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胡蝶の夢、孤独な夏の燕 ― アーシュラ・K・ル=グィン『天のろくろ』・2 [本]

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Ursula K. Le Guin’s Blog, 24 July 2017より

gray and tan fantasy ― アーシュラ・K・ル=グィン『天のろくろ』・1 (→2017年09月21日ブログ) のつづきである。

ヘイバーとオアの戦いは、限りなく肥大化する欲望をオアの夢により実現させようとするマッド・サイエンティストと、それを阻止しようとするオアの良心との戦いである。
ヘイバーは何とかして夢を有効なものにしようとコントロールを試みるが、たとえばヘイバーが 「戦争を無くして世界の平和を」 と暗示したことに対して、オアの夢は 「人類共通の敵 (=異星人/the Alien) を出現させる」 という反応になる。必ずしもヘイバーの意図した結果にならないことに対するオアの反応は、「あなたが使おうとしておいでなのはぼくの理性的な精神ではなくて、ぼくの無意識なんです」 と答える (p.146)

訳者の脇明子はオアをドストエフスキーのムイシュキンやアリョーシャ的な性格であるととらえている。底知れぬ受動性や強靱な無垢がオアであり、それはドストエフスキーへのリスペクトではないか、というのである (訳者あとがき/p.312)。
そして、由良君美はル=グィンの『所有せざる人々』(The Dispossessed) の原題はドストエフスキーの『悪霊』(The Possessed) のもじりではないか、とも言う。『悪霊』の英語タイトルには «The Devils» «Demons» などがあるが、最初に英訳されたときのタイトルが The Possessed だったのである。

小説のなかでヘイバーは、身の回りのことなどにはこだわらないような、いかにもマッドな博士として描かれている。対するオアは、ヘイバーのギラギラ感とは正反対であり、男性としては弱々しげで、受動的性格であることをあらわすためか、その外見は細身で色白として描かれている。
この2人は対照的ではあるが、ありがちな設定だ。しかしヘザー・ルラッシュはすごく特徴的で、ドストエフスキーには出て来ないような女性であり、「猛烈で優しく、強くてもろい」 と脇明子は書く (p.313)。
オアに付き添ってヘイバーの治療に立ち会ったヘザーは、いくつもの金属製の装身具を付け、身体中ががちゃがちゃかちかちと鳴り響いている。彼女は褐色の肌をしているが、それは両親が白人と黒人だったことによる。その肌の色をオアは美しいと感じる。
脇明子は、このヘザー・ルラッシュはル=グィンの理想の女性像ではないかと指摘している。

ヘザーは行方不明になったオアを探し出す。それは人里離れた山小屋で、オアは自分が眠ると悪い夢を見てしまうのではないかと恐れて、眠らない努力をしている。今ある現実は実は夢で、もうなくなってしまったと思われているものが真実だったのではないか、とオアは考える。これは胡蝶の夢なのだ、と。
ヘザーはオアを安らかに眠らせようとシロウトな知識で催眠術をかける。ヘイバー博士が良い人になるように。そして月にいる異星人が月からいなくなるように、と。
すると、「月からいなくなるように」 という暗示に対するオアの無意識の出した結果は、異星人が月からいなくなって地球へ攻めてきた、という発想で、地球は大混乱となる。

しかし異星人はコンタクトの方法がわからなかっただけで、好戦的な種族ではなかった。やがて異星人は地球で、人間にまぎれて暮らすようになる。だんだんと地球上でのポジションを獲得してゆく。亀の甲羅のような外見をしているが、おそらくそれは宇宙服のようなもので、その中に何が入っているのかはわからない。
ヘイバーの治療という名の欲望に引き戻されたオアは、人種差別撤廃の夢を見る。すると人間の身体の色は全て灰色になってしまい、皮膚の色の差別は存在しなくなっていた。食べものには味が無く、街をゆく人々は皆灰色だった。その灰色一色の世界にヘザーは存在していなかった。
街中で、悪性の癌に冒された者はそれを隠していただけで逮捕され粛清される。ヘイバーはこう言う。

 我々は健康を必要としている。不治の病を持っている者や、種を退化さ
 せるような遺伝子の損傷をかかえこんでいる者を置いておく余地は、ま
 ったくないんだ。(p.237)

これはナチスの選民意識であり、整然と美しく見える世界は空虚なディストピアなのだ。ヘイバーの欲望はどんどん膨らみ、自分の欲望を満たすためにオアに、さらなる夢を見させようとする。
オアは、街の場末にある異星人の店を訪れ、謎の言葉 「イアークル」 とは何かを訊ねる。イアークルとはオアの夢を形容する異星人の言葉である。異星人はそれには答えず、禅問答のような回答をする。

 「一羽ノ燕デハ夏ニハナラナイ」 とそれは言った。「手ガ多ケレバ仕事は
 軽イ」 (p.260)

 ‘One swallow does not make a summer.’ it said, ’Many hands
 make light work.’ (E: p.132)

そして異星人はオアにビートルズの古いレコードをくれる。それは『友だちがちょいと助けてくれりゃ』(With a Little Help from My Friends) だった。
オアは自宅に帰り、地下の部屋に住んでいる管理人から蓄音器を借りてビートルズを聴く。何度も聴いているうちに眠ってしまう。起きると部屋のなかにヘザーがいて、二人は7カ月前に結婚したことになっていた。

ヘイバーの夢への欲望は果てしが無い。ついにオアの夢を介してでは無く、オアの夢のパターンを機械によって模倣させ、自分自身で夢を見るための増幅機を完成させる。ヘイバーは、もうオアへの治療は必要なくなったと宣告する。
オアは妻のヘザーと一緒に、ヘイバーのもとから去り、食事をしに行く。その途中で世界に異変が起こる。ヘイバーの夢によって、世界が崩壊を始めたのだ。ヘイバーの欲望の果てに作り上げられた巨大なHURADタワーは虚無の中にあった。オアはヘイバーの機械を止めるためにその虚無の中へと侵入する。

 彼はさらに前進を続け、最後のドアにたどり着いた。彼はそれを押し開
 いた。ドアの向こうには無が広がっていた。
 虚無は彼を引き寄せ、吸い込もうとした。彼は 「助けて」 と叫んだ。たっ
 たひとりきりでこの無の中を通り抜けてむこうに行くのは不可能だった。
 (p.262)

 He went on and came to the last door. He pushed it open. On
 the other side of it there was nothing.
 ‘Help me,’ he said aloud, for the void drew him, pulled at him.
 He had not the strength all by himself to get through
 nothingness and out the otherside. (E: p.147)

オアは夢魔 [ナイトメア] の中で増幅機のボタンを押しOFFにする。すると巨大なHURADタワーは消失し、そこはすすけた診療室になっていた。
こうした虚無の恐怖を描くル=グィンの筆致はさすがである。この部分はアースシーの『さいはての島へ』のなかで、世界が壊れていくさまを連想させる。

最終章である第十一章の冒頭に荘子の引用がある。

 星光は無有に尋ねた。「師よ、あなたは存在するのか? それとも存在
 しないのか?」 だがその問いに答は得られず……
                    ――荘子 第二十二 (p.298)

 Starlight asked Non-Entiny, ‘Master, do you exist? or do you
 not exist?’ He got no answer to his question, however....
                 ― Chuang Tse XXII (E: p.151)

訳者は、荘子の英訳をさらに日本語に訳したのでこのようになっているが、元の荘子は次のようである。引用個所の続きを含んでいる。( [  ] 内は直前のルビ)

 光曜[こうよう]、無有[むゆう]に問いて曰わく 「夫子[ふうし]は有りや、
 其[そ]れ有ること無しや」 と。光曜、問うを得ずして、その状貌[じょう
 ぼう]を孰視[じゅくし]するに、窅然[ようぜん]空然たり。終日之[これ]
 を視[み]れども見えず、之を聴けども聞こえず、之を搏[う]てども得ざ
 るなり。光曜曰わく 「至れり。其れ孰[たれ]か能[よ]く此[ここ]に至らん
 や。予[われ]能[よ]く無を有すれども、而[しか]も未[いま]だ無を無しと
 すること能[あた]わざるなり。無を無しとするに及びてや、何に従[よ]
 りてか此[ここ]に至らんや」 (世界の名著 老子荘子 p.461/中央公論社)

光曜がstarlightとなっているので、それをさらに訳すと星光になってしまうのが面白い。

ヘイバーの効力のある悪夢により街は崩壊していた。オアは郊外の混沌の中で異星人に出会う。異星人はオアをアパートで寝かせてくれる。
オアはベッドの上で、「あなたはどこでお寝みになるんですか」 と異星人に尋ねる。異星人は 「ドコデモ、ナイデス」 と答えたが、「二つに区切られたその言葉はそれぞれに等しく深い意味を持って響いた」 (p.299) という。「ドコデモ、ナイデス」 の部分は 「No where」 である。時代的に見て、ル=グィンが意識しているのはビートルズの〈Nowhere Man〉だと思われる。

そしてオアは収容所にいるヘイバーに会いに行く。ヘイバーは 「失われていた」 (p.303)。つまりコミュニケーション能力を失い、廃人になっていた。

ポートランドはヘイバーの悪夢による崩壊から次第に復興し、オアは異星人のキッチン・シンクの店で台所用品のデザイナーとして働いている。そのショールームにヘザーがやって来る。しかしヘザーはオアのことを覚えていない。この時象では彼女はまた別の人なのだ。
やがてヘザーはオアのことをうっすらと思い出す。ヘザーは雇い主に勧められて、ヘザーを隣の喫茶店に誘う。

 彼はヘザーと連れだって夏の午後の暖かな雨の中に出て行った。異星人
 は水族館のガラス越しに外を見ている海の生きものさながらに、ガラス
 張りの店の中に立ち、二人が眼の前を通り過ぎ、霧の中に消えてゆくの
 を見つめていた。(p.310)

オアは無垢の者であったはずなのに、ラストシーンでは記憶の無いヘザーが無垢の者になってしまうというアイロニー。それは起動する毎に初期化されるCLAMPの『ちょびっツ』(2000-2002) の悲しみに似る。そしてあいかわらず雨は降り続く。

ル=グィンが老荘思想に影響を受けていることはよく知られていることであるが、胡蝶の夢もまた荘子である。
人が蝶の夢を見ているのか、それとも蝶が人の夢を見ているのか。もし蝶がこの世界を夢見ていただけなのだとすれば、この世界は何なのか。そうした認識論から見えてくるのは、この小説を単純に夢のエピソードとしてだけではなく、何らかのメタファーとして読み取るかどうかにかかってくる。
そしてまた、限りなき欲望が人間の思考そのものを歪めてしまう狂気は、人間の歴史の中に恒常的に存在するものなのだということを感じさせる。


参照書:
天のろくろ (サンリオSF文庫、1979)
The Lathe of Heaven (Panther Books, 1974)
ゲド戦記 I 影との戦い (岩波書店、1976) [参照は1992年第24刷]
A Wizard of Earthsea (Paffin Books, 1971) [参照は1977年第10刷]


アーシュラ・K・ル=グィン/天のろくろ (サンリオ)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8G8V8/

アーシュラ・K・ル=グィン/天のろくろ (ブッキング)
https://www.amazon.co.jp/dp/4835442210/

アーシュラ・K・ル=グィン/ゲド戦記 (岩波書店)
少年文庫版「ゲド戦記」セット(全6巻) [ アーシュラ・K.ル=グウィン ]





The Beatles/With a Little Help from My Friends
https://www.youtube.com/watch?v=SkyqRP8S93Y
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コメント 4

末尾ルコ(アルベール)

これは読み応えがありますね。ドストエフスキーや老荘思想との関連も刺激的です。ちなみにドストエフスキーは現在マイブームでして、いろいろ引っ張り出して読んでいるんですが、あの普遍性は凄いですね。人間性の根源を掘り下げる作業を極めれば、時代や国家、民族の差異などを乗り越えることは十分可能なのだと、あらためて気づかせてもらえます。
ところでlequiche様は、例えば気に入った作品は必ず原書もお読みになることにしておられるのでしょうか。こうして原文も並立していただけるので、とても理解しやすくていつも助かっております。
それにしてもル=グィンの綿密に構築された世界観や人物造形は今回のお記事を拝読しただけでもよく伝わってきて惚れ惚れします。この前、日本のSFをよく読んでいた件のお話をさせていただきましたが、そしてそれはSFだけでなくどのような小説についても総じて言えることですが、日本のものは書き込みの少ないものがどうしても多く、「気分転換」にはなっても、「生涯何度も読みたい」という作品は少ないです。特にそれはエンターテイメント系の小説に共通する現象であって、「本屋大賞」的なものが好セールスを記録するようになってから、ますますその傾向が強まっている気もします。

>限りなき欲望が人間の思考そのものを歪めてしまう狂気

「欲望」という感情のほとんどは、少しでも深く思考すれば「無意味」であることは明らかなのですが、多くの人間は「少しでも深い思考」をしないものなのでしょうね。

>ル=グィンとジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

ありがとうございます。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアもまったく読んでおりません(とほほ)。またチェックしてみます。それにしても世界には、「読みたい本」が無数にありますね。まったく本を読まない人生を送っている人たちが異星人に見えなくもありません(笑)。

>以前、日本のタレントで 「melody.」 という人がいましたが、こわいもの知らずですね。

こういうケース、日本には無数にありますね(笑)。おそらく「無知の怖いもの知らず」でしょうが。なにせわたしの家からやや近い場所には、「rive gauche」なんていう美容院がありますし。もちろん高知市です(笑)。   RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-09-23 17:29) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

老荘は常識のアンチテーゼのように解釈される場合がありますが、
実はそうではない、というところにル=グィンの思想も重なります。
この小説全体をメタファーと考えれば、
「悪は必ず滅びる」 という教条的なテーマなのかもしれませんが、
現実には悪は滅びず、むしろ正義が必ずしも勝つわけではない、
というか、そもそも正義なんてあるの?
というのが2017年現在のこの地球という世界です。

カラマーゾフは高校生の頃に読みましたが、
そのときはイヴァンの思考に深く共感したのですけれど、
やはりアレクセイなんですね、究極には。
中井英夫の『虚無への供物』に出てくる亜利夫は
不思議の国のアリスでもあり、アリョーシャとも呼ばれます。
ニュートラルなキャラクターという意味あいもありますが、
オアもアレクセイも弱い性格のように見えてそうではありません。

原書は読みません。そんな語学力はないです。(^^)
ただ、気になる個所を確かめたいときがあるので、
その場合、原書があったら参照します。
たとえばこの小説の場合、無とか虚無という言葉がありますが、
それがどのように書かれているのか興味がありました。
No whereの個所などもそうです。
脇明子の訳はヘイバー博士の言葉遣いがやや時代がかっていますが、
すぐれた翻訳だと思います。

本というものはもともと伝達用のメディアであって、
それが小説の場合でもほとんどは使い捨て・消耗品に過ぎません。
キッチンペーパーとかビニール傘と同じなのです。
むしろそういうものなのだと割り切ったほうがいいと思います。
郊外書店とドラッグストアは同じです。

映画《ブレードランナー》には
「2つで十分ですよ」 という有名なセリフがありますが、
2つで十分なのに3つも4つも欲しがり、
それが手に入るとさらにもっと多く欲しがるのが金持ちの習性です。
そして金が手に入ると、次は地位が欲しくなる。
それを体現しているのがこの小説のヘイバー博士ですが、
今の時代の某国大統領も同じです。

ティプトリーについては以前のブログに書きました。
http://lequiche.blog.so-net.ne.jp/2012-10-13
まだお読みになっていない作品に先入観を与えたらいけない
とは思うんですが、上記ブログに書いている 「男たちの知らない女」
という短編に出てくるパースンズ母娘というのは、結局、
ゴダールの《ウイークエンド》のコリーヌ (ミレイユ・ダルク)
なんだと思います。

読みたい本だけに限らず、すべての目標は達成されないままで
人間は死んで行くのだと思うと、虚しさはありますね。

リヴ・ゴーシュ、調べたらそういう店名は山ほどあります。
日本にある川のそばには必ずある店なんじゃないでしょうか?
ファッション系には多いです。
尚、ロートレアモンというファッションブランドには
ドロワット・ロートレアモンというブランドもあります。

セロ弾きのゴーシュに対抗して、
ヴァイオリン弾きのドロワットはどうか、と言ったら
宮澤賢治ファンから殴られました。(^^)
by lequiche (2017-09-24 12:48) 

うっかりくま

本を丸ごと一冊読んだような充実感のある記事で、
とても興味を持ちました。御記事が解りやすく且つ
深くて、すっかりこの本を読んだ気分になっています。
何度でも世界を崩壊させたり再生したりする人間の
想像力の凄さにゾクゾクしますが、最近は現実の方が
それを上回りそうで怖ろしくなります。

by うっかりくま (2017-09-25 23:37) 

lequiche

>> うっかりくま様

どうもありがとうございます。でも、
結末まで書いてしまったのは書き過ぎだったかもしれません。
オアが隠れ住んでいた山小屋にヘザーが訪ねていくシーン、
私はなぜかマーラーの作曲小屋を連想します。
ヘザー・ルラッシュは
シェリー・プリーストの『ボーンシェイカー』のブライアとか
http://lequiche.blog.so-net.ne.jp/2012-09-25
ターミネーターのサラ・コナーなども似た系列ですが、
もうちょっと知的です。

褐色の肌というのにも意味があって、
灰色一色の肌色の世界にヘザーが存在しないというのは、
そうした一見平等に見える世界は、
実は個性を喪失したディストピアであるということです。
今、アーレントを読んでいるんですが、
そこに繋がるような気がします。

最近の現実はこうした虚構より、もっと下品ですね。
ドラゴンボール超では魔神ブウが来ないというんですが、
魔神ブウとか人造人間19号とか、もうねぇ〜・・・似てます。
(誰に? ^^;)

マルガレーテ・フォン・トロッタのアーレントの映画評にも
考えさせられるものがあります。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37699
by lequiche (2017-09-26 05:44) 

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