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森山大道『犬の記憶』を読む [アート]

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Daido Moriyama/Mémoires d’un chien (delpile)

記憶と写真は相反するものである。記憶は固有のデータであり、時とともに変質したり曖昧な姿となったりする、幅を持った時間である。しかし写真はそのときの一点であり、リニアな時間の流れの中を切り取った瞬間でしかない。
でありながら森山大道の写真は、その一瞬の中に何も籠めないと言いながら、幾つもの重層的な時と永遠を含んでいる。まるでプルースト、あるいはランボーのように。

森山大道の『犬の記憶』(1984) は彼の最初のエッセイ集であるが、その写真術を解読するための手がかりとなりそうでいながら、その文章の巧さに騙されているのかもしれないとも思う。それは武満徹の文章から感じとれるものと同じで、相互補完しながら、より強いイメージを生み出す。しかしそのイメージが作品それ自体の解説となっているのかどうかはわからない。森山の写真は具体性を持っていながら抽象で、一瞬を切り取っているはずの一瞬は一瞬ではない。
増感現像は写真を記憶というドメーヌに近づけようとする手段なのだ。

ある時点Aで記憶を回想するという行為は、次の時点Bでは、元の記憶とその記憶を回想していた時点Aの記憶が重なる。そのようにして時点が繰り返し増えてゆけば、記憶も重層化して幾つもの層を作り堆積する。

 垣間見、無限に擦過していくそれら愛しいものすべてを、僕はせめてフ
 ィルムに所有したいと願っているのに、欲しいもののほとんどは、いく
 ら撮っても網の目から抜けこぼれる水のようにつぎつぎと流れ去ってし
 まって、手もとにはいつも頼りなく捉えどころのないイメージの破片の
 みが、残像とも潜像ともつかない幾層もの層をなして僕の心のなかに沈
 み込む。(p.40)

読んでいたのは河出文庫版だが、1984年に上梓されたときのあとがき、2001年に書かれた文庫版あとがきがあり、それを2019年の今、読んでいるこのことも記憶の重層化と同様の現象である。

「暗い絵」 では大阪の記憶が語られる。昭和21年晩秋、まだ瓦礫の中の大阪駅裏に佇む森山の家族5人。彼はそのとき8歳であった。
そして5日前に大阪に行ってきた話から、時間は遡り、15歳の頃の記憶に入ってゆく。若い頃の 「ひとりでヒリヒリとひりついてばかり」 だった記憶。突然の父親の死。デザイン会社の仕事をしていたこと。仕事で得た金で風俗店に行ったこと。
現実の大阪に戻ると、今、目にしているそこは戦後の廃墟ではなく、夜の喧噪と光の氾濫の中にある。しかし大阪駅裏が見渡せる店で、森山は終戦直後のそのときを思い出す。

 あれからの時間がはたして長かったものか短かったものか、実際の時間
 とそして心の時間と、などと考えているうちに、なぜかそんな記憶が鬱
 陶しく、そしてなんとなく面倒くさかった。風景の変貌が、きっと感傷
 を断ち切ったのであろうか。深夜のすいた店内では 「オー スーパーマ
 ン」 が掛かっていた。(p.105)

この文章の末尾で、唐突に出てくる〈O Superman〉が印象的だ。この曲のリリースは1981年で、たぶんその当時は、新奇な手触りの曲であったことが窺い知れる。逆にいうと森山の作品には通常は音あるいは音楽として想起されるイメージが欠けていて、それはわざと沈黙のなかに被写体があるように配置されているとしか思えない構造性を持っている。

森山の写真に対する強烈なヴァイタリティもまた武満徹を思い出す。これと決めたらその方向に突き進む無鉄砲に近い方法論が似ているが、2人は8歳離れているけれど、ほぼ同時代に頭角を現していて、森山が細江英公の助手となったのが1962年、独立したのが1963年、そして横須賀の写真を撮り続けていたのが1964年であるが、同時期の武満は《砂の女》への映画音楽が1964年、《他人の顔》が1966年である。
そして森山は1966年に寺山修司からの依頼を受けた雑誌『俳句』への連載があり、1967年に日本写真批評家協会新人賞を受賞するが、武満の《ノヴェンバー・ステップス》も1967年である。
もちろんそれぞれの、作品を創造し発表することへの強い意志があることは確かだが、この60年代後半にはそうした強烈な個性の発露が待ち望まれていた背景があったともいえる。

人間の心の中で、記憶はいかにして発掘され再生されるのか、あるいは捏造され風化してゆくのかを私は考えていた。記憶は不思議である。機械的なメモリーのように確実ではないが底が知れない。写真はほんの何十分の1秒から何千分の1秒という瞬間的な時間を切り取る。
森山は次のように書く。

 人間はみな風景をつぎつぎに喪失していく。それは時間への焦燥といい
 かえてもよい。時間とは、無限につづいていくものではなく、むしろそ
 れぞれに迫りくるものだと思う。(p.160)

あるいはまた、

 写真は光の記憶と化石であり、そして写真は記憶の歴史である。(p.188)

つまり人間の記憶はやがて終焉がくる。記憶は伝えることができない。肉体が滅びるとき記憶も飛散する。写真は機械の目で撮られたものであるが、そこに人間の選択と選別が作用する。それは継続して堆積してゆく時間を削ぎ取った薄い破片である。


森山大道/犬の記憶 (河出書房新社)
犬の記憶 (河出文庫)

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コメント 6

ぼんぼちぼちぼち

>具体性を持っていながら抽象
あっしも森山氏の写真にはこれを強く感じてやした。
そして、ここがあっしが森山氏の作品に惹かれる最大の理由でもありやす。

大阪の生活の回想の件り、特に読んでて興味深いでやすよね。
グラフィックデザイナーをやられていたことは、技術的にも感性の面でも 氏の中に深く刷り込まれているように思いやすね。

あっしは武満徹氏の本は読んだことがないのでやすが、重なる部分が見受けられるのでやすね。
挙げられているのを拝見し、なるほど!と頷きやした(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2018-01-12 14:49) 

美美

大変遅れましたが
今年もよろしくお願い致します。
by 美美 (2018-01-12 23:15) 

lequiche

>> ぼんぼちぼちぼち様

実は森山先生が文章をこうして書かれていることを
今まで知りませんでした。
文章を読むことによって
写真作品についての視点が補強されますね。
ただ、武満徹の文章の場合と同じで、
それが果たしてよいことなのかどうかはわかりません。
そうして文章を書くことが、かえって一種の
エクスキューズになってしまう危険性もありますから。

でも、たとえば山下洋輔なんかも文章が上手いですし、
一流の人は何やっても上手いのかもしれない、
とも思います。

私が一番興味を持って読んだのは、まだ大阪で駆け出しの頃、
魔窟のように入り組んだ国際マーケットのDP屋で
バイトをしたという個所です。
そういう迷路のような場所というのは憧憬の対象で、
今では無くなりつつありますが、
昔はそこかしこに存在していたはずです。
眩暈するような迷路の街は私の幻想のなかでは
いまだに存在し続けています。
by lequiche (2018-01-13 00:42) 

lequiche

>> 美美様

あけましておめでとうございます。
こちらこそ今年もよろしくお願い申し上げます。
by lequiche (2018-01-13 00:42) 

末尾ルコ(アルベール)

「時間」と「記憶」・・・常に心躍るテーマですね。心躍るけれど、怖い。
「記憶」に関してはこのところ、特にブログなどに「過去の記憶」について書こうとするとき、自分自身の記憶がいかに曖昧で不確かかを思い知らされています。当然記憶しているべきを思い出せず、そのくせちょっとしたことを不思議なほどクリアに覚えていたりする。「記憶」はとても歪なものですね。
また、ブログ記事などで過去の経験などについて書いていると、かき進めるに従って、書いている内容と無関係な過去が蘇ってくることもしばしばです。これはとてもおもしろい体験で、「書く」という行為と「記憶」とはかなり深く結びついている可能性があるのではないかと。
「写真」についてのお話もとても刺激的です。よく思うのですが、大雑把に言って、「深い写真」「浅い写真」というクオリティの違いが明確に存在し、その「深さ・浅さ」とはどのようにうまれるのだろうか。文章や絵画であれば、創作主体が一文字あるいは一色ずつ手を入れるものであり、「深さ・浅さ」が生まれることは比較的理解しやすいのですが、写真においては撮影技術の他に、撮影者のセンスというものがきっと大きく影響するのだろうと想像しています。前にも少し触れましたが、「若い女の子を小奇麗に撮る」とか「コスモスの花を小奇麗に撮る」とか、そうした被写体にしか価値を見出せない内は、「深さ」や「美」には程遠いのではないかと。そして写真はもちろん、映画でもそうですが、モノクロの美、深さ、強さ・・・ここを感知できない人にはどのような芸術もなかなか感知できないのかなとも思います。
ランボーにプルースト・・・特にランボーはいまだに毎日ページを繰っております。ランボー以降にも星の数ほど詩人が生まれているはずですが、そしてわたしも現代詩をけっこう読んでいた時期がありますが、やはりランボーの魔的な魅惑には敵いません。詩と言えば、最果タヒの『夜空はいつでも最高密度の青色だ』石井裕也によって映画化され、キネマ旬報で1位を撮っていますね。石井監督の作品は必ずしも好みではないのですが(笑)、どうなのでしょうか。
このところよく、『メロディ・ネルソンの物語』を聴いております。地熱が極めて高い低温性などといった心地よさを感じております。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-01-13 01:08) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

人間の記憶というのは曖昧でアバウトなものです。
過去の出来事についても必ずしもそのままではなく、
自分なりの方法で再編集してしまいます。
写真は時間の断片を氷結させたもので、
それだけで見ればたとえアナログな写真であっても
方式的にはデジタルです。

ですから記憶はレヴェルとして低位なものかというと
そうではないわけで、アバウトではあるけれど
その 「特定の時間」 を空間的に捉えています。
そのように優れたデジタル機器は存在しません。
たとえヴァーチャル・リアリティが発達しても、
それはリニアなものが3次元的に拡がったに過ぎないからです。
書くことによって記憶が想起されるというのも、
人間というシステムの神秘なのだと思います。

写真は本来、単なる記録媒体ですから 「浅い」 ものです。
森山は写真に何か付随するものを付けたくないというのですが、
結果としてできあがった作品は、抽象性があればあるほど、
かえってなんらかの意味を持ってしまうという逆説が存在します。

きれいな写真を得たいという欲求は
アドヴァタイジングな現場では必須で、
そこに思想性が存在することはありえません。
(でもすぐれたコマーシャルな写真は
それ自体で思想性を持ってしまいますが)
それはなにも写真に限らず、たとえば音楽であっても、
楽器を速く正確に弾ければエライ、という価値観もあります。
前記事のコメントでNO14Ruggermanさんが、
「えなりかずきがカラオケで高得点を出したけれど心に響かない」
というエピソードを書かれていましたが、
そういう価値観の地平ではそれがエライことなのだと思います。
ブログでもインスタグラムでもそれは同様です。

『夜空はいつでも最高密度の青色だ』という映画は
知りませんでした。
予告編だけ観ましたが、そこで発せられている言葉が
あまりに詩的で鳥肌が立ちます。
スゴイと思うの半分、恥ずかしすぎるというのが半分、です。(^^)

メロディ・ネルソンの曲群は簡潔ですが凝縮されていて
時間だけで推し量れない内容がありますね。
でもいまだにCargo Culteが解明できていません。
このタイトルは 「主としてメラネシアなどに存在する招神信仰」
とwikiにはありますが、そのインスピレーションの源泉として
シュルレアリスム的な、あるいはゴダール的な印象もあります。
by lequiche (2018-01-13 12:09) 

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