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ポートランドの魔女 ― アーシュラ・K・ル=グィン [本]

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Ursula K. Le Guin (ursulakleguin.comのPublicity Photosより)

今朝の朝日新聞の書評欄のコラム 「文庫 この新刊!」 では池澤春菜がジョイス・キャロル・オーツの『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫) をトップで取り上げていた。池澤のチョイスは同じようなSF嗜好のためか、いつも私の好みにぴったり合っているので楽しみにしているのだが、オーツだってハードカヴァーより文庫のほうが買いやすいし、それだけ需要があるということだろうからちょっとうれしい (オーツの同書については→2014年09月24日ブログ、池澤春菜については→2016年07月27日ブログですでに書いた)。

しかしSFということでいうのならばル=グィンが亡くなったことは、88歳という年齢なのでいつかは来ることだったけれど、とても悲しい。アーシュラ・K・ル=グィンはSFというジャンルを超えて、20世紀において最も信頼できる作家のひとりであった。

アーシュラ・K・ル=グィン (Ursula K. Le Guin, 1929-2018) の一番よく知られている作品は何だろうか。おそらく『闇の左手』(1969) か、いわゆる《ゲド戦記シリーズ》(1968-2001) だろう (最初の3冊だけのときにはアースシー・トリロジーと呼ばれていた)。もうひとつあげるのならば、私は『所有せざる人々』(The Dispossessed, 1974) を選ぶ。

追悼記事は多数あってとても読み切れないが、ル=グィン自身のウェブサイトにリンクされている The New York Times の1月23日付 Gerald Jonas の記事を読んでみた。
ゲド戦記の舞台であるアースシーにおける魔法は言語に基づいていて、ゲドをはじめとする魔法使いたちは 「真 (まこと) の名前」 を知ることによって、そのパワーを発揮することができるという設定になっている。ゲドの場合もゲドは 「真の名前」 であって、通名は 「ハイタカ」 である。「真の名前」 を知られると相手にコントロールされることになるから 「真の名前」 を明かすのは勇気が必要である。アースシーという世界におけるこの法則が、名前という寓意で示しながら実際はそれ以上のメタファーになっていることは言うまでもない。
この法則、というか 「しばり」 をル=グィンは自分の作品に出てくるキャラクターに対しても真剣に適応したのだという (discipline seriously)。「私は (そのキャラクターの) 正しい名前を見つけなければならない。それでないとストーリーに乗ることができない」、つまり 「名前が間違っているとストーリーを書くことができない」 のだそうだ。
ゲド戦記において、ハイタカに対立する者がなぜヒスイという名前なのかとか、クレムカムレクという謎のような名前とか、それらはそれぞれに考え抜かれて命名されていたのだということがあらためて確認できる。

『所有せざる人々』は二重惑星のひとつが資本主義であり、もうひとつが一種の社会主義であるという設定から、政治小説として読むことも可能だが、それは書かれたのが1974年というベトナム戦争末期という時期とも関係しているように思える。しかしル=グィンの場合、フランシス・コッポラの《地獄の黙示録》のようにリアルな表情を見せることはない。
彼女の作品に存在するのは、光と影、男性と女性、名前のあるものと無名のもののように二項対立であり、資本主義と共産主義というのも同様である。
そして『所有せざる人々』の場合、資本主義社会は繁栄しているが腐敗していて、共産主義社会は、共産主義というよりユートピアを指向していながらそこに到達できないゆえの貧困があり、ル=グィンはそれが良いことであるとも悪いことであるとも断定しない。それは読者に与えられた課題であるのだ。
ニューヨーク・タイムズの記事には 「ロシアのアナーキスト、ピョートル・クロポトキンのアイデアをベースとした」 というような表現があり、いわゆるアナーキズムであるが、『天のろくろ』などには老荘思想への傾倒もあり、それはル=グィンが作品の登場人物に好んで白人でなく有色人種を選ぶのと並んで、彼女の強い意志と確信がうかがわれる。
この作品が書かれた当時、ドイツはまだ東西に分断されていたし、いまでも朝鮮は南北に別れたままだ。ル=グィンはそうした事象をストレートには描かないし直接的な政治的発言もしなかったが、2009年にgoogleの本のデジタル化プロジェクトに反対してAuthors Guildを脱退したことからもわかるように、その信念は一貫していて揺るぐことがない。

ル=グィンはアメリカの北西部ポートランドにずっと住んでいた。ひとつの区切られた空間というものが幾つもの幻想に作用する。その地が住みやすかったのか住みにくかったのかということとは別に、ある空間や時間を所有すること、それは所有しないことよりも物質的には豊かであるが、ひとりの人間の歴史の中で、住む場所はとても重要なのではないかと考える。私はアメリカの北東端に住んでいたマルグリット・ユルスナールのことを同時に思い出していたのだ。

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Le Guin at home with her cat, Lorenzo (1996) (nytimes.comより)


アーシュラ・K. ル・グウィン/ゲド戦記 (岩波書店)
ゲド戦記 全6冊セット (ソフトカバー版)




アーシュラ・K・ル・グィン/闇の左手 (早川書房)
闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))




アーシュラ・K・ル・グィン/所有せざる人々 (早川書房)
所有せざる人々 (ハヤカワ文庫SF)

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末尾ルコ(アルベール)

『西のはての年代記』を買っているのですが、まだ読んでおりません。ジョイス・キャロル・オーツの『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』もおもしろそうですね。チェックしてみます。ハードカバーの本って、好きですが、案外「読む時間」が限られてしまう傾向があります。わたし就寝前後を読書時間の一部としていますが、横になった姿勢で読むもので、その時間はどうしても文庫や新書中心となります。たまにハードカバーの本を読みながらうとうとしていて、手から滑って顔面を「バキッ」と直撃という惨事がありますので、やはり文庫は便利ですよね。わたし今のところ電子書籍は使ってませんので、出かける時に必ずバッグには2~3冊の薄めの文庫を入れております。例えば昨日であれば。柳生宗矩の『兵法家伝書』、トルストイの『光あるうちに光の中を歩め』、そしてランボーの薄い原書でした。
アーシュラ・K・ル=グィンももっと以前から興味を持っておきたかったところですが、これも人生、lequiche様のお記事によって興味を持たせていただき、今後は意識して読んでいきたいと思っています。

> 「名前が間違っているとストーリーを書くことができない」

これは小説や物語を「動かす」という視点から、実に興味深い言及ですね。思わず、(う~む)と唸ってしまいます。よく小説家は、「ある時点から登場人物が勝手に動き始める」と言いますが、そんなことを思い浮かべました。確かに歴史的傑作文学の登場人物は、「これ以外ない」という名を持っていることが多いですね。「アンチゴネー」(←大好きなんです)、「ハムレット」、「ジャン・バルジャン」、あるいは「グレゴール・ザムザ」とか。

>ピョートル・クロポトキンのアイデアをベースとした

ますます興味が湧いてきます。実は大杉栄などにもけっこう興味が(笑)。もちろんあのような思想に感化はされませんが。

>ひとつの区切られた空間というものが幾つもの幻想に作用する。

これもとても理解できます。よく「しょっちゅう旅行することを自慢する」人たちがいますが、案外そういう人たちの感覚って「閉じて」「貧しい」場合が多い気がします。行動範囲の広さと「心の広さ」が比例する方が少ないのではないかと。ちなみにユルスナールも大好きです。

実はカティア・ブニアティシヴィリはYouTubeの「おすすめ」にしょっちゅう出て切るので、leqiche様のお尋ねしたいと前から思っておりました。なるほどそういうご評価なのですね。了解です。まあ見た目は派手で、クラシック音楽への入り口としてはいいかもしれませんね(笑)。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-01-29 01:29) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

なるほど。文庫本はそういう効用がありますね。
私は寝て本を読む習慣が無いので気がつきませんでした。
(いつも寝不足なのですぐに眠ってしまいます)
文庫のほうが廉価であるという利点は大きいです。
柳生宗矩ですか! 読書範囲が広いですね。

オーツは日本ではマイナーですが、
というより外国文学全般がマイナーなのかもしれませんが、
もっと話題になってもいいと思っています。

ゲド戦記は児童文学なので、評判をきいても半信半疑でしたが、
平易な言葉でこれだけのことが書けるのだということに
感動したのを覚えています。
原文も翻訳文も美しく品格があります。
日本でも 「名は体を表す」 という表現がありますが、
名前によって現実が左右されてしまうというのは
逆説的な意味あいも含まれていて、
つまり 「タマゴが先かニワトリが先か」 というロジックに似ていて、
単なるアイデアだけで終わっていないのです。
それでいて2巻目では名前のない人が出てくるので、
そう来たか、と思いますが。
アチュアンを読むと、ゲド戦記は単純なフェミニズムというより
男女差別の問題をも含んでいることに気づきます。
それは、昔、ベルリン・フィルには女性奏者は入れなかったとか
そういう問題にまで敷衍して考えることができます。

アナーキズムについて私はよく知りませんが、
プルードンにしてもクロポトキンにしても、
一人一派みたいな漠然とした孤立感みたいなものがあって、
それは少し傾向が異なりますがたとえばブランキなどにも
絶対的な孤立感と悲観的な印象があります。
しかしル=グィンは老荘思想に対する考えかたも含めて、
もう少し違ったとらえかたをしているように思えます。

旅行自慢ですか。マイルが溜まるとかいうアレですね?(笑)
ル=グィンとユルスナールは、たまたまアメリカの
北西端と北東端に住んでいたのですが、
ル=グィンはポートランドという地を愛していて
比較的オープンな印象があるのに対して、
ユルスナールはもっと内向的で自閉的な、
もっといえば自らを幽閉していたのではというような
孤独を感じます。
それはユルスナールのジェンダーの問題などを
つい併せて考えてしまうからなのかもしれませんし、
本質がどうだったのかは本人にしかわかりませんが。

ブニアティシヴィリはあくまで私の個人的感想で、
世評は高いですし人気もあるようです。
そういうミーハー人気はシーンの活力ですから否定はしません。
でも前回のコメント欄にリンクしたショパン1番でいえば、
(しかもあれはトレーラーみたいな動画ですが)
ショパンは、たとえばアルゲリッチのように弾くべきです。
https://www.youtube.com/watch?v=gV_x_QY1P5c&t=350s
同じ曲で、たまたまYouTubeに出てきたのですが
オルガ・シェプスのほうが好感が持てます。
https://www.youtube.com/watch?v=2bFo65szAP0&t=349s
ブニアティシヴィリのはサロン・ミュージックのように感じます。
by lequiche (2018-01-29 04:39) 

うりくま

私も朝日新聞の書評を見て「とうもろこしの乙女~」を読みたい
本リストに記録しましたが、見たことがある様な?と思ったら
以前lequicheさんのブログで読んだのですね。。で、コラムの
著者は池澤夏樹さんだと思っていました(><)。春菜さんって
声優さんなんですか。福永武彦の孫というのも知らず、「へえ」
ボタンを連打しながら読ませて頂きました(←相変わらず無知)。
ゲド戦記「影との戦い」は遅まきながら学生時代に読んで哲学的
な深さに「コレ、児童文学?」と驚いた覚えがあります。
「天のろくろ」も読んでみたいリストに入っていますが、最近
読むのが更に遅くなって、なかなか消化できません。。
by うりくま (2018-01-30 00:02) 

lequiche

>> うりくま様

ハードカヴァーのほうが文庫より高いですけれど、
つまり、いかに早く読むかというのが一種のステータスなので。
単なるバカですけど。(笑)
でもそれは作家によります。
重要度は
 最初に出た本を買う>文庫が出たら買う>文庫で出ても買わない
の順です。

まぁ普通は、
池澤夏樹が福永武彦の息子だということすら知りませんし、
もっといえば福永武彦って誰? というのが標準的レヴェルです。
春菜さんは声優ですけれど、私はその方面はよく知りません。
彼女の読書量は、たぶん私の数十倍はあると思います。
ただ、やっぱりファッションが重要なんです。
春菜さんも川上未映子さんも最果タヒさんも
ファッションに関して一家言持っているというのが好きです。

『影との戦い』はすごいですよね。
言葉の力におけるドラゴンという存在に対する認識も
一種のメタファーになっています。
というか、言語論であり認識論だと思います。
萩尾望都が影響を受けていることは確かですし、
とりあえず 「11人いる!」 のフロルの設定は
『闇の左手』の影響です。

『天のろくろ』はわかりやすい作品ですが、
『所有せざる人々』はゲド戦記とは違った意味で
視点を拡げてくれます。
こういう作品がなぜもっと評価されないのかなと思いますが、
ジャパニーズ・ライト・ノヴェルを読んでいる目では
こういうのは硬く感じてしまうのでしょうね〜。

読書スピードはやはり集中力です。
それと、つまらないと思ってもあきらめないで、
とりあえず最後まで読むというのも必要です。
by lequiche (2018-01-30 02:11) 

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