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チェリビダッケを聴く [音楽]

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Sergiu Celibidache

チェリビダッケは影の人である。
最も興味を持ったきっかけはHMVのトピックスにあった鈴木淳史の記事である。それは1992年のブルックナー7番、確執のあったベルリン・フィルとの38年振りの演奏のBDの映像に対する解説であった。鈴木淳史によればそれはチェリビダッケにとっても、ベルリン・フィルにとっても、双方が満足できていない演奏で、けれどそれゆえに 「その両者の拮抗がウネリとなって、強烈な瞬間をところどころに聴かせる演奏になった」 のだという。
これって穿った見方をすれば、失敗作だから買うなというニュアンスにもとれるのだが、そうだとするとかえってどうしても見たくなるような、人間の好奇心につけ込むような上手い解説であった。

そのチェリビダッケの Warner Classics盤のいわゆる《Celibidache Edition》というのが廉価だったので今、聴き始めているところだ。なぜ 「いわゆる」 かというと、HMVでもtowerでもamazonでもそのような表記になっているが、実際のパッケージにはどこにも editon という文字が見られないからだ。でもわかりやすいので Celibidache Edition と呼ぶ慣用に従うことにする。

セルジュ・チェリビダッケ (Sergiu Celibidache, 1912-1996) はルーマニア人の指揮者で、第2次大戦後、ナチ協力者として指揮者の職から遠ざけられたフルトヴェングラーにかわってベルリン・フィルの後継指揮者コンクールで優勝し、デビューしたのがそのキャリアのはじめである (フルトヴェングラーの戦時下の動画は→2015年10月18日ブログにリンクしてあるが、これを見るとハーケンクロイツの圧政がリアリスティックに感じられ、フルトヴェングラーがナチ協力者と名指しされたのも仕方がないような印象を受ける)。
しかしチェリビダッケは尊敬するフルトヴェングラーのために奔走し、彼をベルリン・フィルに返り咲きさせることに尽力しながらも、自らはベルリン・フィルとの関係性を悪化させてしまう。その結果としてフルトヴェングラーの死後、その後継はカラヤンに渡ってしまい、チェリビダッケはローカルなオーケストラを渡り歩くことになってしまったのである。陽はカラヤンにあたり、チェリビダッケは常に曇り日の道を歩いていた。

彼の指揮は、特に晩年になってからの特徴として、まずテンポが 「遅い」 ということがよく言われる。また生前、演奏を録音してそれがメディアになって世間に流通されることを極端に嫌ったため、レコードやCDが少なかった。そのためコンサートでしか聴くことのできない幻の指揮者と言われ続ける。死後、多くの録音が発売されたがそれも厳選されていて、まだ多くの録音が公開されていないということだ。

Celibidache Edition の Symphonies というセットにはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、シューマンの交響曲群が収められている。ベートーヴェンはその交響曲のほとんどが収録されているが第1番だけなくて、そのかわり第4番が2つある。
まずこのベートーヴェンを聴いてみる。CD3というディスクには第2番と第4番がカップリングされていて、第2番もとても良いが、この第4番ともうひとつの第4番 (CD5に収録) の2つを聞き比べてみるのが面白い。それぞれ1987年と1995年の録音で、後者は最晩年の演奏であるが、まず世評にあるテンポ設定が 「遅い」 ということについて、そんなに遅くはないんじゃない? と私は思う。演奏時間で物理的に比較すれば遅いのかもしれないが、音楽のスピード感というのは相対的なものであって、たとえば晩年のカール・ベームは本当に遅くて、そのままどんどん遅くなって指揮棒持ったまま死んじゃうんじゃないか、と不謹慎なことを考えてしまうくらいだった印象があるが、チェリビダッケはそういうふうには遅くないのである。

この2曲の第4番では、1995年のほうがすごくチェリビダッケである。特に第2楽章など、おいおい、そーゆーのあり? ってくらいにあちこちに仕掛けがあって、聞こえないはずの音が聞こえたり、くっきり感が妙に鮮明なところがあったりして、私が連想した比喩は、すでによく使われている表現だが、グレン・グールドの指揮者版だということであった。最初は 「ええっ?」 と思うのだが、次第に慣れていくとそれがとても心地よい。
でも第5番だと、トリッキー過ぎて、ちょっとあざといかな、と感じてしまう部分もある。このへんの境界線がむずかしくて、でも極端な緩急の違い、強調感の違いを武器としてリスナーに迫ってくるところもグールドに似る。
ブラームスの第1番 (CD10) も、第4楽章のゆったりくっきりとした造形が 「至福のブラームス味」 となって、それは上質な料理とか酒類のようで、心に次々とまとわりつく。私にはブラームスの第1番の規範としてフルトヴェングラーがあるが、こういう第1番もありだなとも思わせられてしまうのがチェリビダッケの魔術なのかもしれない。

グールドはコンサートを拒否してスタジオに籠もりその録音のみが彼の表現形態であったが、チェリビダッケは逆に複製して再生される音楽を拒否しコンサートに全てを賭けた。それらは正反対のように思えて実は同一なのではないかとも思う。
チェリビダッケはブルックナーを得意としていたが、私は比較的ブルックナーが苦手なので、チェリビダッケの解釈がどうなのか、今、急激に興味が湧いているところだ。


Celibidache Symphonies (Warner Classics)
Celibidache: Symphonies




Celibidache/Mozart: Requiem (rehearsal)
https://www.youtube.com/watch?v=yiM0Yr4cXBE
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U3

冒頭から音楽の素養の無いわたしでも引き込まれる文章でした。
by U3 (2015-11-15 20:58) 

lequiche

>> U3 様

コメントありがとうございます。
チェリビダッケは伝説の人なので、
あまりメディアに露出して来なかった面があります。
少し目を引くようなエピソードから始めるのが
そうしたキャラクターへのアプローチの方法かなと考えました。
幸いなことに録音が数多く残されていたので
伝説が伝説だけで終わらないで済んだとも言えます。
by lequiche (2015-11-16 15:20) 

prin4795

コメントありがとうございます。

教養の塊みたいな方で、恐縮です。
わたくしめの、くだらない言いたい放題で~お恥ずかしいです(うっふ)

クラッシックは、
こちらには九響が、ありまして
前はよくモーツァルト(シリーズであったので)(モーツアルトはお好き)を続けていってました。初心者です。
まあ~チンブンカンブンかな?
by prin4795 (2015-11-17 15:49) 

lequiche

>> prin4795 様

いや、教養は無いですね。まだまだ何も知りません。
好奇心なら少しはあるのかもしれませんが。

モーツァルト、いいですね。
モーツァルトには音楽のすべてがあります。
地元にそうしたオーケストラがあるのは
文化的な土壌があるからで大切なことだと思います。
聴いているうちに、何かが変わってくるかもしれません。
音楽とは直感的なものですから。
by lequiche (2015-11-18 00:21) 

sig

こんにちは。
音楽のことは分からないながらも、このような解説を読ませていただくと、生意気ですが全く映像の構成や演出と共通であることを感じます。
by sig (2015-11-20 19:18) 

lequiche

>> sig 様

コメントありがとうございます。
確かにそうですね。
映像でも演劇でも、オーケストラやオペラでも、
多数の人間を動かさなければならない場合は、
必ずしも芸術的才能が全てではありません。
いわゆるマネージメントを含めての才覚が必要ですし、
それも含めての評価という部分はあると思います。
チェリビダッケはそうした面がやや不得手だったのでしょうが、
でもそれが歴史の中でどう評価されていくのかは、
もう少し経ってみないとわからないです。
by lequiche (2015-11-21 00:51) 

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