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gray and tan fantasy ― アーシュラ・K・ル=グィン『天のろくろ』・1 [本]

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Ursula K. Le Guin (1980)

アーシュラ・K・ル=グィン (1929-) の『天のろくろ』(The Lathe of Heaven, 1971) は Amazing Stories に発表後、1971年のネビュラ賞、1972年のヒューゴー賞、1972年のローカス賞を受賞したル=グィンの最も活発な創作期の作品である。作品リストを見ると1969年『闇の左手』(The Left Hand of Darkness)、1971年がアースシー (ゲド戦記) の2作目『こわれた腕輪』(The Tombs of Atuan)、1972年が『さいはての島へ』(The Farthest Shore) である。そして1974年『所有せざる人々』(The Dispossessed) と続く。

だが、不思議なことにこの『天のろくろ』のみ、入手しにくい状況にある。1979年にサンリオSF文庫の1冊として刊行されたが、この文庫そのものが廃刊となってしまった。廃刊後、本書は復刊されていないので (オンデマンド出版はあるが、現実的な価格ではない)、古書にたよるしかない。『サンリオSF文庫総解説』(2014) という本があって、これを見ながら古書を探せということらしいが、それより全てを復刊して欲しいものである。但し、なかにはやや超訳みたいなのもあるのだというが、そうした翻訳にはまだ当たっていない (それをいうのなら、ハヤカワミステリの初期にもトンデモ訳は存在する)。

以下、ネタバレがあるので未読のかたはご注意ください。

ストーリーはとてもシンプルで、主要な登場人物は3人しかいない。
ジョージ・オアは自分の見た夢が現実となってしまう恐怖から逃げようとして薬中毒となり、自発治療処分 (VTT=Voluntary Therapeutic Treatment) とされ、治療を受けるためにウィリアム・ヘイバー博士の診療所を訪ねる。
オアは独白する。17歳のとき、まだ両親と暮らしていた。同居していた叔母が、執拗に性的な行動をとってオアを誘惑してくる。オアは夢を見る。夢の中で叔母はロサンゼルスで交通事故に遭って死に、電報が来る。目を覚ますと、それは現実であり、はじめから叔母などいたことがないことになっていた。(p.21)
ヘイバーは最初、オアを精神分裂病者 (と翻訳されている) では、と見立てるのだが、オアの夢が本当に現実を変えてしまうことを発見する。その変化度は歴史そのものを変えるほど強大で、オアのみが改変前と改変後の複数の記憶を持っているが、その他の人々は変わったことに気がつかない (ないしは、一種のパラレル・ワールドであるともいえる)。

ヘイバーは最初は好奇心から、次第に現実を自在に変化させられることに夢中になり、オアの夢の改変パワーをツールとして利用するようになる。そして自分自身の権力と地位を増加させてゆく。町医者はやがて巨大な建物を有する研究所長に昇格してゆく。ヘイバーはつまりマッド・サイエンティストのカリカチュアである。

オアは自分の夢がヘイバーの私欲に利用されていることを知り、それを阻止するため、弁護士であるヘザー・ルラッシュに相談する。ヘザーはヘイバー博士の治療に立ち会い、オアの夢が現実に変化することを目撃する。
オアが、毎日地下鉄が混み合っていてイヤだ、といっていることに対し、ヘイバーが 「混雑に悩まされない夢を見るんだ」 と暗示をすると、オアは世界の人口が激減した夢を見てしまう。巨大なビルが霧散してしまう窓外の風景を、同席したヘザーも見てしまうのだ。

 七十億に近い人口をかかえ、それがなおも等比級数的に増えつつある実
 在 (もうない) 世界の記憶と、総人口が十億にも満たず、今なお安定して
 いない実在 (現に) 世界の記憶だ。(p.109)

オアだけが複数の記憶を持ち、効力のある夢を見る毎に世界は変換してゆき、幾つもの記憶が重層する。
オアはヘイバーに対して抵抗しようと試み、「自分を道具として使うことは拒否しなければならない」 (p.125) と思いながらも、医療行為だから従わなければならないとするヘイバーの強制力の下に萎縮してしまう。

 ぼくにはどんな運命もない。あるのは夢だけだ。そして今他人がその夢
 を操っている。(p.125)

 I haven’t any destiny. All I have is dreams. And now other
 people run them. (E: p.67)

主人公のオア (Orr) というネーミングはゲド戦記 I『影との戦い』のエピグラフに出てくるエア (Éa) を連想させる。

 ことばは沈黙に
 光は闇に
 生は死の中にこそあるものなれ
 飛翔せるタカの
 虚空にこそ輝ける如くに
     ――『エアの創造』――

 Only in silence the word,
 only in dark the light,
 only in dying life:
 bright the hawk’s flight
 on the empty sky.
      ― The Creation of Éa

おそらくエアという名前はアースシー世界における創造主 (=神) として設定されているが、オアという名前がそれと似た語感であることは、その創造が空虚な創造ではあるにせよ、彼が 「クリエイター」 である暗示となり、また 「either or」 の or でもあることを感じる。
物語の終わりのほうで、ヘイバーはオアに皮肉めかして言う。

 「[君は] どちらでもあり、どちらでもなし。それとも、あるいは [イー
 ザー・オア] というわけだ」 (p.231)

 Both, neither, Either, or. (E: p.118)

そして二項対立的な言葉の群れは、ゲド戦記のテーマであると同時に『闇の左手』のテーマでもある。

冒頭でオアが診療所に行きヘイバーと出会ったとき、ヘイバーは自分のことを夢の専門家であると自己紹介し、夢屋 (An oneirologist) とも言い換える。
oneirology (夢学、夢判断) という言葉はある程度大きな辞書でないと載っていないのだが、oneiro- という語はギリシャ神話のオネイロス (Oneiros) が語源で、オネイロスは夜の女神ニュクスの子どもであり、兄弟たちとして、モロス (死の定業)、ケール (死の運命)、ヒュプノス (眠り)、タナトス (死)、モーモス (非難)、オイジュス (苦悩) といった不吉な名前が並ぶ。

この小説の舞台はオレゴン州ポートランドであり、それは作者ル=グィンが長年住み慣れている土地である。小説の中のオレゴンでは地球温暖化による推移の上昇により地球の気候が変化してきて、雨が降り続いている。それは映画《ブレードランナー》(1982) のイメージに近い。

 オレゴン州の西部では昔から雨が多かったが、今ではなまぬるい雨が、
 片時も止まずに絶えまなく降りそそいでいた。そこで暮らすのはまるで
 永遠に注がれ続ける暖かいスープの中で生きているようなものであった。
 (p.47)

 It had always rained in western Oregon, but now it rained
 ceaselessly, steadily, tepidly. It was like living in a downpour
 of warm soup, forever. (E: p.29)

1970年代には地球は寒冷化しつつあり、これから氷河期が来るかもしれないという説もあったのだという。そんな時期に今の温暖化する地球を予言するようなル=グィンの想像力は的確である。

(→2017年09月23日ブログへつづく)

参照書:
天のろくろ (サンリオSF文庫、1979)
The Lathe of Heaven (Panther Books, 1974)
ゲド戦記 I 影との戦い (岩波書店、1976) [参照は1992年第24刷]
A Wizard of Earthsea (Paffin Books, 1971) [参照は1977年第10刷]


アーシュラ・K・ル=グィン/天のろくろ (サンリオ)
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アーシュラ・K・ル=グィン/天のろくろ (ブッキング)
https://www.amazon.co.jp/dp/4835442210/

アーシュラ・K・ル=グィン/ゲド戦記 (岩波書店)
少年文庫版「ゲド戦記」セット(全6巻) [ アーシュラ・K.ル=グウィン ]





The Beatles/With a Little Help from My Friends
https://www.youtube.com/watch?v=SkyqRP8S93Y
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末尾ルコ(アルベール)

アーシュラ・K・ル=グィンは記憶を辿っても、一冊も読んでいない気がします(とほほ)。う~ん、すごく損しているような気がしてきました。またいろいろチェックしてみます。
わたしが読んできたSFは、やはりフィリップKディック、それと中学くらいの頃に『渚にて』とか『幼年期の終わり』『トリフィド時代』などの古典とされるものですね。そして作家の名前がすぐに出てきませんが、短編物がけっこう好きで、午後の徒然に読むのが好みでした。あ、それと今突然思い出しましたが(笑)、高校時代は日本のSFはよく読んでました。まあだいたいメジャーどころですが、筒井康隆は必読というムードがありましたし、今となってはやや赤面ものの平井和正なんかもけっこう読みました。あ、また突然思い出しましたが(笑)、半村良もの伝奇小説も続けざまに読みました。SFとは言い難いですが。
わたしは海外文学が好きなのですが、こうして振り返ると日本のエンタ小説が中心の時代もあったのだなと、新鮮な気持ちで振り返った次第です。

アニエス・メロンの情報までありがとうございます。声楽家を多く知っているわけではありませんが、フォーレの「レクイエム」に関してはメロンの歌唱はなぜか印象に残っていました。
「レクイエム」と言うと、確かにたいがいは「重さ」を感じてしまいますね。それが悪いわけではないですが、フォーレのものは特別な「軽さ」を感じます。その「軽さ」はもちろん「軽薄」という意味ではなくて、それこそ「羽毛のような軽さ」です。いかにもクラシック音楽理論などに素人のわたしらしい(笑)感想ですが。

キリスト教文化に関しては、神学がこねくり回し続けて打ち立てたドグマの部分はダメですが、美術、文学、音楽などに与え続けている影響を考えればとてつもない貢献をしてるわけで、近年日本では「キリスト教をディスればそれでそれで日本が偉くなったつもり」の人たちがいるけれど、そういうのは賛成できません。

ゲンズブールの『Histoire de Melody Nelson』はあまり聴いてなかったので、今じっくり聴いています。これは確かに充実したアルバムですね! RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-09-21 12:54) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

SFはジャンルとしてはエンターテインメントですし、
娯楽だけに徹している作品も多いですが、
ル=グィンはそれだけではないという意味で、
非常に重要な作家だと私は思います。
ル=グィンとジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、
この2人の女性のSF作家は特別です。
『幼年期の終わり』などのいわゆるSFクラシックは
SFというジャンルのなかで確立された評価がありますが、
ル=グィンやティプトリーはその次の世代であって、
認識論とでもいうべきものが違います。

ル=グィンの《ゲド戦記》は小学校6年生以上向けの
児童文学なのですが、最初に読むのならこれです。
内容だけでなく、原文も翻訳もとても美しいからです。

エンターテインメント性ということでは、
ある時期の日本のSFとその周辺にはパワーがありましたし、
平井和正とか半村良も、私はあまり読んではいませんが、
必ず楽しませてくれるということでは素晴らしいです。
筒井康隆、必読ですか!(^^)
まだ巨匠にならない頃の、初期作品は良いですね。

フォーレのレクイエムの軽さは、たしかにそう感じます。
レクイエムというジャンルはつまり鎮魂ミサ曲ですから、
普通に考えれば、やはり重いです。
フォーレの音作りは簡素ですが、ヘタではなくて、
たとえばサン=サーンスは手練れなので、
上手い手抜きの仕方をしていると感じるときがありますが、
フォーレは朴訥であり正反対です。

ヨーロッパ文化はキリスト教ありきで発達してきたので、
しかしその教条性に対してのアンチテーゼが出てくるのは
仕方がないですし当然だと思います。
でも日本の場合は、現在宗教的な信念を持って
一番支持されているのは新興宗教ですから、
バックボーンとなる歴史や文化が存在しません。
つまりそうした 「ディスり行為」 は空虚で
その歴史に対抗するだけの内容を持っていませんから
空振りです。

メロディ・ネルソンというのは
デヴィッド・ボウイのジギー・スターダストと同じで
アルバムのなかでのキャラクターです。
ボウイほど大がかりではないですが、
その偶像性はゲンズブール特有のものです。
以前、日本のタレントで 「melody.」 という人がいましたが、
こわいもの知らずですね。
名づけた人がゲンズブールを知らない可能性もありますが。
by lequiche (2017-09-22 09:37) 

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