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プレトニョフの弾くスカルラッティ [音楽]

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Bárbara de Bragança (1711-1758)

ミハイル・プレトニョフ (Mikhail Vasilievich Pletnev, 1957-) はどちらかというと指揮者としてのイメージのほうが強いかもしれないが、もともとはピアニストであり、スカルラッティは彼の得意とするレパートリーのひとつであるという。
ドメニコ・スカルラッティはアレッサンドロ・スカルラッティの息子であり、圧倒的に有名なのは555曲あるクラヴィアのためのいわゆるソナタである。「いわゆるソナタ」 とわざわざ書くのは、スカルラッティのソナタは単一楽章のそれほど長くない曲を指すからであり、古典派の3楽章あるようなピアノ・ソナタとは内容が異なる。
スカルラッティは仕えるマリア・マグダレーナ・バルバラ (ポルトガル王女、のちのスペイン王妃バルバラ・デ・ブラガンサ) のためにこれらの曲を書いたのである。

プレトニョフのオリジナルの録音はおそらく英Virgin盤だと思われるが、私が聴いたのは第1集がWarner ClassicsのEratoレーベル、第2集がVirgin Classicsとなっていてレーベルが揃っていない。だが内容はオリジナルと同一だと思われる。

スカルラッティのソナタの録音にはスコット・ロスのチェンバロによる全曲盤があって、そのことはすでに書いたが (→2017年05月24日ブログ)、プレトニョフの演奏はピアノであり、チェンバロとピアノという楽器の違いだけでなく相当にアプローチが違う。
そして同じピアノでもたとえばピリスの弾くスカルラッティともかなり違っていて、こういうのあり? とまではいわないけれどかなり新鮮であった。簡単にいえばリズムに揺れがあり、しかしそれは心地よく音楽に馴化しているように感じる。時代的にスカルラッティはバロック期の作曲家であるのだが、こういうふうに弾かれるとまるでバロックではない。というよりスカルラッティってそもそもバロックとして分類されるべきなのかという疑問があるが、それはバロックイコールバッハ、そして対位法的、というような刷り込みがどうしてもあるからだと思う。

第1集を何となく聴いていて、最初にあれっ? と耳を引きつけられたのは有名なKk.380のE-durである。目眩くほどに心地よいPrestoのKk.24 A-durが続き、転じてKk.247のcis-mollと、このへんの曲順の妙が冴えている。漫然と並べていないことがよくわかる。
Kk.247は物憂くけだるく思えるような曲想で対位法的に始まるが、2小節毎の揺れるようなリズム、そして前半部と後半部のそれぞれの最後にある32分音符の流れを見ると、あまり対位法というのを重要視しているようには思えない。音楽之友社版の中山靖子の解説では左手の平行5度をためらわずに使用している、と指摘されているように、現代の目から見るとバッハへのアンチテーゼのようにさえ感じてしまう。
Kk.247はKk.246と対になっているような作品で、どちらもcis-mollというやや変わった調性であり、途中でAs-durにするりと変わってまた戻ってくるところも似ている。楽譜上では転調しているがその差異は聴いているとわからないし、Kk.246では小節の途中で転調しているが、それは1小節毎の区切りという概念が稀薄であるようにも見える。

スカルラッティがこれだけ多数のクラヴィア曲を書けたのは、バルバラ妃の存在が大きい。バルバラはスカルラッティから音楽の教えを受け、スペイン王と結婚するとスカルラッティもスペインに住み、妃のために作曲を続けた。それはバルバラからの要請があったからに他ならない。
wikiには 「バルバラは決して美女とは言えず、初対面でフェルナンド [夫となったフェルナンド6世] がショックを受けた」 という失礼なことが書いてあるが、これはen.wikiの引き写しであり、それに決して彼女は不美人ではない。内面から滲み出る高貴な魂を感じさせる肖像である。そして国王夫妻は音楽を愛していた。

参考のリンクにはプレトニョフよりももっと現代的なスピード感のあるヴェロニカ・クズミナ・レボー (Veronika Kuzmina Raibaut) を選んでおく。YouTubeに彼女自身のミックスリストがあり何曲ものスカルラッティがある。初めて知ったピアニストであるが、pianos-international.frのプロフィールによるとGenre musicalとしてClassique, Moderne, Jazzとある。

そして秋には、スカルラッティのカークパトリック番号で知られるラルフ・カークパトリックのスカルラッティ論の翻訳が出版されるとのことである。


Mikhail Pletnev/Scarlatti (EMI Classics)
Domenico Scarlatti - Keyboard Sonatas




Veronika Kuzmina Raibaut/
D. Scarlatti: Sonate A-dur Kk.24
https://www.youtube.com/watch?v=E0rtyXs0RPo

舌沙織里/D.Scarlatti: Sonata E-dur Kk.380
https://www.youtube.com/watch?v=tqM7nKxZCWc

Mikhail Pletnev/D. Scarlatti: Sonata cis-moll Kk.247
https://www.youtube.com/watch?v=fHPVU3xpLB4
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末尾ルコ(アルベール)

スカルラッティの名はもちろん知っておりますが、(スカルラッティを聴こう!)と意識して聴いたことはないのです。
ところがリンクしてくださっている動画を拝見すると、馴染みある曲ばかり。クラシックに関しては個人的に、「今一歩踏み出す必要性」をあらためて感じました(笑)。
わたしは、Sonate A-dur Kk.24~Sonata E-dur Kk.380~Sonata cis-moll Kk.247の順番に聴きましたけれど、ただただ心地よく、スカルラッティのソナタばかり聴きながら、一日中本を読んで過ごしたい気分になりました。なかなかそんな余裕ある時間の使い方ができないですが。
ただ、「ソナタ」という言葉から連想するわたしの中の思い込みとは少々違う感覚の曲ではあります。もちろんわたしは「ソナタ」について、「勝手なイメージ」しか持ってないのですが。
「バロック音楽」という言葉に関しても同様で、わたしの中ではバッハよりもヴィヴァルディのイメージなのです。もちろんクラシック素人なりに、バッハは最高に好きな作曲家なのですが。
そう言えば、かなり以前、NHK FMの朝番組でかかるバロックを毎日のように聴いていたので、そのイメージが強いのかもしれません。多分、「朝に相応しい曲」とかいうのも選曲にあったようで、あまりスカルラッティのソナタ的な曲はかかってなかったです。
「見た目」のお話で恐縮ですが、舌沙織里というピアニストはお綺麗ですね。この方は力のあるピアニストなのでしょうか?

マリア・マグダレーナ・バルバラとのエピソードも興味深いですね。「創作の後押ししてくれる存在」って、大事ですよね。

WOWOWでも演劇の放送をよくやっているのですが、以前は観ようとしたこともあったんですが、どうにもよろしくなくて、今では興味のある内容でも観てません。
あ、わたしはセイゴー先生とは逆で、普通は「観る」です、映画やステージの場合は(笑)。特に深い意味はなく、何となくという要素が一番大きいのですが、日常的に視力を使う「見る」と区別をつけているくらいが理由でしょうか。そのくらいのことだから、今後変更する可能性もありますが(笑)。

>音楽に較べると、受け取れる情報量はかなり低いと思います。

分かります。例えばバレエでも、(なかなかいいな)という映像がありますが、「映像に残す」という意味では、演劇はとても難しいジャンルですね。

ク・ナウカは、『王女メディア』と、『アンティゴネ』がめちゃめちゃよかったんです。特に『アンティゴネ』を観劇して以来、ソフォクレスのオリジナルは座右の書の一つとなりギリシャ悲劇への興味がグッと深まりました。ギリシャ悲劇って、凄いですよね。哲学も、ですけれど。

>淀川先生みたいでちょっと笑いました。

そうなんです。セイゴー先生は『千夜一冊』の中で淀川さんの著作にも言及しておりまして、「若い頃は、(何だ、この人は)と思っていたけれど、ある程度の年になって淀川長治の好きな映画を見ると、自分とほとんど同じで愕然とした」という意味の話をしています。
淀川さんについて深く理解しているのは、蓮實重彦、山田宏一、金井美恵子らだと思いますが、セイゴー先生がここへ来て、淀川さんのような熱情を持ってヴィスコンティを語るのは、一映画ファンとしてとても嬉しいことでした。

《Salon Kitty》って、わたしは未見ですが、ヘルムート・バーガーとイングリッド・チューリンも出演しているのですね。企画段階では、素晴らしい作品になる予定だったのかもしれませんね(笑)。
現在世界的に非常に評価が高いルカ・グァダニーノという映画監督がいるのですが、その人がティルダ・スウィントンと組んで、かなり長い期間かけて作ったのが、『ミラノ、愛に生きる』という作品で、ヴィスコンティ的世界を意識していたとのことです。
もちろんヴィスコンティというわけにはいきませんが、近年の映画としては、なかなかに観応えある内容でした。

YMOの活動は、「敢えてマスを狙った実験」という感もありました。あと、当時はテクノなどが牽引して、「東京が絶対」というイメージが出来上がっていた覚えもあります。
「美的な基準」というのは永遠のテーマですね。だいぶ以前の話ですが、美術などまったく知らない女性に、(これは確実だろう)とエヴェレット・ミレイの『オフィーリア』を見せたのですが、いきなり「気持ち悪い」とのたまったので、吃驚しました。
『オフィーリア』が気持ち悪いのでは、クラーナハとか見たらどうなるんだ、という感じで、そこから先へはなかなか進み難く、鑑賞習慣が無い人にとってはきっと、「美術など何の意味もないもの」なんだろうと、難しさを感じたものです。
ジャーナリズムや文化といった言葉が死後であれば、わたしは「死後の世界」に生きているのかもしれず(笑)、逆に妙にワクワクしてくる自分がいたりして、です。 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2018-07-30 01:52) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

いつもわざわざお聴きくださり、ありがとうございます。
現代でソナタと呼ばれる作品とはやや違いますね。
バロック期ではまだソナタという概念が
流動的だったのかもしれません。
今の楽典に載っているような意味でのソナタは
もっと後年になって確立したのだと思います。

バッハよりもヴィヴァルディのほうが
スカルラッティには近い印象があります。
ただ、バッハの手法とは違うのですが、
どうしてこういうふうになるの? というような
魔術的な構成がスカルラッティにはあります。
私は理論に暗いのでこれを説明するのが難しいですし
そう思い込んでいるだけなのかもしれませんが、
スカルラッティのすごさは繊細な変わり身のすごさです。

バルバラがポルトガルからスペインに嫁いだら、
スカルラッティもスペインに引っ越して
継続してバルバラ妃のために曲を書いたというのは
当時の音楽家としては非常に幸福な人生です。
そのため、スカルラッティの曲には
悲しみや憂いはあってもそれはあくまで明るくて、
深刻な悲しみはないのです。
ベートーヴェンのような音楽を至上と考える人には
スカルラッティは物足りないのかもしれません。
でもそこにバルバラ妃の人柄が反映されているように
私には思えます。

舌沙織里さんというピアニストは知りませんでしたが、
YouTubeで探していてたまたま見つけました。
桐朋出身の正統派のピアニストですね。
CDを1枚だけ見つけましたが、
フルトヴェングラーの室内楽を演奏しているようです。

舞台芸術というのはその空間性に支配されている部分が
大きいのではないかと感じます。
遠い座席だったら、実際に見える舞台は小さく、
その周辺に広大な闇が存在します。
でもその空間を共有しているという感覚が大切なのです。
画面として切り取られた舞台にはその空間性は写りません。

ク・ナウカを少し検索してみましたが、
演出家の宮城聰は東大で野田秀樹の後輩であり、
影響を受けたと書いてありますね。
当時の東大は劇団綺畸もありましたし、
演劇花ざかりだった、というふうに感じました。
また女優の美加理は
天井桟敷の《青ひげ公の城》で舞台デビューとあります。
いろいろびっくりです。
《青ひげ公……》自体はあまり評判がよくなかったですが。

淀川先生は何かで言っていましたが、
良くないと思う映画でも何とか良いところを見つけて
褒めちゃう、というのがすごいなぁと思いました。
松岡正剛もだんだんそういうお年頃になってきた、
ということなのでしょうか。(^^)

《Salon Kitty》は素晴らしい作品になる予定は
最初から無かったと思います。(断定 ^^;)
コミケのエロマンガ部門みたいなものです。
グァダニーノ、そうなんですか。
そのうち観てみます。

「東京が絶対」 というイメージは気がつきませんでした。
YMOのコンセプトの元はおそらく細野さんだと思います。

オフィーリアが気持ち悪いというようなことは
美術に限らず、すべての芸術においてありますね。
たとえばルコさんのお好きなバレエでも、
男性ダンサーのタイツ姿を見て笑いが止まらない人とか
いますし。(実話です)
昨今のジャーナリズムも同様で、
そうした傾向は簡単にいえば幼稚な精神が支配している、
ということなのだと思います。
幼稚を無垢とか純真と言い換えて流通させていたりしますが、
それは違うよ、と警告する人が誰もいません。
つまり無法地帯です。
by lequiche (2018-07-31 01:10)