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キース・ジャレット ―《サンベア・コンサート》を聴く [音楽]

keithjarrett_171202.jpg
Keith Jarrett, 1978 (rollingstone.comより)

キース・ジャレットの演奏にはソロ・ピアノというジャンルがあって、プロモーションをそのまま受け売りするのなら完全な即興演奏ということなのだが、最も有名なアルバムは《Solo Concerts: Bremen Lausanne》(1973)、そして《The Köln Concert》(1975) であろう。
延々と30分も40分も途切れなく弾き続けるというスタイルで、これらは非常に評判となった。前者はLPで3枚のセットであった。

その勢いのまま、1976年に日本でのソロ・ライヴを録音してリリースされたのが《サンベア・コンサート》である。これは初出のLPでは10枚組、それをCDにしたのが6枚組という構成になっている。10枚組という枚数は、その当時、キース・ジャレットがいかにソロピアノというスタイルで売れたかという証左である (特に日本で)。

私は最初のブレーメン/ローザンヌ、そしてケルンは聴いた覚えがあるが、サンベアも少しは聴いたのかもしれないけれど、その全部は聴いていないのではないかと思う。つまりその程度の記憶しかないわけで、それは量的に多いということがまずプレッシャーとしてあるし、しかもそういうフォーマットが流行っている頃のハイテンションで聴くのならともかく、この21世紀になってから 「かつて、こういうソロピアノという形態の演奏がありました」 という歴史的事実としてそれを聴くというのはちょっとどうかな、という気持ちになっていた。

まず、完全な即興演奏というのは存在しない、と私は思う。それはかつてチャーリー・パーカーのインプロヴァイズに関しても書いたことがあるはずだが、パーカーには多くのストック・フレーズがあり、そのストックを瞬時にその場に合わせてピックアップして再現させることが即興であって、そのストック・フレーズが多ければ多いほど即興で演奏しているように見えるが、でもそうではないこと。とはいっても、その瞬時の対応力というのは誰にでもできるものではないので、それがパーカーのパーカーたる所以なのである。
もちろん、後から考えて、なぜここでこんな神がかったフレーズが出て来たのだろう、ということはあるのかもしれない。しかしそれでもそのフレーズは今までの経験値から自分の意識下の感覚が選び取って出現させたものであるはずであり、そこに神は介在していないのである。

それはキース・ジャレットにも同様に言える。何もないところに、天から何かが下りてきて音楽を紡ぐ、みたいなことがよく言われるが、それは美しい詩であり宗教的でもあるけれど、真実ではない。
キースの場合はフレーズではなく、一種の循環的な手クセのパターンが数限りなくあって、そのヴァリエーションをその場の雰囲気により選び取ることによって、だんだんと音楽が推移してゆく、というふうにとらえてよいのだと思う。

キースのこの当時のソロピアノの上手いところは、ひとつの循環的パターンから次のパターンに移っていく経過の作り方にあるといってよい。自然に徐々に変わっていく場合もあるし、無調風な音を介在させながら変わってゆく場合もある。

《サンベア・コンサート》を今までそれほど聴きたいと思わなかったのは、やはり枚数が多くて、すでにソロは食傷気味であるし、悪い表現をするなら 「どれも皆同じ」 とも思えるからだ。今回、タワーレコードからSACD盤でリリースされたので、これを機会に聴いてみようかと考えた。ちなみにECMの限られた何枚かがすでにSACDとなっているが、私の個人的感想をいえば、ECMの場合、普通のCDフォーマットで十分なのではないかと思う。それがその時代の音なのだ。

まだ最初の1枚しか聴いていないのだが、disk 1: 京都1976年11月5日を聴いてみる。音が意外にアヴァンギャルドで、変わったアプローチで入って行く。その部分がなかなか良い。キース・ジャレットの場合、ここからどういうふうに音が変わっていって、こういうリズムになって、というような形容はあまり意味がないように思える。全体の流れで、それが自分の聴いている気持ちにフィットするかどうかが問題なのだ。
彼のソロピアノには毀誉褒貶あり、神がかりなのを押し売りし過ぎるプロモーションや、クラシック演奏会を上回るような禁忌に対しての不満もあるようだが、私はコンサート自体にはあまり行きたいと思わないので関係ない。それにたぶん、現在のキースとこの70年代のキースの音楽性は異なるだろう。
そういう視点でいうと、この京都はかなり良い。全然長いとは思えないから繰り返し聴きにも耐えられるし、構成も大体良いが、最後の終わりかたがやや尻切れトンボかな、という感じはする。

サンプルとしてYouTubeを探したが、サンベアの音はほとんどなくて、東京のアンコールばかりで、他の演奏は削除されているのばかりだった。
この東京のアンコールのトラックは私の好みでいうとあまり良くない。パターンにステロタイプなにおいがするし、少しセンチメンタル過ぎる。しかしその分を差し引いても、この1976年がどういう時代だったかというのはこの短めのトラックからも、なんとなくわかるような気がする。
その翌年の1977年は最初の《スター・ウォーズ》であるエピソード4が公開された年である。もう昨夜になってしまったが、TVでエピソード5《帝国の逆襲》が放映されていたので、そのことに気がついた。とりあえず日本も、今よりはまともで元気だった時代のはずである。


Keith Jarrett/Sun Bear Concerts (tower records/ECM)
sunbear_171202.jpg
http://tower.jp/item/4602141/

Keith Jarrett/Sun Bear Concert, Tokyo 1976 encore
https://www.youtube.com/watch?v=0JqiPJeTWB4
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コメント 11

末尾ルコ(アルベール)

10枚組は凄いですね。でも70年代くらいまではそうしたものを有難がる風潮が日本人の音楽ファンにあったのだと思います。ロックでは、ピンク・フロイドの長い曲の入ったアルバムが有り難がられたり。わたしはリアルタイムではないのですが、読書好きの間では、サルトル、キルケゴール、カフカ、カミュらが普通に知られていて、読まなくても(笑)取り敢えず本は持っていたりして。映画ファンの間では、特にゴダールやベルイマンらを普通に語るというような感じですね。わたしの周囲の大人にもそういう人たちけっこういました。母方の親戚の家へ行くと、カミュの『幸福な死』を書斎に並べていたのが印象的だったのですが、後から考えたら、(誰も読んでるはずがない)でしたし(笑)。文学全集がよく売れていたのもそんな風潮の一端だったのかなと。今考えると、滑稽な要素も満載ですが、それでも多くの日本人が知的に背伸びしようとしていた時代でもあり、「知的な面はどうでもよくなった」現代よりはよかったのかなとも思います。
キース・ジャレットはいろいろ聴いておりますが、総じて言えば(笑)、好きです。とは言え、『サンベア・コンサート』はまだ聴いておりませんでした。リンクくださっている曲も美しいですね。即興演奏について、かつて渋谷陽一が、「ジャズが大衆から離れてしまった原因は即興演奏だ」的なことを書いていたことがあって印象に残っています。ただ、渋谷陽一も最近の話は、かつての断定的で白黒明確にし過ぎるパターンとは違ってますので、今もそう思っているかどうかは分かりません。番組の中でもよくロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンの名が出てきますし。それはさて置き、lequiche様の即興演奏に関するご説明、とても興味深く拝読いたしました。
『スター・ウォーズ』エピソード4日本公開の時は、事前に「米国でとんでもない大ヒットになっている」という情報が大きく先行していましたが、日本では案外「とてつもない大騒ぎ」的でもなかった感があります。映画館が、高知でさえも(笑)異常に盛り上がっていたのが『ET』の時で、劇場の外へ溢れんばかりの観客が、自転車が飛び始めると大歓声を上げていました。

今ちょっと、ロック史を復習し直しています。(自分はロックを分かっている)と思い込んで幾年月、しかし非常に偏った聴き方をしていたことを最近痛感し、つまり実は一部ブリティッシュに偏っていたという感じなのですが、もっとしっかり概観できるようにいろいろ聴いておるところです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-12-02 09:20) 

すーさん

キース・ジャレット…なんともかんとも
理解が難しいピアニストですねぇ^^;。
by すーさん (2017-12-02 17:38) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

今はクラシックCDだと10枚組980円とかありますが、
当時のLPはとんでもなく高かったわけですから、
やはり一種の信仰みたいなものなのかもしれません。

ネットが発達する前は紙媒体は伝達手段として重要でした。
でも本が売れていたのはそれだけではなくて、
やはり知的な、最低限の教養を得ようという意欲が
あったのではないかと思います。

即興演奏という表現は、どこまでを即興ととらえるか、
によって異なるとは思いますが、
ジャズが大衆から離れてしまったという見方は、
たとえばジャズがボールルーム音楽だったときを
隆盛期と考えるのなら、単にダンスブームが下火になった
ということだと思います。

たとえばバッハが宗教曲を指揮しながら
弾いていたクラヴィア (通奏低音) は、
基本的なコード進行だけは決まっていますが、
展開している音はそのときそのときのアドリブです。
即興というのはデタラメを弾くことではなくて、
一瞬一瞬の変化にどのように対応していくのかであって、
それはソロピアノでも変わらないと思います。

ただ、キース・ジャレットの場合、
かつては、彼を神と崇めてしまうような信者がいて、
今でもいるのかどうかはわかりませんが、
そういう聴き方は少し違うのではないかと思います。
といってもファンとして耽溺するのは別に構わないのですが、
それを標準化されると困るのです。

《スターウォーズ》はSF的ヴィジョンを最初に大衆化した
という意味では画期的な作品だったのではないかと思います。
以後の《E.T.》とか《エイリアン》とか《ターミネーター》とか、
皆、スターウォーズがあったからこそできた作品ですから。

《E.T.》は、最初に観たとき、
家のなかの雰囲気が少し雑然として、すさんでいて、
しかも母子家庭で、かつてのきらびやかなアメリカ映画も
こういう風景を描くようになったんだ、という感慨がありました。

ロック史ですか。
どんなジャンルでも満遍なくというのはむずかしいです。
どうしても好きな部分に偏ってしまいますから。
是非、がんばってください。成果をお待ちしております。
by lequiche (2017-12-02 23:18) 

lequiche

>> すーさん様

おぉっ、微妙な表現ですね。
コンサート中に携帯の着信音がしたら演奏をやめてしまったとか、
いろいろな神話のある人です。
キース・ジャレットと村上春樹は、
話題にするのに気を遣う部分があるのは確かです。(^^;)
by lequiche (2017-12-02 23:18) 

いっぷく

コメントありがとうございました。
エスカレーターはいつも昇り降りを
しないようにとのアナウンスが
流れていますが、みんな無視ですね。
駅のホームからのエスカレーターは
右側を開けるために左側に長い行列が
できています。
by いっぷく (2017-12-03 20:48) 

lequiche

>> いっぷく様

歩道を走る自転車にも同様のことが言えます、
「どけどけ!」 とベルを鳴らしながら
歩行者を威嚇して走って行く自転車。
歩道は本来、歩行者のもののはずですが、
自転車のほうがエラくなってしまっています。
by lequiche (2017-12-04 03:12) 

NO14Ruggerman

日本にはキースジャレット狂信者が多いですからね。
私もそのひとりかも知れません(笑)
yummyに77年収録「マイソング」をストックしていますよ。
サンベアコンサートに雰囲気が似通っていますね。

by NO14Ruggerman (2017-12-05 00:30) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

狂信者ですか?(^^;;;)
私はそんなにキース・ジャレットは知りませんが、
キース、そしてチック・コリアへの私の評価は
以前にも申し上げましたが、そんなに高くありません。
なぜならマイルス・バンド参加時の演奏に
感心するものがないからです。
といっても、全然ダメとか言っているわけではないです。

《マイ・ソング》はヨーロピアン・クァルテットですね。
一番聴きやすいほうのアルバムだと思います。
by lequiche (2017-12-05 01:11) 

ponnta1351

キース ジャレット。

私でも名前は知ってますよ。知人に熱狂的な奴がいてコンサートに行ってました 。即興のピアノがものすごいですね。
曲は知りません、兎に角ピアノの魔術師。

17日は宜しく♬
by ponnta1351 (2017-12-05 17:47) 

lequiche

>> ponnta1351 様

おぉ、そうなんですか。
根強い人気に支えられているのだと思います。

こちらこそよろしくお願いします。
by lequiche (2017-12-06 04:38) 

استابلایزر

Thanks.
Stabilizer
by استابلایزر (2017-12-12 02:10) 

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