SSブログ

リチャード・パワーズ『オルフェオ』を読む ― fugue [本]

RichardPowers_151023.jpg
Richard Powers (www.stanford.eduより)

リチャード・パワーズ『オルフェオ』を読む (→2015年10月09日ブログ) の続きです。

パワーズがこの小説の中で繰り返していること、それは音楽とは何か、なぜ音楽というものが存在していて、それを必要とする人々が存在しるのかということである。それは比較的早い段階にエルズの言葉によって明確に語られている。

 音楽は “何か” そのものであって、何かを “意味” しているのではない、
 と。(p.79)

これは後に、やや言葉をかえ 「音楽は何かについて語るものでは」 なく、「音楽自体がその “何か” なの」 だとも書かれていて (p.208)、また 「文法はあるが、辞書はない。何かは分かるが、意味はない。差し迫ってはいるが、必要性はない」 のが音楽であるとも言う (p.234)。
そうした音楽に対する姿勢は 「音楽というものは何かをするわけではない。小麦の上の埃よ。砂漠の中の砂よ」 というネルーダの詩句にその源泉があると考えられる (p.403)。

主人公のピーター・エルズという作曲家は、音楽について深く真摯に相対するゆえに、現代音楽という、小難しい音楽を追究すればするほど誰にも理解されず、自分では軽薄だと思う曲やオリジナリティのない模倣性の勝る曲であると思っていたもののほうが一般的リスナーに受け入れられてしまうことの矛盾を感じながら、その生涯を過ごしてきた。
音楽は結局何も伝えられないし、自分が最も伝えたかった音楽は誰にも聴かれなかったのだということをエルズは悟る。それは彼が人生を70年も過ごしてきたときにわかってきた諦念だ。そして木々の葉の葉脈の中に発見したような自然の中にあらかじめ含まれている音楽は誰にも聴かれず、ただそのものとして在るのみなのだ。その虚しさと美しさをエルズは認識する。それは自分がこれまでやってきたことのアナロジーを発見したことでもある。

 曲がどんな働きをするか。私には全くわからない。おそらく何もしない
 だろう。ひょっとすると、それがそこに存在することさえ、人は忘れて
 しまうかもしれない。結局のところ、ただの歌にすぎないのだから。
 (p.396)

「ただの歌に過ぎない」 という表現に、音楽を最も直裁に語る透徹した響きがある。
自然の音楽は、それが自然であるゆえに自然で、ひっそりとそこに在る。聴かれるために音楽はあり、聴かれなかったらそれは音楽ではないとする顕示欲的な音楽認識とは対照的な地点にそれはある。
諦念とは人間的感情であり、自然は卑俗な感情を持たない。それは隔絶した孤高の美学である。つまりオークの葉脈のリズムに達するまでのエルズの道程は、手垢にまみれたこの惑星の音楽という消費財の再生産活動に過ぎなかったのかもしれない。それはあの 「遠い惑星」 とは無縁の腐敗物だ。

だから 「人間は地獄と取り引きをするために音楽を使う」 (p.364) というフレーズには、地獄から妻を取り戻そうとして、その最終過程で失敗してしまったオルフェオ (オルフェウス) の神話を想起させるよりも、物欲や名誉欲のために音楽さえも利用しようとする、すべてが経済システムの範囲でしか成立しない現代の人間社会へのあきらめがあるのだ。対価で換算するしか表現のしようがないものは本来のクリエイトという言葉から限りなく遠く、芸術ではないからだ。

小説の中に頻出する作曲家などの固有名詞とそのエピソードは、エルズの、というよりパワーズの嗜好と視点が見えて興味を引く。
メシアンの収容所における《時の終わりのための四重奏曲》成立までの描写が、音楽の訴求力とその限界点について冷静に語っていることは言うまでもないが、メシアンが子どもの頃、『アスタウンディング・ストーリーズ』を夢中で読んでいたという話 (p.135) は本当のことなのか、もし本当だとしたら、少し意外過ぎて微笑ましい (『アスタウンディング・ストーリーズ』とはSF創生期の頃のアメリカのパルプ・マガジンの誌名である。その頃のSFは通俗とステロタイプな冒険活劇に満ちていて、必ずセクシュアルなイメージを伴う読み物であった。Science Fiction ではなく、Sexual and Fetishism である)。
SFを連想させる描写は終盤のボナーのいる病院の描写にもあって、「施設全体が恒星間宇宙船を舞台にしたSF物語みたいに感じられる」 (p.375) という個所はA・E・ヴァン・ヴォートの『宇宙船ビーグル号の冒険』(The Voyage of the Space Beagle, 1950) のイメージのように感じられる。

メンデルスゾーンに対するエルズの視点あるいは敵意も面白い。
エルズと離婚したマディーは、すぐに堅物の学校長チャーリー・ペネルと再婚するが (p.236)、エルズの知らないところですでに再婚する路線は決定されていたようで、エルズは突然のことにうろたえる。そしてエルズは知り合いを辿って、2人の結婚式がベタなメンデルスゾーンの楽曲で占められていたことを知るが、そこには嫉妬と軽蔑が混在しているように読める。
エルズがリチャード・ボナーと初めて会話したとき、ボナーのプロフィールは次のように説明されている。「彼は昨シーズン、老人ホームを舞台にした妙な『真夏の夜の夢』を演出し」、そして反戦デモにはインド人傭兵の扮装をして参加していたというのである (p.150)。もちろんここで話題にされている『真夏の夜の夢』はシェイクスピアの戯曲のことであるが、音楽のジャンルにはメンデルスゾーンの同名の曲が存在する。
このボナーの『真夏の夜の夢』への執着は、ストーリーの終わりに近く、アルツハイマーになって入院している病院内でのリハビリの一環として、患者 (新薬の被験者) 同士で『真夏の夜の夢』を暗記して応答し合う、というシーンが描かれている (p.372) ところにもあらわれている。
単純にシェイクスピアだけを考えてもよいかもしれないが、なぜわざわざ『真夏の夜の夢』かと考えると、メンデルスゾーンに対するスタンスが見えてくる。つまり大衆受けしていて、上品で、非のつけどころのないメンデルスゾーンというアイテムに対するエルズとボナーの心情と理解の屈折度が現れている。
以前のブログに私はトマス・M・ディッシュの『歌の翼に』について書いたが (→2014年02月01日ブログ)、〈歌の翼に〉もメンデルスゾーンの歌曲である。こうした扱われかたにメンデルスゾーンの普遍性と大衆性を知ったような気がする。

エルズとマディーの間にセーラが生まれて、それから2人が離婚に至るまでの短い幸せな期間、エルズとセーラは2人で毎日、曲を作る遊びをして過ごしていた。そのことを、すでに心の離れていたマディーは父と幼い娘との好ましい交歓と思わない。それは前にすでに引用した 「[妻は2人の作曲遊びを] 金のかかる自堕落なガラス玉遊戯として見ているのだ」 (p.209) という言葉に示されている。
この 「ガラス玉遊戯」 という言葉は、もちろんヘルマン・ヘッセの同名の小説 (Das Glasperlenspiel, 1943) のタイトルを引用しているのだと思われるが、ヘッセには『ロスハルデ』(Roßhalde, 1914/湖畔のアトリエ) という芸術小説がある。『ロスハルデ』は画家と、不和となった妻と、そしてその間にいてどちらにもかわいがられる男の子という関係性で成り立っている。画家には芸術と普段の生活との葛藤があり、にもかかわらず絵画を描くことに没入してゆく芸術の魔力について書かれた作品だと思うが、『オルフェオ』を読みながら私が連想したのはまずこの『ロスハルデ』だった。
『ロスハルデ』の場合、その末路はもっと悲劇的で、そうした悲しみの上に芸術は成立しているように見える。そして『ロスハルデ』の悲劇性はヘッセの人生の一種の投影でもある。同じくヘッセの音楽を描いた『ゲルトルート』(Gertrud, 1910/春の嵐) よりも『ロスハルデ』のほうが、芸術家の心情の強さが顕著であるし、それはパワーズの芸術に対する姿勢にも通じる。

そしてこの 「ガラス玉遊戯」 という言葉は、ショスタコーヴィチについて語る部分での形容、「オルフェウスの遊戯」 という言葉と重なる。次の個所である。

 エルズは車を夕日に向けて走らせながら、一九三六年の火炎嵐へと突進
 していった。オルフェウスの遊戯においてトップの座にあった大胆な作
 曲家。聡明で、いつも予想を超えたことをし、万人に尊敬された人物。
 『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は二年の間、ほぼ完全な絶賛を得て
 いた。(p.308)

しかしスターリンの大粛清が起こり、ショスタコーヴィチもその批判に晒される。そのような歴史的迫害を思い出しながら、そしてショスタコーヴィチの5番を聴きながら、エルズは車を運転し逃亡を続けているのだ。ショスタコーヴィチへの迫害と自分に降りかかってきた災厄が重なっているような思いにエルズが捕らわれる描写が続く。

逃亡の中で、ニューメキシコ州のさびれたモーテルに泊まったとき、シャワーを浴びながらエルズは突然バルトークの幻影を聴く。

 タオルで身体を拭いているとき、バルトークの『管弦楽のための協奏曲』
 の偉大な夜の歌が聞こえてきた。あまりにはっきり聞こえるので、隣の
 部屋から壁越しに聞こえているのだと彼は確信した。彼は立ち上がり、
 耳を澄ました。派手な金管楽器に彩られたその曲は、前世紀の荒っぽい
 ゴミ焼きから救い出す無類の値打ちがあるように思えた。こんな曲を作
 る人間は当然、この世に生きる権利がある。しかし、曲は慈善事業の一
 環として依頼されたもので、作曲家はそれから一年半後、赤貧の中で亡
 くなり、葬儀に参列したのも妻と息子を含め、わずか八人だった。
 (p.344)

バルトークは第二次大戦の中、ハンガリーの劣悪な政治状況から逃れるためアメリカに移住したが、アメリカは約束の土地ではなく、彼はほとんど認められることもなく白血病で亡くなる。バルトークの人生にはメシアンやショスタコーヴィチよりももっと救いがない。

エルズが作曲家としての道をあきらめ、大学に勤めて、地味な音楽を授業をしていたとき、彼は自分がごく初歩的な音楽に現れるセオリーについて自分が知らないことに思い当たる。

 彼は一年生に最も簡単なことを教えようとし、自分がそれを知らないこ
 とに気付いた――なぜ偽終止を聴いた聴衆の胸が切なくなるのか、ある
 いはどうして三連音符がサスペンスを生むのか、あるいはなぜ関係短調
 への転調によって世界が広がるのか。(p.337)

それは最も通俗で基本的な音楽の中に、音楽の本質が隠れていることを意味する発見である。葉脈の中にナチュラルな (ナチュラルの?) 音楽が隠れているのとそれは重なる。
高邁な音楽理論の中に実は音楽の本質は無いということは、エルズが山小屋に籠もったとき、体系 [システム] を捨てること、独創性 [オリジナリティ] でなく模倣なのだ (p.245) と悟ったことにも通じる。

そしてエルズの人生には、何人かの、エルズにとって印象的な女性が存在していて、それが彼の行く道へのガイドとなっている。もちろん最初の女性はクララで、しかしエルズにマーラーを教示したはずの彼女は結局、古楽の中に自分のポジションを見つけて安住してしまったように見える。エルズはイギリスで再会したクララに対して 「彼女からは神々しさが失われていると気づく」 (p.256)。

 二時間にわたる紋切り型の音楽は、二十世紀まで再び現れることのない
 奇矯ではかない音句と驚くべき和声に満ちていた。どこまでが作曲家の
 力量不足で、どこからが隠れた才能なのか、エルズには判別できなかっ
 た。しかし、それはどうでもよかった。その夜のコンサートは、永遠に
 忘れ去られていたかもしれない不揃いな真珠を次々に見せた。(p.256)

それはスウェーリンク (Jan Pieterszoon Sweelinck, 1562-1621) の曲で、「不揃いな真珠」 という表現はバロックの語源であると同時に、クララの性格とその人生を暗示している。コンサートの後に行ったクララの部屋に 「まだ全く無名だったアルヴォ・ペルトの手にキスをする三十九歳の女」 (p.262) の写真をエルズが見つけるのもそのあらわれである。エルズはペロタンの宿る過去の闇にクララを置いて去ってきたのだ。

エルズの娘セーラは、幼い頃はエルズと毎日、曲を作って遊ぶが、やがて《ミクロコスモス》を弾くようになり、マディーとの離婚後、成長してニューヨークにやってきたときは破れTシャツを着てザ・クラッシュの〈ロンドン・コーリング〉を聴いている (p.240)。さらにエルズが山小屋に籠もっていたときには、やかましい音楽を聴いてルービックキューブで遊ぶようになっている (p.245)。だがそうした子供時代の反抗期を越えて、20歳になる頃、再び父と会うようになる (p.340)。そしてエルズがセーラからもらった犬がレトリバーのフィデリオだったのだが (p.363)、音楽を理解する利巧な犬だったそのフィデリオが死んだところからこの小説は始まっているのだ。
セーラはマディーと異なり、エルズを理解しようとしている。

逃避行の末にエルズはマディーとも会う。そしてマディーに告げるのだ。

 君とセーラを捨てて音楽を選んだのは間違いだった。たとえ世界を変え
 るためとはいえ。(p.330)

それがエルズの本心なのかどうかはわからないが、彼の語った音楽観である 「差し迫ってはいるが、必要性はない」 が事実なのだとすれば、音楽は究極には必要が無いのだという諦念であるともとれる。
セーラに対するエルズの思いは 「これが私の作った唯一まともな曲だった」 (p.402) という言葉にすべて集約されている。つまりストーリーの中に流れているのは一人娘への愛情であり、子育ての記録でもあり、それはセンチメンタル過ぎる結末にもつながる。
エルズが14歳の時、父親が急死し、それ以後彼は継父にも慣れ、マディーとの結婚と離婚を過ぎ、そして結局ひとりになってしまうが、セーラやボナーがいるとはいえ、その触れ合いは薄かったり間歇的だったりして、エルズの生涯はその芸術観と同様に孤独である。

また、何度も衝突と和解を繰り返すボナーとの生涯の関係は友情というものの記録でもあるかもしれないが、そうした結論にしてしまうと、輝かしかったはずの芸術論的構造が急に安っぽく色褪せてしまうようにも思えるので知らないふりをすることにする。
ボナーという人物への私の印象はまるでセルゲイ・ディアギレフのようで、だとするとエルズは当時の作曲家の誰か、たとえばモーリス・ラヴェルとかそのあたりなのかもしれない。

エルズとボナーが出会って、マディーに歌わせようとしていたエルズの〈ボルヘス・ソング〉を早速演劇化しようと試みるエピソードから私が連想したのは、なぜかクルト・ヴァイルの《三文オペラ》だった。ブレヒトとボルヘスでは随分違うような気がするが、違わないようにも思える。

パワーズが頻出させるノスタルジックな固有名詞はハンナ・バーベラの〈フリントストーン〉とか〈ジェットソン〉までならなんとかわかるが (p.150)、〈チュー・チュー・チャーリー〉(p.151) となると謎である。まるでハーラン・エリスンの〈ジェフティは五つ〉(Jeffty is Five, 1977) のようだ。本物の固有名詞の中にウソが混入しているところも同様である。そうした固有名詞の多さを楽しめるのかどうかもパワーズを読む鍵なのかもしれない。


リチャード・パワーズ/オルフェオ (新潮社)
オルフェオ




《追記》
朝日新聞2015年10月25日に大竹昭子さんの本書の書評が掲載されています。簡潔で本質をとらえている明快な書評で、当ブログの100倍は良い内容です。ネットに公開されていますので是非ご一読ください。
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015102500012.html
nice!(76)  コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 76

コメント 9

lequiche

>> desidesi 様

わざわざありがとうございます。
チュー・チュー・チャーリーに関しては訳書本文に割注があり、
「カンゾウ入りのキャンディー “グッド&ブレンディー” の
コマーシャルアニメにはチュー・チュー・チャーリーという
男の子のキャラクターが登場した」 とあります。
これだと思います。初めて見ました。
https://www.youtube.com/watch?v=ExSlyoVTX3I

わからないものは他にもあって、たとえば
1967〜68年頃だと思うのですが、
「途方もないパーカッションパートから成る、
サイケデリックな二枚組アルバム」 (p.182) というのが
あまりにも漠然としていてよくわかりません。
by lequiche (2015-10-23 13:03) 

lequiche

>> desidesi 様

いろいろとお調べいただき、ありがとうございます。
この文章の前後はこうなっています。

 その一年は、偶然によって組み立てられた交響曲のようだ。一連の、い
 かがわしいナイトクラブ的道化芝居。途方もないパーカッションパート
 から成る、サイケデリックな二枚組アルバム。エルズはある日の午後、
 音感訓練の講義を終えた後、テト攻勢のニュースを耳にする。ジョンソ
 ン大統領自身もそれから間もなく、衝撃的な演説を行う。

この部分はおそらく時系列で書かれているので、
この後、記述はキング牧師暗殺、パリ五月革命、ロバート・ケネディ暗殺
と続きます。
ジョンソンの演説が1968年3月31日ですから、
そのアルバムは1967年暮れから1968年3月のリリースだと考えてみました。
一番アヤシいかなと思ったのはクリームの《Wheels of Fire》ですが、
アメリカでの発売が1968年7月なんです。

1968年という年の音楽のトピックということで、
時系列は前後するが最初にこれを書いた、
というのだったらアタリなんですが、なんとなく納得できません。
また 「いかがわしいナイトクラブ的道化芝居」 という言葉が
二枚組アルバムに形容としてかかっているのか、
それとも道化芝居は別のことなのかもよくわかりません。
そんなアルバム、ないよ〜ん!というオチかもしれませんが。(^^;)
by lequiche (2015-10-23 18:38) 

majyo

立ち寄っただけでは理解できません。
時間のある時に ゆっくりこちらを拝見したいです
本を読み、引用と感想と、それを書かれていますが
すごく深いと感じます。

by majyo (2015-10-23 19:25) 

lequiche

>> majyo 様

ありがとうございます。
内容的にちょっと深入りし過ぎているかもしれませんが、
どんどん深入りするのもいいかもしれないと思いながら
書いてみました。
作品に共感する部分が多いので面白いですし、
パワーズは人気作家だからでしょうか、
多くのアクセスをいただき感謝している次第です。
by lequiche (2015-10-23 21:16) 

lequiche

>> desidesi 様

desidesiさんとこうしてやりとりしているうちに
だんだん整理ができてきました。
クリームってサイケデリックなのか? と思っていたのですが、
ジャケットデザインなどを見ると、こういうのでも
当時はサイケデリックと称していたみたいです。
ですからクリームの《Wheels of Fire》で正解です。

とするのなら、
「一連の、いかがわしいナイトクラブ的道化芝居。
途方もないパーカッションパートから成る、
サイケデリックな二枚組アルバム」 という部分は
1968年全体の中でのロックを概観して言ったことだ
と思います。
「テト攻勢のニュースを耳にする」 以降からが
1968年の事件の時系列的羅列になります。

とすると、「一連の、いかがわしいナイトクラブ的道化芝居」
というのはおそらくジミ・ヘンドリックスではないでしょうか。
ジミのスタジオ・アルバムは基本的には3枚しかなくて
Are You Experienced (アメリカ発売:1967.08.23)
Axis: Bold as Love (同:1968.01.15)
Electric Ladyland (同:1968.10.16)
と1967〜1968年に続けてリリースされています。
ジミは当時のステージの動画を見てもかなりラフですし、
たぶんセクシャルなアクションとか、卑猥なことも
していたのではないかと考えられます。
ということでいかがでしょうか。

原文にあたってみれば、もう少し具体的なことが
わかるかもしれません。
翻訳で1個所気になるところがあって、それは
「電子鍵盤楽器」 という単語に 「オンド・マルトノ」 という
ルビが付いてるというものです (p.349)。
電子鍵盤楽器なんて山ほど種類があるんですから、
オンド・マルトノはオンド・マルトノそのままでいいと思います。
この翻訳はとても素晴らしい訳なんですが、
そういう細かいところのニュアンスに関して
何かヒントがあるのかもしれません。

ブログはやめないで、カップ麺買うのを少し控えて (笑)
本を買ってください。(^-^)/book
by lequiche (2015-10-24 03:47) 

lequiche

>> desidesi 様

確かに《Disraeli Gears》のジャケットなんて
色がサイケデリックですね。
う〜ん、クリームってサイケだったのか……。(-_-;)
つまり全体的流行としてなんでもサイケデリックと名付ければ
売れるんだから、みたいなことだったんでしょうね。

「“本物の” 電子楽器」 だからわざと強調した、ということですか。
なるほど。そういう意味を込めてるというの、わかります。

パワーズの書き方は、比喩にしても、
「アンソールが描いたような」 とか 「ピラネージが」 とか
読者はそんなこと当然知っているものと想定して書きます。
ショスタコの5番についてもアルヴォ・ペルトにしてもそうです。
さらっと書いているので、オイオイ!という部分もあります。

図書館で読めるのならいいですね。
カップ麺は死守してください。ブログネタだし。(^o^)(^o^)
by lequiche (2015-10-24 12:35) 

gorge

やっと読みました。自分の読書メーターより。──面白かった。音楽の中に入り込んだような文体は、ペンタゴンを浮き上がらせるような非日常的な読書体験を味あわせてくれる。過去と現在、死者と生者、今と永遠、などいくつかのコントラストを経巡りながら、音楽と遺伝子の秩序を等しく見ようとする主人公のロマンティシズムを駆り立てるのは、生命と同じように音楽は、何かを意味(指示)しない「それそのもの」であることだ。最初のガールフレンドのひりひりした個性が魅力的。
by gorge (2020-02-24 09:12) 

lequiche

>> gorge 様

そうですか。よかったです。
現代音楽に対する視点というのが、とても参考になりましたし、またこの本によってあらたに解った部分もあります。メシアンやバルトークに言及する箇所にはシンパシィを感じましたし、自分の音楽の聴き方は間違っていなかったと思ったほどです。
ひりひりとした個性のガールフレンドですか。なるほど。じゃあどうなの? と思って私はスウェーリンクのCDまで買いました。ブログ本文にも書きましたが、この本以前に私はトマス・M・ディッシュの『歌の翼に』というのを読んでいて、全く違うようでいながら共通性を感じる部分があって、なんとなく両者がごっちゃになっているところもあります。
パワーズの音楽のとらえかたとして、高踏と卑俗という対比を感じるのですが、ディッシュの場合、それがより卑俗寄りであり、ギルバート&サリヴァンに代表されるいわゆるサヴォイ・オペラという大衆向け作品とか、そしてミネアポリスが出てくるところなども、今考えると、ディッシュとプリンスとの共通性を感じます。『歌の翼に』が書かれたのが1978年、そしてプリンスのデビューも1978年なのです。
ただ、パワーズは最初とっつきにくい部分があって『舞踏会へ向かう三人の農夫』は読み始めたのですが挫折しました。物語に没入するまでがむずかしいです。
by lequiche (2020-02-26 02:23) 

gorge

では次はディッシュを読んでみます。

クララが古楽に行くというのは、まあ「失われた神々しさ」のわかりやすい比喩なんでしょうが、スヴェーリンクにも神々しさはあるわけで……。

60年代以降の現代音楽の手頃なクロニクルにもなっていますよね。だったらフルクサスとか書いてほしかったけど。

ちょうどこの時期、感染症の話題がぴったり、というところもあるし、音楽だけではなくて、大衆化/高踏というコントラストもありますね。大衆社会の果てのネオリベと金融と細菌。

いずれにしろご紹介ありがとうございました。「オーバーストーリー」はどうなんでしょうか。
by gorge (2020-02-26 09:14) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0