフーガで、やがてヴァイオリンが加わり、クラリネットが遠慮がちな音でさらにそれに重なる。展開してゆく屈折したフーガは異形の美しさを持っている。この美しさはバロック最盛期のフーガと拮抗し得る強靭さを獲得している。ときにヴァイオリンはフランス風な影を感じさせる部分があるが、もっと強烈だしそもそも最初から優雅さを拒絶している。
ところがそのまま突っ走るかと思っていると、3’00”を過ぎてから音は流れを失って滞留する。クラリネットもヴァイオリンも沈黙し、ピアノが思い出したように間歇音を鳴らすだけで、それもためらいが多くなり、間遠になり、そしてそのまま終わる。華やかで終結感のある典型的フィナーレを嫌うように。

〈ピアノとヴァイオリンのためのデュエット〉は、刺激的な破裂音や強拍による奏法が時にリゲッティを連想させるが、暴力的だったり粗雑だったりすることはなく、コントロールされた構造を持っている曲である。メロディの流れには奇矯さが少なく、比較的スタンダードな現代曲のような印象を持つ。
しかしこの曲もまた、後半が非常に内省的な無音に近い状態に陥り、ぽっかりとあいた暗黒の穴のような状態で終わる。後半の盛り上がりを無くして、カタルシスを避けるようにするのはどのような意図からなのだろうか。

ウストヴォリスカヤの作品は決して禁欲的ではないが、禁欲的な方向性を持っているように聞こえる。その音の選択は厳しくてユーモアとか遊びがない。神秘的な傾向があるとも言われるが、私にはあまり感じとれなかった。虚無感とも違い、暗黒のなかにまだ語るべき言葉はあるのだがそれを飲み込んだ沈黙が支配している、何かが隠されているような世界をその音の狭間に感じる。
ただ、厳しさだけでなく、柔らかさや楽しさも音楽には不可欠である。ウストヴォリスカヤがそうした表情を見せてくれる作品があるのだろうか。もう少し探求をしてみたいと思うものである。

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Galina Ustvolskaya


Patricia Kopatchinskaja/Galina Ustvolskaya (ECM)
Galina Ustvolskaya




Trio for clarinet, violin and piano
Reinbert de Leeuw, piano
Vera Beths, violin
Harmen de Boer, clarinet
https://www.youtube.com/watch?v=KImSwxlEtQk
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リュカ

紹介してくださった、youtubeのリンク先
最近毎日聴いてます(^^)
by リュカ (2015-01-27 08:46) 

lequiche

>> リュカ様

それはどうもありがとうございます。
ちょっと変わった曲ですけど、
難解な現代曲とは傾向が違いますよね。
でもこれはコパチンスカヤの演奏ではないので、
次ブログにリンクしてあるコパチンスカヤの演奏も
聴いていただけるとうれしいです。(^^)
by lequiche (2015-01-28 00:29) 

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