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バリュー通り36番地 ―『ナディア・ブーランジェ』を読む [本]

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Nadia Boulanger (1966)

本のカヴァーには 「名演奏家を育てた“マドモアゼル”」 というキャッチが書かれている。ジェローム・スピケの描くナディア・ブーランジェの伝記『ナディア・ブーランジェ』は、もはや伝説の音楽教育家といってよいブーランジェの生涯を平明に淡々と綴っている。マドモアゼルという呼称からもわかるように、彼女は92歳まで生きたが、生涯独身であった。

ナディア・ブーランジェ (Juliette Nadia Boulanger, 1887-1979) はコンセルヴァトワールの教授であったフランス人エルネスト・ブーランジェ (Ernest Heri Alexandre Boulanger, 1815-1900) とロシア貴族の娘ライサ・ミケツキー (Raissa Mychetsky, 1858-1935) の次女として生まれた。さらに遡ればエルネストの父フレデリック・ブーランジェ (Frédéric Boulange, 1777-?) はチェリスト、母マリー=ジュリー・ハリンガー (Marie Julie Halligner, 1786-1850) はメゾソプラノの歌手という音楽家の家系である。
ナディアの父母の年齢差は43歳もあり、ナディアは父エルネストが72歳のときの子どもである。四人姉妹ではあるが、長女は1年、四女は半年で亡くなり、またナディアの妹である三女のリリも24歳で亡くなっている。強い生命力がナディアひとりに集中したのだといえよう。

私がブーランジェを知ったのは、アストル・ピアソラの進むべき道を示した人という有名な話からであるが、彼女の生徒のリストを見ると、もうとんでもないのである。果たしてこれは本当のことなのか、そんな時間が一人の人間の一生という限られた時間のなかで可能なのか、と誰もが思ってしまう。しかもそれだけではなく、彼女は多くのクラスで音楽を教え、演奏会もこなし、音楽というジャンル以外の知人・友人も多岐にわたる。逆にいえば彼女は音楽教育という魔物の虜囚であり、人生の全てはそのためにだけ費やされたのである。
これは例えば 「寺山修司は3人いたんだよ」 というギャグと同じであって、ありえないほど濃密な活動をした人間というのは、稀にではあるが存在するのだ。

スピケは父エルネストの友人としてシャルル・グノー、ジュール・マスネ、カミーユ・サン=サーンスといった音楽関係以外に、SF小説の創始者であるジュール・ヴェルヌの名前もあげている。
エルネストはナディアが12歳のときに亡くなるが、彼女は13歳でガブリエル・フォーレの作曲クラスを受講し、すでに頭角をあらわしていた。そして有名なピアニスト、オルガニストであるラウール・プーニョ (Stéphane Raoul Pugno, 1852-1914) と出会い、寵愛を受ける。プーニョの友人にはウジェーヌ・イザイ、ジャック・ティボーなどとともに、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの名前も見える。
プーニョとブーランジェは後年、ダンヌンツィオの《死都》(La Città morta, 1898) の音楽を共同で作曲するが、それは結局発表されなかった。ダンヌンツィオとブーランジェの交流についてスピケは 「彼を取り巻くきな臭い噂」 に彼女は臆することもなかったというようなニュアンスで書いている (p.42)。
(尚、ダンヌンツィオの薔薇小説三部作 (Romanzi della Rosa) は 「快楽」 「罪なき者」 「死の勝利」 (Il Piacere (1889), L’innocente (1892), Il trionfo della morte (1894)) からなるが、「罪なき者」 はルキノ・ヴィスコンティの映画《イノセント》の原作である。またダンヌンツィオは三島由紀夫に影響を与えたことでも知られる。)

話がやや前後するが、ブーランジェは作曲コンテストの応募等の際に、サン=サーンスやドビュッシーから一種の迫害を受ける。彼らは表向きにはルールの話を持ち出しているが、実は作曲界に進出しようとしているブーランジェに対する女性差別であることがわかる。
彼女はそうした迫害にもめげず、数々の 「女性で初めて」 を達成してゆく。

ナディアの妹であるリリ・ブーランジェはナディアの薫陶もあり、すぐに才能を発揮して、ナディアのとれなかった作曲賞をも勝ち取り早熟の天才と呼ばれたが、生まれつき虚弱な体質であり、若くして亡くなってしまう。
ナディアはリリの作曲能力を見て、自分は作曲することを辞めて教育に徹すると考えたことになっているが、実はそれはナディア自身の創作であるとのことで、思われているより彼女はしたたかである。

そしてブーランジェは芸術のよき理解者であるエドモン・ド・ポリニャック公爵夫人と知り合う。彼女は芸術を擁護した偉大なパトロンであり、彼女の自邸をサロンとし、自費で芸術活動に対する数々の援助をしただけでなく、社会福祉にまで費用を出していた。
ブーランジェを通してポリニャック公爵夫人の恩恵にあずかったのがストラヴィンスキーであった。ブーランジェはストラヴィンスキーの才能を支持し、金銭的な援助をとりつけたのである。

ブーランジェの視点は新しい音楽だけでなく古い音楽にも向いていた。バッハのカンタータや、シュッツ、カリッシュミ、そしてモンテヴェルディといった古い音楽の発掘、紹介にも努めた。
やがて彼女はイギリスやアメリカにも進出し、ロンドン・ロイヤルフィル、ボストン響、ニューヨーク・フィルなどを振り、大成功を収める。
最も得意としていたのは恩師であるフォーレのレクイエムで、彼女はその曲を60回以上指揮しているという。フォーレへの理解と、深い信仰を持っていたブーランジェの解釈は今聴いても決して古びてはいない。

しかしやがて戦争が起き、彼女はアメリカに逃れる。戦後、フランスに戻ると、疎遠になってしまったポリニャック公爵夫人は亡くなっていて、そして知悉のサン=テグジュペリもポール・ヴァレリーもすでにこの世にはいなかった。

戦後、音楽はいわゆるセリーの擡頭があり、ブーランジェの音楽的方向性は旧弊なものへとなってゆく。彼女は新進の作曲家ピエール・ブーレーズに関心を持ったが、しかしドメーヌ・ミュジカル的な新しい音楽に対してはたぶん否定的だったのに違いない。彼女はベルクの《ルル》を例にとって、「私の好みとは一致しない」 と述べたのだという。
そしていまや有名作曲家となったストラヴィンスキーの恩知らずな行動にブーランジェは落胆する (かつて世話になった人への委嘱曲だったのにもかかわらずストラヴィンスキーは 「今、オレの作曲料の相場はもっと高いんだ」 と言って拒否したのである)。だがそうしたストラヴィンスキーさえ、もはや時代遅れになりつつあったのだ。パリにおけるセリー派のコンサートで自作を初演した彼はそれが不評に終わったことから、パリでは二度と指揮をしないと憤慨する。
それ以後、ブーランジェとストラヴィンスキーの仲は疎遠となるが、しかしブーランジェはコンサートにおいてはストラヴィンスキーの作品をとりあげていた。人としての性格はともかく、作品そのものの価値をないがしろにしないという姿勢がうかがわれる。

晩年になってもブーランジェは、モナコ公国との深い関係や、メニューインからの信頼を受け、彼のイギリスの音楽学校の教育に力をそそぎ精力的に活動した。その行動力はとても80歳を越えた人とは思えない。晩年は視力が衰え、下記にリンクした90歳の頃にはたぶんほとんど見えてはいないはずである。
彼女のメインとする音楽はクラシックであるが、その最も有名なエピソードはアストル・ピアソラに対する助言である。
ピアソラは自分の音楽が受け入れられないのでその出自を隠し、彼女の下で交響曲を書きたいと思っていたが、あまり感心する出来ではなかった。ところがピアソラにタンゴを弾かせたらそのインプロヴィゼーションで右に出る者はいない、とブーランジェに進言した者がいたのだという。

 はじめはピアソラが拒否したので、彼自身がタンゴでどのようなことが
 できるか見せてほしいと熱心に食い下がった。長い時間にわたって彼の
 演奏を聞いたブーランジェは、「これこそあなたの分野です。交響曲な
 どやめて、タンゴにあなたの力を注ぎなさい」 と熱心に告げた。そして
 彼はやがて、タンゴの王となったのである。ピアソラは、ナディア・ブ
 ーランジェを自分の第二の母親だとよく語っていた。(p.96)

しかしガーシュインに対しては逆に、彼の勉強したいという願いを断ったのだという。いまさら正統的な音楽理論を習ったとしても、それはかえって彼の音楽的な美学を疎外することにしかならないからだというのである。

彼女のオーケストラの指揮に対してやんわりと批判をする評論家もいたのだという。しかし彼女はそれについては十分に自分の立場をわきまえていたのに違いない。指揮をすることは自分にとって一種の贅沢でありご褒美であって、自分の使命は音楽教育をすることにある、と彼女は確信していた。

 彼女は、幾度も教師という役割について定義し、根本的には 「過酷な技
 術であり、技術についての深い知識なくして、音楽家は自分の最も重要
 だと思う箇所を表現することは出来ないのです。そこに割って入るのが
 教師です。教師にできることは、絶え間なく集中をし、常にその場にい
 て、忍耐することを学ぶよう要求しながら、生徒が自らの道具を効果的
 に扱うことができるよう成長させることです。しかし、教師は学生が道
 具によって具体的に何をするかに関しては、どんな積極的役割も担うこ
 とはないのです。」 (p.96)

スポーツでも名選手が必ずしも名コーチになれるとは限らない。だから彼女の作品と彼女の教育法は別物なのである。
ブーランジェは指標であり、水先案内人であり、より高みへ到達するための技術的伝達者でしかない。音楽の個性は音楽家自身が作りあげるものであって、ブーランジェはその個性自体に対しては関与しない。その潔さが彼女がもっともすぐれた教育者と呼ばれる所以である。

門下生のリスト (fr.wikiより)
Grażyna Bacewicz, Dalton Baldwin, Daniel Barenboim, Stanley Bate, Olivier Bernard, Idil Biret, Diane Bish, Serge Blanc, Elliott Carter, Walter Chodack, Joel Cohen, Aaron Copland, Marius Constant, Michel Ciry, Vladimir Cosma, Donald Covert, Raffaele D’Alessandro, Francis Dhomont, Miguel Ángel Estrella, Jean Françaix, John Eliot Gardiner, George Gershwin, Egberto Gismonti, Philip Glass, Jay Gottlieb, Paul Guerra, Gerardo Guevara, Hermann Haller, Pierre Henry, Pierick Houdy, Jacques Ibert, Quincy Jones, Maurice Journeau, Wojciech Kilar, Henry-Louis de La Grange, Michel Legrand, Lalo Schifrin, Robert Levin, Dinu Lipatti, Igor Markevitch, Armand Marquiset, Krzysztof Meyer, Edouard Michaël, Émile Naoumoff, Astor Piazzolla, Walter Piston, Robert Russell Bennett, Lamar Stringfield, Erzsébet Szőnyi, Antoni Wit, Nicolas Zourabichvili, Donald Byrd.
これ以外にも
Henryk Szeryng, Ralph Kirkpatrick, Keith Jarrett, Gigi Gryce etc....


ジェローム・スピケ『ナディア・ブーランジェ』(大西穣訳/彩流社)
ナディア・ブーランジェ




ブーランジェの講義風景 (ブーランジェ・90歳)
https://www.youtube.com/watch?v=Pwvr47DZekk

Astor Piazzolla y Milva en “Nuestro tango”, 1985
‘Teatro Ópera, Buenos Aires’ live
https://www.youtube.com/watch?v=gASKJeMhT1U
32’20”~ ミルヴァの Balada para un loco
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末尾ルコ(アルベール)

ナディア・ブーランジェの講義風景拝見しました。ヘアスタイルとか雰囲気とか、時代を感じさせてくれますね。厳格なムードが自然と漂う空気感にも憧れます。とは言え、ナディア・ブーランジェ、本日初めて知りました。「音楽好き」を自認しながらも、クラシックの知識があまりに浅い、憐れなボロがわたしでございます(←『北斗の拳』ザコ風に)。しかし芸術の新たな側面をまた教えていただき、それは快感ひとしおでございます。この講義の映像、今後も繰り返し視聴してみたいと思います。90歳のブーランジェが語る言葉の一つ一つにとても興味があります。

>ナディアの父母の年齢差は43歳もあり

そうなんですね。彼女の家族史も実に興味深い。フランスとロシアの系譜を持つ方。音楽、そして芸術の分野においては圧倒的な魅惑を持った両国。そして「音楽の権化」のような家系。「血」で人間の人生が決まるとは思いませんが、時にどうしようもなく大きな影響を与える事実は厳然として存在します。

>音楽教育という魔物の虜囚であり、人生の全てはそのためにだけに費やされた

いやあ、刺激的ですね。そして「時間をどう使うか」についてもあらためていろいろと気づかされます。

>ダンヌンツィオの薔薇小説三部作 (Romanzi della Rosa)

この呼び方、知りませんでした。「薔薇小説」って、スゴイですね(笑)。『イノセント』は「薔薇小説」を原作としていたのですね。イタリアの小説はあまり読んだことがなく、アルベルト・モラヴィアは好きですが、俄然ダヌンツィオにも興味が湧いてきました。

>数々の 「女性で初めて」 を達成してゆく

素晴らしい!
わたし元来、歴史の中で活躍してきた女大たちのエピソードが大好きで、シモーヌ・ヴェイユ、ココ・シャネル、ローザ・ルクセンブルグ、イザドラ・ダンカン、古くはジャンヌ・ダルク、そして歴史的事実ではないけれど、聖女伝なんかにも飛びついてしまいます。今もハンナ・アーレント関係を読んでいますけれど、ブーランジェも今後長く教えをいただける偉人だと理解できました。ご紹介、ありがとうございます。深夜、とても元気が出てまいりましたが、気温が子の時間からぐんぐん下がってきますので、今回はここで失礼いたします。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-02-09 02:07) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

彼女は厳格な指導をする怖いバーサンなわけですけど、
それでいてアメリカなど本国以外でのほうが
その教育方針に支持があって、
パン屋さんのクラス (boulange→boulangerie) などと
呼ばれたりもしていたようです。
バリュー通り36番地というのはパリの彼女の住居で、
そこが彼女の 「音楽塾」 だったわけです。

父であるエルネスト・ブーランジェは
ピアノをシャルル=ヴァランタン・アルカンに師事しました。
アルカンは近年、マルカンドレ・アムランが弾いて
ちょっとしたブームになりましたが、
いわゆる忘れられた作曲家のひとりです。
ライサは16歳のとき、エルネストの生徒として
彼と出会い、3年後、サンクトペテルブルクで結婚しました。
フランスとロシアというのは芸術のキーワードです。
そしてサンクトペテルブルクという都市もそうです。
私の偏愛するアンリ・ヴュータンもまた
サンクトペテルブルクが重要なポイントになっています。

ストラヴィンスキーの《オイディプス王》は
ポリニャック公爵夫人の援助により、
サラ・ベルナール劇場で上演されましたが、
この頃、ディアギレフはすでに衰えていて、
その2年後に亡くなります。

ダンヌンツィオはどちらかというと政治的な面で
いろいろとあった人 (いわゆるファシストです) であり、
その芸術的業績は三島由紀夫と同様に、
ややフィルターをかけて解釈されてきた傾向があります。
ルイ=フェルディナン・セリーヌも違った意味でそうですが、
政治的発言というのは文学的なそれよりも
ずっと強い印象を世間一般に与えてしまうようです。

またダンヌンツィオは女優エレオノーラ・ドゥーゼとの
スキャンダルでも知られていますが、
ドゥーゼとサラ・ベルナールはライバルであり、
《死都》に関してはダンヌンツィオを含めた
三角関係的な問題があったようです。
そうした、いわば危険な香りのするダンヌンツィオと
宗教的に厳格なはずのブーランジェが結構上手くやれていたのは
不思議といえば不思議なのですが、
彼女には有名人好きとか、妙に下世話な部分もあり、
つまりそれは女性がまだ蔑視されていた時代を
なんとか渡っていかなければならない処世術だったといえます。

《イノセント》はヴィスコンティの遺作というだけでなく、
非常に病んでいる部分があらわれていて、
それは爛熟というかイタリアの退廃の極みであって、
ジャンカルロ・ジャンニーニがいいですね。
ちなみにプロデューサーのジョヴァンニ・ベルトルッチは
ベルナルト・ベルトルッチのいとこだそうです。

ブーランジェはおっしゃる通り、
まさにそうした歴史を開拓してきた女性のひとりであって、
自分の主張を強く押し出していくところは
フェミニズムに通じます。
ある意味、そういうのも政治的知恵なのかもしれませんが、
なによりも彼女が大切にしたのは真の音楽とは何か、
ということだったのだと思います。
by lequiche (2018-02-09 03:33) 

アヨアン・イゴカー

綺羅星のように、見知った名前が輝いていますね。
Youtubeも早速拝見しましたが、その中で彼女がcharacterについて言及していました。自分自身の独自の世界を発見するまでに、30年、40年掛かることもあると言っていたようですが、これは芸術でも学究的研究でも当てはまる、最も大切な要素だと思います。どんなに技術があろうが知識があろうが、個性がなければ芸術作品、研究としては価値がない、と私も思います。
大変興味深い記事で、勉強になりました。Nadia Boulangerのご紹介有難うございました。
by アヨアン・イゴカー (2018-02-13 01:36) 

lequiche

>> アヨアン・イゴカー様

コメントありがとうございます。
個性があるかどうかというのは大切ですね。
ブーランジェの場合、非常に厳しい教え方でもあったようで、
容赦なく高い要求する面があったのだそうです。
ところが晩年、イギリスのメニューインの学校では、
厳しいのにもかかわらず子どもたちから絶大な信頼があったとのこと。
つまり真の教育をすれば子どもでもそれがわかるのだと思います。
ピアノにしても、単なるタイプライター・ピアニストは
いっぱいいるんですが、そこから抜け出るためには
やはりその人が何であり何を言いたいのか、という個性が必要です。
by lequiche (2018-02-13 15:30) 

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