SSブログ

メトネル《ヴァイオリン・ソナタ第1番》— ボリソ=グレブスキー/デルジャヴィナ [音楽]

borisoglebsky_180623.jpg
Nikita Boriso-Glebsky

エカテリーナ・デルジャヴィナの2018年時点での最も新しいCDは、墺Profil盤のメトネルのヴァイオリン・ソナタ集である。正確にいえば《Nikolai Medtner Complete Works for Violin and Piano》というタイトルで、3曲のソナタと〈舞曲を伴う2つのカンツォーナ〉(Zwei Canzonen mit Tänzen) op.43、〈3つの夜想曲〉(Drei Nachtgesänge) op.16 が収録されている。
ヴァイオリンはニキータ・ボリソ=グレブスキー (Nikita Boriso-Glebsky, 1985-) で、レコーディングが行われたのは2017年3月27日から30日、ドイツ放送室内楽ザール (Deutschlandfunk Kammermusiksaal) であり、マルPは Deutschlandradio と表記されている。

デルジャヴィナはメトネル弾きと言われているにもかかわらず、そのメトネルの録音はあまりなく、しかも廃盤になっていたりして入手しにくい。メジューエワのような恵まれた環境とは対極である。
今回のメトネルもピアノ・ソナタではなくヴァイオリン・ソナタであり、デルジャヴィナのピアニズムを聴こうとするためにはやや不満が残るが、でもメトネルであることで善しとしよう。

ニコライ・メトネル (Nikolai Karlovich Medtner, 1880-1951) の書いた曲はそのほとんどがピアノのための作品であるが、3曲あるヴァイオリン・ソナタは傑作である。そのことはずっと前に簡単に書いた。まだブログの文章としての体裁が整っていない頃で甚だ雑な記述でしかないが (→2012年01月29日ブログ)。
そのときにも書いたことだがメトネルのヴァイオリン・ソナタで私が長く愛聴していたのはNAXOS盤のロロンス・カヤレイ&ポール・スチュワートによる演奏である。NAXOSのデータに拠れば2006年12月18~20日と2007年6月18~19日に、カナダ、モンレアル (モントリオール) で録音されたもの。
ロロンス・カヤレイ (Laurence Kayaleh, 1975-) のCDはあまりリリースされていないし、このNAXOS盤のメトネル以外を聴いたことがなかったが、このメトネルは名盤と言ってよい。

対するデルジャヴィナの演奏はヴァイオリンにボリソ=グレブスキーを選んでいる。ボリソ=グレブスキーもCDとしてリリースされている演奏はごく少ないが、リストを見ていたらヴュータンのヴァイオリン協奏曲集があるのに気がついた。ヴュータンの協奏曲は7曲あるが、パトリック・ダヴァン/リエージュ・フィルというオケをベースとして、1曲毎に異なるソリストでレコーディングされた協奏曲全集がある。墺Fuga Libera盤《Henri Vieuxtemps Complete Violin Concertos》で、このアルバムのこともすでに書いた (→2012年08月11日ブログ)。
このアルバムの中でボリソ=グレブスキーは第3番を弾いているのだが、繰り返し聴いていたのにもかかわらず、アルバムの趣旨が若手ヴァイオリニストを競わせるようなコンセプトであったため、曲を追ってはいたけれど各々の演奏者までは覚えていなかった。私の偏愛する作曲家であるメトネルとヴュータンのどちらも弾いているボリソ=グレブスキーに俄然興味を持ってしまう。

アンリ・ヴュータン (Henri François Joseph Vieuxtemps, 1820-1881) はベルギー人であるが、全盛期の頃、サンクトペテルブルクに長く住んでいて当時の帝政ロシアと縁がある。逆にメトネルはロシア人でありながら、革命後、国を出てイギリスに没した。世代的にはヴュータンが亡くなったときメトネルはまだ1歳であり、重なる部分はなく、またヴュータンはヴァイオリン、メトネルはピアノのスペシャリストであって楽器的にも重ならないが、2人とも故郷喪失者としての一生であったことでは共通している (ヴュータンについては→2012年03月22日ブログにもその協奏曲のアウトラインを書いている)。だが晩年のふたりは対照的であり、ヴュータンの悲嘆は色濃い。

さて、メトネルに戻って、今回のボリソ=グレブスキー&デルジャヴィナとNAXOSのカヤレイ&スチュワートをソナタ第1番で聴き較べてみた。聴き較べてみたのだけれど、実はそんなに違わない。もちろん異なる演奏者なのだから細かい違いはあるのだが全体の流れはそんなに差異がない。それは個性がないからではなくて、つまりメトネルはその楽譜に忠実に演奏しようとすると、このように弾くしかないというようなことなのではないかという印象がある。言い方をかえれば楽譜が厳格に完成されていて、そんなに自由度は存在しないといってもいい。

メトネルのヴァイオリン・ソナタの書法はピアノの伴奏でヴァイオリンがソロを奏でるというようなヴァイオリン主導の形式ではない。ヴァイオリンとピアノはかなり対等で、互いに呼応しながら展開してゆく。それはメトネルがピアニストであったことにもよるのだろう。
第1楽章 Canzona のヴァイオリンとピアノのからまるような憂鬱の流れにすぐに引き込まれる。
Canterellando; con fluidezza. それは長い満たされない誘惑。希望と諦めがくるくると変わるようなメトネルの官能であり、約束の地への不毛な誘いに過ぎない。変奏されて曲がりくねって Tempo I に戻って来てもそれはさっきの階梯ではない。
Danzaと標題のある第2楽章 Allegro scherzando は穏やかで明るい楽想で、ヴァイオリンが弾くとそれをピアノが模倣して引き継ぐというかたちになる。ところが途中の Presto (Doppio movimento) から急速調に変わり、目まぐるしく動き回るヴァイオリンとそれを追うピアノ、でもそれが強い感情表現になることが決してない。延々と続く旋律線、第2楽章ではオクターヴのダブルストップが多用される。

古典的なソナタでは第1楽章と第3楽章が速く、第2楽章がゆっくりという速度が設定されることが多いが、この曲では第1楽章は第2楽章に至る長い憂鬱な前奏のような感じもする。そうした意味でフランクのヴァイオリン・ソナタの構造を思い起こさせる。ヴァイオリンとピアノが対等に近いということにおいてもフランクと共通するニュアンスがある。フランクの場合はもっとも憂鬱な第1楽章が変転していって、やがて陽のあたる終楽章に至るのだが、メトネルの場合は明るくても暗くてもそれは常に微妙な色合いで、どこまでが真実の響きなのかがわからない。たぶん陽のあたる坂道は存在しない。

第3楽章は Ditirambo と名付けられていて、しかも Festivamente という決め打ち (festivamente は humorously とか joviallyの意)、そして4分音符で66~72という指定がある。つまり指定されている速度は第2楽章が最も速く (4分音符80)、第1楽章と第3楽章は遅い。第3楽章は穏やかで印象的なリズムを伴って始まるが、延々と連なる旋律線は同じで、しかも自在に転調してゆく。そのつなぎ目が巧妙でわからない。ditirambo というタイトルもわからなくて、滅多に手にしないイタリア語辞書で探してしまった。酒祝歌、バッカス神に捧げた合唱風抒情歌とのことである。

メトネルのヴァイオリン・ソナタは第3番が最も有名だが、あまりにも長大過ぎるし、3曲どれもが個性的でメトネル的である。
今回、ボリソ=グレブスキー&デルジャヴィナとカヤレイ&スチュワートを比較して何度も聴いてしまったが、ピアノの音のクリアさではカヤレイ&スチュワートのほうが好ましく思える。ただそれはあくまで好みであって、やや深めなルームを感じるデルジャヴィナのほうがロシア的なのかもしれない。
第1番はmedtner.org.ukによれば1909年から10年に作曲され、Édition Russe de Musique で1911年に出版されたとある。ロシア革命は1917年であり、Four Fairy Tales, op.34, op.35 あたりがその前夜である1916年から17年の作曲とされている。

今回、いろいろと動画を探しているうちに、カヤレイの動画を見つけたのだが、やや (かなり) 意外な印象を受けてしまった。あぁそうなのか、という感じである。まさに正統派で、身体がほとんど不動で、そこから繰り出される音は非常に安定して見える。
ポール・スチュワート (Paul Stewart, 1960−) は同名の人が多く紛らわしいが、Université de Montréal の教授である。メトネルのソナタ全集を録音中であり、現在、Grand Pianoレーベルから第2集までがリリースされている。私がメトネルに目ざめたのは英hyperion盤のアムランの全集によってであるが、デルジャヴィナにもまとまったメトネルのリリースを望みたい。


Nikita Boriso-Glebsky, Ekaterina Derzhavina/
Medtner Complete Works for Violin and Piano (Profil)
Piano Works




Laurence Kayaleh, Paul Stewart/
Medtner: Violin Sonatas Nos.1 and 2 (NAXOS)
Violin Sonatas 1 & 2/2 Canzonas With Dance




Medtner: Sonata for Violin and Piano No.1, op.21
Oleg Kagan, violin; Sviatoslav Richter, piano
Filmed in Moscow, December Nights Festival, 27 December 1981
https://www.youtube.com/watch?v=c69RkfsdguE

Medtner: Sonata for Violin and Piano No.1, Op.21
Laurence Kayaleh, violin; Paul Stewert, piano
https://www.youtube.com/watch?v=sn-5hPujUQQ
nice!(82)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽

nice! 82

コメント 4

末尾ルコ(アルベール)

リンクしてくださっている過去のお記事も拝見させていただきました。
ヴィスコンティの『異邦人』、わたしも子どもの頃に民放地上波TVで放送しているのを観ました。もちろん吹替えで。レンタルビデオが普及する以前は、映画館以外ではテレビ放送で映画を観る他ありませんでしたから、放送される作品は何でもかんでも観てました。
でもその後、『異邦人』はあまり観る機会がないのですよね。ヴィスコンティが『異邦人』の世界をどう描いているか、今だからこそ理解できることもありそうな気がしているのですが。

ニコライ・メトネルについては何も知らず、しかしリンクしてくださっている動画を視聴したところ、とても親しみやすい作風に感じました。
技術的なことについては分かりませんが、lequche様が「ソナタ第1番」について詳しくご説明くださっているので、曲の流れや魅惑についてとてもデリケートに理解できるような気がします。

>互いに呼応しながら展開してゆく。
>ヴァイオリンとピアノのからまるような憂鬱の流れ
>ヴァイオリンが弾くとそれをピアノが模倣して引き継ぐ
>途中の Presto (Doppio movimento) から急速調に変わり

こうしたご表現の的確さが素晴らしく、本日もわたしにとって新しい音楽の世界、堪能させていただきました。
ニコライ・メトネルもしっかり心に刻み、折に触れて鑑賞したいと思います。

どうやら10代の、特に高校時代くらいのわたしはロクでもない人間関係しかなかったようで(笑)、例えば、プログレを聴いていたらパンクを小馬鹿にする、ジャズを聴き始めたらロックを小馬鹿にする、さらに吉本隆明を読み始めたら谷崎潤一郎を小馬鹿にするとか、とんでもない野郎(笑)が多かったです。
ま、それもわたし自身、当時はある種歪んでいたのかもしれません。ただやはり比較すれば、都市部より地方は、「ものを知らないのに知ってると勘違いしている人」の割合が多い印象はあります。
テクニック礼賛と言いますか、テクニック至上主義も多かったです。「速引きがすべて」と信じている手合いはゴロゴロしておりました。
わたしも当時、そうした連中に対しての有効な弁明ができなかった・・・という口惜しさはいまだ持っております。

ヴィヴァルディと言えば、クラシック作曲家の中では、特に日本では非常によく知られた存在だというイメージなのですが、「通俗」と認識され、しかも研究が進んでないというお話は驚きです。
ヴィヴァルディがFMや、あるいは学校などの放送で使われやすいのは、「軽く耳に入って来る」と思われているからなのでしょうか。そして日本でも一般的にはクラシック関係者に「通俗」と認識されているのでしょうか。わたしはずっとヴィヴァルディを、「問答無用の巨匠の一人」と思い込んでおりましたので、とても興味があります。
それとちょっとお話逸れますが、わたしは案外AM的なノイズの混じった音声でかかる音楽って、嫌いではないのです。そればっかりでは困りますが(笑)、「生活の中にふと入り込んでくる」という感覚が時に凄く沁み込んできます。

>私がシンパシィを感じるのは常にあやういもの、不遇なもの、はかないものです。

わたしも同様です。と同時に、以上に強いものへの憧憬もあります。ただ、「強きもの」も突き詰めて考えると、「弱きもの」とほとんど変わらないのではないかとも思います。

キリスト教について、ドイツとイタリアが基本的にまったく異なるスタンスであることはよく分かりますが、同様のカトリック国であるイタリアとフランスとの間にもスタンスの違いを感じます。
特に中世以降ですね。フランスにはより土着的な信仰心が根付いており、それがジャンヌ・ダルクやルルドのベルナデットが登場する土壌になっているような。イタリアからももちろん敬虔な聖フランチェスコが生まれていますが、lequiche様がご指摘のヴェネツィアの〈The Drowned World〉はやはり特別ですね。

>偶像化されたダ・ヴィンチを利用しようとする何かの力です。

素晴らしいご指摘です!「ダ・ヴィンチ!ダ・ヴィンチ!」と連呼する世間の風潮に対してわたしの心の中に常在していたもやもやを吹き飛ばしていただけた気がします!
そうなんですよね。「金を生む存在」として体臭に最も訴える力のある芸術家がダ・ヴィンチである、ということなのでしょうね。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-06-23 12:26) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

ヴィスコンティの映画はほとんど記憶がありませんが、
マストロヤンニというのはムルソーとは
ちょっとイメージが違うのではないか、とその時思いました。
もっともそれは私の個人的な好みに過ぎないのかもしれません。
昔のそのような映画は今、DVDなどでも入手しにくいですし、
むしろ名画座などで定期的に上映されていた時代のほうが
古い作品に出会える可能性は高かったのかもしれません。
今は文化の無い時代ですから。

メトネルは曲想が屈折していてストレートでないことと、
演奏難度が高く、簡単に弾ける曲が存在しないため、
あまり有名とはいえないかもしれません。
遅れてきたロマン派でもあり、
当時は時代遅れ的な目で見られていたのでしょう。
でもその曲作りの緻密さはあり得ないレヴェルですし、
私の中でメトネルとヴュータンは緻密さの双璧なのです。
緻密過ぎる分、ダイナミクスには欠けます。

若い頃にはヒエラルキーを仮想して
マウンティングしたがりますから、
そうした動物的行動がまかり通るのでしょう。
原始的欲望であり、つまり猿山のボス猿争いと同じです。
プログレとパンクはチャンネルが違うのですから
比較しても意味がありません。
クラシックバレエとフラメンコを比較する人はいませんし、
能楽と文楽を比較する人もいません。
でも若きお猿さんには、
そこまでの判断力が備わっていなかっただけです。

テクニックの比較はわかりやすいです。
勝ち負けですから。
でも音楽はスポーツではないので、
つまりスポーツとはチャンネルが違うので、
テクニックだけで較べることは陳腐です。

あるものが通俗かどうかという判断はむずかしいです。
ある人にとっては
クラシック音楽ならどんな曲でも通俗とはいえない、
と考えるかもしれませんし、
ある人にとっては、
ショスタコーヴィチだって通俗な曲は通俗、
と考えるかもしれません (←これ、私です。 ^^;)

通俗という言葉から感じとれてしまうのは、
下品とか野卑とかいうようなマイナスイメージですが、
わかりやすい、親しみやすいというふうに
プラスのイメージでとらえることも可能です。

ヴィヴァルディはバッハに較べれば
わかりやすいですし音構造的にもシンプルです。
でも複雑だから価値が高いのか、エラいのか、
というとそれはまた別の問題です。
たとえばブーレーズの曲は複雑ですが、
それをパレストリーナの曲と比較する人はいません。
上述のチャンネルが違う、ということと同様です。
ただ、曲の長さとか使用楽器の問題などもありますが、
一般的なオーケストラでのヴィヴァルディの演奏頻度は
ベートーヴェンなどに較べれば低いはずです。
通俗だから演奏しないということではなく、
現代オーケストラには合わないからだと思います。

ライト・クラシックというジャンル分けがあって、
平易な曲、わかりやすい曲をそう呼ぶことがあります。
たとえばツィゴイネルワイゼンとか、青きドナウとか、
作曲家だったらレスピーギとかクライスラーとか、
そういうのです。
こうした曲も、ある意味通俗かもしれません。
でもそれは悪い曲という意味とは少し違うのです。

さらに微妙な当落線上の例として、
たとえばラロの《スペイン交響曲》、
これは実際にはヴァイオリン・コンチェルトですが、
このへんの曲だって通俗という判断もあります。

AMラジオのようなSNの低い音は、
一種のノスタルジアであり癒やしの効果がありますね。
社会的生活はノイズの中にあるわけで、
そのほうが安心するという感覚があるのは確かです。
なぜならノイズがあるのが自然だからです。

マイノリティな音楽に関するシンパシィは確かにありますが、
それ以外に、ブログ作成のための方法論として、
誰もが書くようなことを書いても仕方がありません。
特徴を出すためには差別化が必要です。
といって、わからな過ぎるのもよくないのです。
多少、おバカな部分を作ってスキがあるほうがよいのです。
「強きもの」=「弱きもの」 ですか。確かにそうですね。

キリスト教は完全な一枚岩ではありませんし、
その土地によって昔からの非キリスト教信仰もあります。
日本人がそのへんの事情に通暁するのは難しいように思います。

ダ・ヴィンチに限らず芸術は常に金銭で評価されます。
芸術だけでなく、人間一般の評価が金銭である
と規定してもいいのかもしれません。
このような 「さもしい」 世の中は、
より強化されることはあっても弱まることはないです。
by lequiche (2018-06-24 04:32) 

英ちゃん

こんばんわ。
「行雲流水」では、長い間お世話になりました。
新たなブログからの訪問です。
HNも「えーちゃん」から「英ちゃん」に変更しました。
チョッとマニアックなブログになるかも知れませんが?
よろしくお願いします。
by 英ちゃん (2018-06-26 01:00) 

lequiche

>> 英ちゃん様

新しいブログ、早速拝見致しました。
「鐵」 の字がすごいですね。(^^)v ソコカヨ
マニアックなの、私にはよくわかりませんが、
わからないところがまたよいんだと思います。
こちらこそよろしくお願い致します。
by lequiche (2018-06-26 12:39)