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赤毛のアントニオ ― ヴィヴァルディ《Concerto for Strings》 [音楽]

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Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741

ヴィヴァルディはロックだ。
とある場所があって、週末になるといつもクラシックのBGMの流れているのだけれど、鳴っているのは、ごく古いチープなスピーカーで、それはまるでAMラジオのような非力なプレイバックでしかない。名も知れぬルネッサンス音楽だったり、気乗りのしない陰鬱なドビュッシーとか、滅多にここちよい曲がかからないことが多いという、BGMとしては最低な選曲センスなのだが、今日、ヴィヴァルディがかかっていた。

ヴィヴァルディなんて《四季》以外、なんだかよくわからない。皆、同じような曲なので、でも曲名がわからなくてもヴィヴァルディであることはわかる。もしかするとそれは特異なことなのかもしれない。
googleでヴィヴァルディを検索するとブラウザーばかり出てくる。PC系の、そのネーミングセンスのなさにがっかりする。でも何度か検索しているうちにブラウザーは出なくなってくる。
結局、今日聴いた曲がなにかはわからなかった。でもそれでもいいのだ。ヴィヴァルディはヴィヴァルディでしかないのだから。
アントニオ・ヴィヴァルディ (Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741) とヨハン・セバスティアン・バッハ (Johann Sebastian Bach, 1685-1750)。ヴィヴァルディのほうが7年早く生まれているがほぼ同時代人である。

ヴィヴァルディはバロックだけれど対位法ではない。わかりやすいセンチメンタルとワンパターン。彼はヴァイオリニストだったから、曲は弦のための曲ばかりだ。その頃の鍵盤楽器は通奏低音用で、つまりヴィヴァルディにとってメインにするには力不足の単なる伴奏楽器だったのだろう。というよりヴィヴァルディにとって、音楽は弦が作り上げるものなのだという信念があったのに違いない。

ヴィヴァルディはヴェネツィアで生まれた。身体があまり頑健でなかったのに、早書きで無数の曲を書き、音楽を商売として旅行をし、たぶんそのような身体の酷使がもとで死んだ。その墓は無いし、死後ずっとその作品は忘れられていた。有名なヴァイオリンを持った肖像画は、それがヴィヴァルディかどうかの確証が無い。基本的にヴィヴァルディは謎である。でもイ・ムジチの《四季》によりヴィヴァルディは蘇った。人物そのものは不明だが音楽だけは残った。ヴィヴァルディは赤毛だった。

イル・ジャルディーノ・アルモニコのヴィヴァルディは、パッショネイトで、強いアタックと揺れる身体で、通俗なセンチメンタルを押し売りしてくる。心が弱いとき、人は簡単に押しつけがましさに翻弄される。翻弄されるのだけれど、でも翻弄もたまにはいいのかもしれない。
リズムは常に、せっぱつまって、前のめりに、せつなさと悲しみを振り切るように、あるときは明るく、そして多くは暗く、その先には何もないのかもしれない。知的よりも快楽が勝つような、弦が絶対的な優位を保つ音楽。なぜならそれはイタリアの音楽だから。

ヴィヴァルディはロックだ。
反抗として生まれたはずなのにだんだんと形骸化して骨抜きにされてしまって、体制に迎合し順応しているようなポップスの1ジャンルとしてのロックよりも、ハイソでラグジュアリーなシーンでのムードミュージックになり下がってしまっているようなジャズよりも、ずっと精神性が強い。そもそもバロックは抽象的で何も語らない。何も語れない。それは語法が具体的であることを嫌うからだ。それに加えて、対位法とか和声とか、あまりそういう理論でなく、とにかく突っ切ってしまう曲想のヴィヴァルディは、どこにもよりどころがない。権威がない。ヴィヴァルディの音楽は商売人の街ヴェネツィアから生まれてきて、そしてきっとそこに還ってゆく。深い水、流れる音、深い溜息。音楽は何も語らない。音楽は何にも依存しない。音楽には何の意味合いもない。人生に意味がないのと同じように。


Il Giardino Armonico/Musica Barocca (Warner Classics)
MUSICA BAROCCA




Il Giardino Armonico/Vivaldi: Concerto for Strings g-moll RV152
https://www.youtube.com/watch?v=F6hhsKWpDrw

Concerto Köln/Vivaldi: Concerto for Strings g-moll RV156
https://www.youtube.com/watch?v=aZHal-tXzl4

Il Giardino Armonico/Vivaldi: Concerto for Fout Violins h-moll RV580
https://www.youtube.com/watch?v=86Aqf2GTmCs

* 2曲のConcerto for Strings は Concerti e sinfonie per orchestra di archi (RV109−168) として分類されている。RV580は Altri concerti per più strumenti, orchestra di archi e basso continuo (RV554−580) の中の1曲であり、L’estro armonico (調和の霊感) op.3の10である。バッハがBWV1065としてチェンバロ4台のコンチェルトに編曲した。
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末尾ルコ(アルベール)

本日のお記事は文体もロックですね!そして何よりも、lequiche様のご精神がロックであり、しかもジャズ&ポップ&クラシックであるというため息の出るような素晴らしさ!そし突き詰めれば、そのようなカテゴリーにはまったく当て嵌まらないご精神をお持ちであると勝手に想像しております。
そう言えば、英語でclassicという言葉自体、堅苦しい感じの「古典」という意味を超えて、「最上の賛辞」として使われることも多いですね。
ヴィバルディという人物についてはほとんど知らなかったので、愉しく拝読いたしました。画家にも死後ずっと忘れられていて、近現代になって再評価された人ってけっこういますよね。サンドロ・ボッティチェッリなんかもそうなのですが、こうしたエピソードに接するといつも(批評って、何なのだ)と感じます。
最近でもダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディ』が史上最高値で落札されましたが、こうして価格ばかりどんどん吊り上がり、そのニュースが突出して世界を駆け巡るという風潮がありますよね。
『サルバトール・ムンディ』にしても話題になるのは価格と真贋論争がほとんどで、「人間にとって絵画とは何か」という本質的問い掛けはまったくと言っていいほど見られません。

ヴィヴァルディは何だかんだ言って、耳にする機会が多いです。と言うのも、わたしはNHK FMの番組をよく聴いているので、けっこうヴィヴァルディがかかるのですね。もちろんNHKのラジオパーソナリティはヴィヴァルディを「ロックだ!」とは言いませんが(笑)。

わたしの場合、ミステリを読むのはある程度以上精神的余裕がある時期なんですね。確か英国でミステリ小説が勃興してきたのは、経済的に余裕のある層が厚くなってきたことと関係していたと思います。
わたしの場合、経済的に余裕のないのは変わらずですけれど(とほほ)、それ以上に精神面の余裕がどのくらいあるかによって、読書傾向が変わってきます。
もうずっと前になるのですが、精神的な絶不調(←敢えて表現を軽くしております 笑)に落ち込んだ時期がありまして、当時はミステリなどはまったく受け付けませんでした。
読書に「救い」を求めていたゆえに、宗教、歴史、哲学、そして神秘主義などを読み漁っておりましたね。
その時期にどっぷりと耽読したのがフランス19世紀文学でして、いまだ特別な思い入れがあります。
なのでこれはわたしの個人史に過ぎないのですが、読書を含めた芸術鑑賞をスノッブ的に捉える人たち、まして「ビジネスのコンテンツ」としてしか捉えてない人たちに対しては、ほとんど「敵」(笑)のような見方になることがあります。

流行語のお話で言えば、これもかなり以前になりますが、「チョベリバ」なんてのがありましたよね。この言葉なんて、年月を経ても風雅な感覚にならないですよね。その意味で、どこかの時点で日本の新語・流行語って、本質的な醜悪さを含んだものが多くなってきている気がします。

>最近の政治の癒着・腐敗もスポーツなどのパワハラも根は同じ拝金主義です。

これはもうまったく同感です。そして問題の本質を見ようとしないで、「話題になった問題」だけあげつらい、トカゲの尻尾切りをしているから、何の解決にもならないですよね。

この前のNHKの番組でピリスが若者たちと接する姿、じっくり観ました。その言葉の一つ一つに透明な美しさと、何者にも替えがたい重さを感じました。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-06-17 14:18) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

たとえばロックでも、パンクよりプログレのほうが
ヒエラルキー的に上だとする考え方があります。
でもそれは単にテクニックが上なだけで音楽が上なのではありません。
テクニックがあることと音楽があることは別なのです。
それは他の音楽でも同じです。
クラシックはテクニックがあったほうが良い音楽を演奏できますが、
テクニックがあることイコール良い音楽なのではありません。

バロックの時代には音楽の本場はイタリアで、
ドイツはまだ辺境という認識がありました。
でもヴィヴァルディは、特に《四季》はスーパーでも流れていて、
通俗だし、バッハなどよりつまらない低級な音楽だと
私もずっと思っていました。
そして、バッハについてはよく知られていますが、
ヴィヴァルディはバッハほどには研究が進んでいません。
それはやはりつまらなくて底の浅い音楽だという先入観が
音楽研究者のなかにもあるからなのではないかと思います。

私が週末に聴いていたのは、たぶん有線放送みたいな
チャンネル別に音楽の種類が選択できるサーヴィスなのでは、
と考えているのですが違うかもしれません。
バロック以前の、ルネサンス期とかノートルダム楽派とか、
その手の妙な選曲があります。
それでいて突然、ショパンがかかったりします。

実はリンクしたヴィヴァルディも積極的に探していたのではなくて、
スカルラッティを探しているときに見つけた動画です。
スカルラッティでも、ヴィヴァルディより前のコレㇽリでも、
ヴィヴァルディよりはその人物と歴史がよく知られています。
ヴィヴァルディは名前のわりにはよくわからない人なのです。
それは彼が貧しい育ちだったからなのかもしれません。
赤毛というのは当時、差別用語的に使われていた言葉です。
当時、音楽で食べていくためには教会系に入るのが
一番都合の良い選択でしたのでヴィヴァルディはそうしました。
でも権威のある組織には必ず腐敗がありますから、
そうした中で曲を作るのには困難が伴っていたはずです。
バッハには敬虔なキリスト教への信仰がありましたが、
ヴェネツィアあたりはちょっと違うのではないかと思います。
昔からそこは〈The Drowned World〉であり、
陽気さや活気がありながら、死の天使の棲む都市です。
ヴィスコンティが描こうとしたのもまさにそうした都市の姿です。

私がシンパシィを感じるのは常に
あやういもの、不遇なもの、はかないものです。
それは人であったり、ものであったり、時によって違います。

ダ・ヴィンチがもてはやされるのは、絵が上手いからではなく、
その根源に何らかの胡散臭さを人々が感じるからだと思います。
私も直感的に、後ろ暗い面を感じます。
それはダ・ヴィンチという人そのものではなく
偶像化されたダ・ヴィンチを利用しようとする何かの力です。
《ダ・ヴィンチ・コード》のような視点は
フィクションでありながら大衆の 「のぞき趣味」 を刺激するので、
だからヒットするので、美学としての鑑賞ではなくて、
真贋を見極めるためのミステリ的な興味からだと思います。
ですから作品そのものの評価など彼らにはどうでもいいのです。
〈サルバドール・ムンディ〉はマテリアルでしかないのです。

FMではよくヴィヴァルディが使われるのですか。
それはわかるような気がします。
BGMとしてはバッハより使いやすいですし、
それは表層的な音楽としての記号がわかりやすいからです。

経済的余裕が精神的余裕を誘発するのかもしれませんね。
実業の人から見れば、文学とか音楽とか所詮は無駄なものです。
某トランプ氏なら、そういうものはすべてフェイクに過ぎない
ときっと言うでしょう。
ではそのような実業の人の理想と到達点は何か?
経済的な余裕で宏壮な家に住み、
おいしいものを食べ、セックスすることです。
実業家はかたちあるものしか愛せません。
ビジネス・コンテンツはコンテンツでしかなくて、
ともするとコンテンツしかないということさえ起こります。
目次だけ、分類だけを信奉するカタログ文化の原点も
ここにあります。

     *

チョベリバ、わからないのでwikiで調べてしまいました。(笑)
なるほど、そのように略すんですね。
どんな言葉でも短くしようと略す、という行為のなかで
音のつながりをわざと露悪的にする傾向があります。
たとえば勤労福祉会館という公共の建物があるんですが、
これを 「キンプク」 と略します。
私はこの音がダメですが、わからない人にはわかりません。
チョベリバも同様だと感じます。
あくまで生理的な感覚なのかもしれませんが。

ピリスの番組、ご覧になられましたか。
でもああした彼女の行動を無駄だと非難する人もいるのです。
人によって価値判断が異なるのは仕方がないですが、
すべてが拝金主義につながっている現代では
そうした価値判断のほうが正義になってきつつあります。
by lequiche (2018-06-17 18:06)