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夏の終わりの嬰ハ短調 ― 橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読む・2 [コミック]

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大島弓子/綿の国星

2016年09月10日ブログのつづきである。

これは仮定の話だが、大島弓子が『綿の国星』を描いた後、それだけで終わりにしてしまったのなら、かなりカッコよかったと思うのだが、続きを描き、さらに猫シリーズを延々と続けてしまったのは、やはりそれだけの需要があったからなのだろう。現実とはそんなものである。

それでともかく、本篇の『綿の国星』(1978) の話。
須和野時夫は、「今なら何をやっても少年Aで済む」 と思っている大学受験に失敗した少年である (もはや少年でもないか……)。時夫は子猫をひろうが、その猫 (チビ猫) は自分がいつか人間になることを信じているので、少女の姿として描かれる。つまりマンガの視点はネコの目から見たネコを主体とする世界なのだ。
しかし、チビ猫が明日を信じているということと、だからといって人間として描かれるということは、よく考えれば直接的な関連性はない。それを成立させているのが大島の魔法である。

まず、須和野時夫というネーミングは 「須臾 (しゅゆ) の時を」 の意味ではないかと私は思う。人間より寿命の短い猫と過ごす限られた時のことをそれは表している。それでこの須和野という姓に似た本須和という姓が使われているマンガにCLAMPの『ちょびっツ』(2000-2002) がある。『ちょびっツ』は人間と機械との恋というSFの永遠のテーマのひとつをなぞっている作品だが、その主人公に本須和秀樹という名前をつけたのは、CLAMPが大島弓子のこの作品を意識していたのではないかと思う。
こうした恋の形態はいわゆる〈人でなしの恋〉であって、〈人でなしの恋〉というのは人間と人間以外の恋を指す。語源は江戸川乱歩の同名の小説 「人でなしの恋」 (1926) であるが、この乱歩作品はつまりピグマリオン・コンプレックス (人形愛) である。たとえば《ブレードランナー》(1982) も人間とアンドロイド (レプリカント) の恋ということにおいて同様である。

少年Aと子猫 (つまりどちらもまだ子ども) という主人公の設定に対して、大人と子どもの関係性を明確にするためだろうか、橋本は次のように書く。

 大人は、子供を人間とは思っていません。子供は子供だと思っているの
 です。でも、子供は自分を人間だと思っています。そして自分を “子供”
 だとも思っているのです。(後p.223)

最後のフレーズ 「そして自分を “子供” だとも思っているのです」 という部分を除いて、この 「子供」 という個所を 「猫」 と置きかえれば、チビ猫の心情が浮かび上がる。つまり猫という言葉はメタファーであり、弱い者、子ども、女をあらわしている。
チビ猫として描かれている少女は (ではなくて、少女として描かれているチビ猫は) 少女期の大島であり、しかしそれは個としての少女でなく普遍的な少女となる。チビ猫に対して近づけない猫アレルギーの時夫の母は、同時にチビ猫の仮想母であり、それは普遍的な母として還元される。
そしてここで一般論的少女の性への目覚めと不安・恐怖について橋本は次のように分析する。

 子供の内部には一つのものがありました。得体の知れない、恐ろしく思
 える何かがありました。
 子供は知ります ―― そのことは、口にしてはならないものだと。それ
 はひきずり込むような何かです。身を滅ぼさせる予感のする何かです。
 そしてそれが “性” なのです。(後p.223)

自分の内部にあるものを知った少女は、少女でありながら 「おとな子ども」 になってしまったのであって、そうなってしまったら、知らなかった頃の子どもに戻ることはできない。そして 「性」 とはsexという言葉に包含される全ての意味あいとしての 「性」 である。

さてここで、いつか自分は人間になると思っているチビ猫に対して 「否」 を言う猫・ラフィエルが出現する。ラフィエルは 「猫は人間にはなれない」 と言い、「猫は猫たるすばらしさを おしえてやるよ」 とチビ猫を諭す。(後p.230)
ピノキオが人形から人間に変わったように、いつか猫から人間に変わると思っていたチビ猫にとって、ラフィエルの言葉は願望が不可能であることを認めざるをえない冷徹な最後通牒である。

 あまりにも
 ハンディがありすぎるじゃない
 なんでそんなこと おしえるのよ!!
 なんでそんなこと おしえるのよ!!

しかしそれに対してチビ猫は 「それでも生きてみよう」 と思ったのだ、と橋本は書く。それは 「生きてみよう」 とする意志であって、今まで自分の中にあったのは 「生きている」 ことを認識する意識だけだった。しかし 「生きてみよう」 と言ったことは、明日を見ようとする意志 (が芽生えたの) だ、というのである。それは自分自身を信じることにもつながり、そしてそれが『綿の国星』のテーマなのだという。(後p.231)

この 「人間に変わることを信じている猫」 という現象がメタファーなだけでなく、人間←→猫という対比そのものがメタファーであるという構造にもなっているのだと私は思う。
自分ががんばって獲得しようと思ってもかなわぬこと ―― だからといってそれを軽々しくあきらめてしまっていいのか、と言っているのがチビ猫の意志なのだ。それは見た目の弱々しさとは全く異なる強固な意志である。

     *

『バナナブレッドのプディング』は謎のような作品である。それは『綿の国星』に先行して描かれた。
橋本が指摘するように、主人公・三浦衣良 (みうら・いら) は読者の感情移入を拒否している状態で登場する。衣良は自分が食べられてしまうかもしれないという恐怖を持っていて、それを友人の御茶屋さえ子に言い、共感を得ようとする。

 衣良がこわがるのは、“10時すぎまでおきていると 美しいお面をかむっ
 た 男か女かわからないひとが 大きなカマスを用意して待っていて 
 子どもをつめて ひき肉機にそのままいれてたべてしまうという話” を、
 いまだに彼女が信じているからなのです。(後p.243)

そんな状態の衣良を彼女の両親は 「精神鑑定させよう」 とひそかに話し合い、しかしそれを衣良は聞いてしまう。そうした両親に対する不信をも、衣良はさえ子に言う。

衣良の怖がっている得体の知れないものは、衣良の内部にいるものなのだ。それは衣良に襲いかかり凌辱する男であり、そして衣良は男に襲いかかられるのを待っている女でもある。男が私を脅かすのではんく、男の心をそそり、煽り立てて狂わせるものが私という女なのかもしれない、と衣良は思う。だからそれは恐怖でありながら、同時に拒みきれない、甘美な何かなのかもしれない、とも衣良は思うのだ、と橋本は書く。(後p.243)

これはまさに少女期の、性的なものへの恐怖と願望のあらわれである。そうしたナイーヴなことを、大島はこうしたエキセントリックな衣良というキャラクターに仮託して叙述する。それは極端であるかもしれないがわかりやすい。
そして衣良が結婚相手として求めているのは、「世界にうしろめたさを感じている男色家の男性」 である。それはつまり性的なものへの恐怖と忌避である (男色家なら自分に手を出してくることはないという安心感)。そしてその理想の相手を、さえ子の兄、御茶屋峠 (おちゃや・とうげ) であると思い定める。だが峠は、衣良に合わせてそのフリをしていただけで実は男色家ではない。

世間にうしろめたさを感じているのは、実は男色家でなく衣良なのだが、衣良は自分の意識が虚ろであることを認めようとはしない (後p.246)。自分の存在が世間にとって必要だと思い込みたいために、衣良は 「うしろめたい男色家」 を助けてやろうとすることを自分の存在意義だとするのだ。それは性的行為から自分を遠ざけようとする正当な理由にもなると考えたのだろう。というよりもっと一般的な、恋愛感情によって自分が傷つけられることから逃げようとする意識といってもよい。
しかし、衣良の助けを必要とするような、そんな男色家は存在しないし、もっといえば衣良を必要としている人間はいない。そういう衣良は孤独であり、被害妄想であり自閉症的であると橋本は見る (後p.251)。

その他の登場人物の関係性は、よくあるTVドラマのようだ。御茶屋さえ子はサッカー部の少年、奥上大地 (おおかみ・だいち) に恋するが、奥上は 「世間にうしろめたさを感じていない男色家の少年」 である。そして御茶屋峠に恋している。さえ子は兄の峠に変装して、奥上の愛をかなえてやろうとするが、やがて奥上を追うことをあきらめる。
奥上は男色家の新潟教授の愛人であったが、教授は奥上が峠に恋していることを知り、奥上に対してサディスティックな行為に及ぶ。
衣良は御茶屋峠が男色家を装っていただけなのを知り、峠と別れて新潟教授に嫁ぐが、教授を誤って刺し、再び峠のもとに戻る。

衣良は王道的なTVドラマならばエキセントリックな端役のはずだ。その衣良がこの作品においてなぜ最も重要な主人公であるのか、というのがこの『バナナブレッドのプディング』の特殊で斬新な色合いに他ならない。
それは橋本が指摘するように、世界 (世間) が王道TVドラマの設定も含めて、男性主導の原理によって動かされていることへのアンチテーゼとして作用しているのだ。

 社会とは、男の都合に合わせてできているもので、女や女の子は、その
 都合に合わせれば都合よくやっていける仕組になっているものなのです。
 (後p.262)

と橋本は書く。つまり端的に言えば 「女は男と結婚すれば幸せになれる」 という原理であり、それが男の都合であり、世間的な正しさであり (もっと言えば正義であり)、それを体言化しているのがやさしい男としての御茶屋峠である。しかし衣良はその社会的都合に合致していない。

 衣良の不幸は、男の都合の枠の外にある問題です。御茶屋峠に理解はで
 きません。(後p.263)

夢の中の人喰い鬼に食べられてしまった衣良は自らが人喰い鬼となってしまい (吸血鬼に血を吸われた者が自ら吸血鬼になってしまうのと同じパターン)、そして理想の 「うしろめたい男色家」 とはほど遠い存在だった新潟教授を見限り、御茶屋峠のもとに戻るのだ。伊良は 「その社会の都合によって深く傷ついている」 (後p.265) のであり、それを癒やすのには峠を必要としたのだった。そんな衣良に峠は暖かいミルクを差し出して飲むようにいう。そして 「ぼくは きみが だい好きだ」 という。

 衣良は初めて自分に許します、「生きてみよう」 という意志を持つこと
 を。
 その意志を持った衣良は、人喰い鬼に食べられてしまった衣良です。衣
 良は言います ―― “でも わたしは鬼だから いつこの人をやいばにか
 けるか わからない それがこわいのです でも峠さんが それでもか
 まわぬというので ここにおります”。(後p.267)

そうした衣良のことを 「人喰い鬼に食べられてしまうことによって、初めて衣良は “普通の少女” になれました」 (後p.267) と橋本はいう。(「「生きてみよう」 という意志」 という言い方はチビ猫に対してのものと同じだ。)
「人喰い鬼に食べられてしまう」 という形容が、単に性的なものに対する克服であるということであるのと同時に、そもそも人喰い鬼とは何かというメタファー自体が何かということを考えさせる構造になっている。

さて、この『バナナブレッドのプディング』は、どのようにして『綿の国星』と関連しているのか。

 『綿の国星』のチビ猫は、生まれ変わった衣良なのです。だからチビ猫
 は、生まれながらにしてすべてを知っている無垢の少女なのです。(後
 p.268)

しかし、それでありながら同時にチビ猫はすべてを知らない。なぜなら、

 “知る” 迄に至ったすべての時間、“知る” 迄に感じたすべての苦しみすべ
 ての喜びを、すべて捨て去ってしまったのです。(後p.268)

と橋本はいう。
すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であることがチビ猫としてリセットされた衣良なのかもしれない。そしてその無垢の心が『綿の国星』の冒頭に続くのだ。

 春は長雨
 どうして こんなにふるのか さっぱりわからない
 どうして急に だれも いなくなったのか さっぱり分からない
 (後p.218)

チビ猫は捨て猫で、須和野時夫に拾われ物語が始まる。
それを彷彿とさせるのが CLAMP『ちょびっツ』の冒頭である。その時代、パソコンは人間のかたち (多くが美少女) をしていて、ゴミ捨て場に捨てられていたパソコン 「ちぃ」 を本須和秀樹が拾ってくるのだ。
ちぃはすべての記憶を失っている。しかし秀樹は、ちぃに恋するようになる。次第にちぃの謎が明らかになってくるが、ちぃは起動する毎に初期化されてしまうのだ。だからそれまでの、秀樹のこととの記憶はすべてリセットされてしまう。しかし、ちぃが自分のことを忘れてしまっているのだとしても秀樹はちぃのことを愛する、というのが『ちょびっツ』のラストなのだが、すべてを知っていながら、すべてを知らない存在であるということにおいて、テーマは共通である。
ちぃの耳 (ヘッドフォン) はネコ耳の変形のようにも見える。

私は少し脱力感のある大島弓子が好きだ。たとえばそれは 「パスカルの群」 (1978) とか 「毎日が夏休み」 (1989) から感じ取れる。それはちょっとエキセントリックな恋愛観であったり家族観であったりするし、そのしなやかさややわらかさに騙されるけれど、芯にある強靱さを忘れてはならない。

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大島弓子/バナナブレッドのプディング


橋本治/花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出書房)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 前篇 (河出文庫)




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大島弓子/バナナブレッドのプディング (白泉社)
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NO14Ruggerman

今回も蘊蓄が詰まっていて、大変興味深く拝読しました。
「須臾」・・勉強になりました。
by NO14Ruggerman (2016-09-16 13:19) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

いえいえ、蘊蓄とかそんなのじゃなくて、
ファンクラブ通信とか読者投書欄とか、その程度です。

須臾は私の推理ですから違うかもしれません。
ただ大島先生は、即物的でちょっとヘンなネーミングと、
ときとして古風な言い回しを用いるときがあります。
上記に画像を追加しましたが、
「わたしは三浦衣良 イライラの衣良と申せましょう」
などと言ったりします。
それとこの、いきなりの長めのネームは、
私は最初『いちご物語』で出会って衝撃を受けました。
by lequiche (2016-09-16 21:49) 

末尾ルコ(アルベール)

『綿の国星』は、わたしがティーンの頃(笑)には既に神格化していて、チビ猫には熱烈な支持者がおりました。ふと思い出しましたが、大島弓子とは別の意味で別格扱いの漫画家が吾妻ひでおだったですね。わたしの周囲にも「吾妻は天才」と崇めている人がいました。そう言えば、つい最近、eテレで浦沢直樹が池上遼一の仕事場を訪ねる番組があったんですが、なかなかおもしろかった。池上遼一とつげ義春、水木しげるとのつながりは知らなかったので意外でした。それにしてもつげ義春の影響力は尋常ではないなと。 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-09-18 08:06) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

大島弓子と吾妻ひでおですか。
なるほど、そういう見方もあるんですね。
吾妻ひでおやつげ義春は、幾つか代表作は読んだ記憶がありますが、
ごく一般的な読者レヴェルで、とても語れるほどではありません。
それに詳しい人がたくさんいそうだし。(^^)
浦沢直樹の番組は《漫勉》ですね?
今、シーズン3ですが、見たいと思いつつ
見るのをつい忘れてしまいます。
by lequiche (2016-09-18 22:24) 

向日葵

大島弓子は大好きですが、「綿の国星」の頃は、
ワタクシ自身はもう「漫画から離れ始めていて」
この頃の作品には記憶も思い入れも無いような。。

ご存知とは思いますが、この10月から12月迄、
文京区の「弥生美術館」で、「山岸涼子展」を
3期に分けて開催中です。

また、「黒子のバスケ」が11月1日から、
「夏目友人帳」が11月11日から、
池袋西武の西武ギャラリーで開催されます。

どちらも新しいので、もっと若い方々が中心かとは
思いますが、一応お知らせまで。。


by 向日葵 (2016-10-30 01:25) 

lequiche

>> 向日葵様

そうなんですか。
確かに大島弓子の代表作は〈綿の国星〉以前に
ほとんど出尽くしているという感じもありますが……。
このブログタイトルの〈夏の終わりの嬰ハ短調〉は
〈夏の終わりのト短調〉のタイトルのパロディですが、
バナナブレッドの次の作品で、強い印象が残っています。
このへんに私は一番思い入れがあります。
そのあたりの時代だと、あと、森川久美とか、
そして内田善美!ですね。

最近はマンガ関係の展覧会が多いですね。
喜ばしいことに、ややブームなのかなと思います。
〈こち亀展〉にも、もちろん行きました。(^^)
by lequiche (2016-10-31 01:22) 

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