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速度について、あるいはワルシャワのピリス [音楽]

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最初に聴いたときはよくわからなかった。
ピリスのワルシャワでのコンサート。ポーランドNIFC盤、ショパンのコンチェルト第2番である。
それはきっと小さな音量で何気なく聴いていたからなのだろう。あらためて少し音量を上げて聴き直してみたら、くぐもっていたように遠くにあったピアノがくっきりとしてきて、クリアな音楽が立ち上がった。

こんな曲だっけ? と思えるような印象がピリスにはよくある。もちろん異なった曲ではなく、その曲はその曲なのだ。ショパンはショパンであり、ショパン以外のなにものでもない。けれどそのときによって新しい音の風貌というか、いままで知らなかった音に聞こえるときがある。ときによって異なる顔を見せる曲、それが作曲家の作為によるものなのか、演奏者の意図によるものなのか、それとも聴いている私の心情によるものなのかはわからない。

音を小さくして聴いていたとき、序奏はふわっと始まったように思えたが、音量を上げるとそれはもっと毅然としていて、それは勘違いだったことがわかる。澄んだ音からショパンの風景が見えてくる。
ピアノが入って来る。明らかなピリスの音。なぜピリスの音は違うのだろうか。
第1楽章 Maestoso のピアノとオーケストラ (ウォーレン=グリーン/シンフォニア・ヴァルソヴィア) の寄り添いかたもぴったりだが、印象的なのはショパンの楽曲の構成力の古典的な堅実さだ。そのようにピリスが弾くからそれが明確に際立つのかもしれない。
だが白眉は第2楽章 Larghetto である。4’04”あたりからの、短調になって弦のざわめきの中に孤立するピアノ。黒い悲しみ。そして音は再びたおやかに明るさのなかに戻って行き、深いオケがそれを柔らかく包み込む。
第3楽章 Allegro vivace はよく知られたメロディから入って行くが、ピリスはごく丁寧にひとつひとつの音を形作る。左手の打鍵の仕方が印象的だ。木管が引き摺ったように鳴ってピアノが駆け下ってきて、再びオケと合体し、細かいパッセージは無理なく、少しも押しつけがましくなくオケの波に乗って行く。

演奏は2010年のショパン生誕200年を記念したコンサート 「ショパンと彼のヨーロッパ Chopin and His Europe」 で収録された。chopin.nifc.pl に拠れば、2010年のコンサートでは8月27日、28日、30日にアルゲリッチが、25日、29日、30日にピリスが弾き、そのアルゲリッチの第1番 (8月27日、28日)、ピリスの第2番 (8月29日) がNIFCから発売された。だからこれはペアで聴くべきものなのかもしれない。
CDの品番は038と040であり、ちなみに039はブリュッヘン/18世紀オーケストラのベートーヴェンとクルピンスキのライヴである。ブリュッヘンとアルゲリッチ、ブリュッヘンとピリスの映像もそれぞれリリースされているようだが、この時期のNIFCのラインナップはすごい。
ピリスの第2番はエラート盤、DG盤にもあるが、このNIFC盤はライヴの緊張感がより研ぎ澄まされていて、それが何か違う曲のような印象を私に与えたのだろうと思う。

近年のピリスの演奏は、音を 「確かに」 弾く。その、熟成されたというか、でも決して老練とか枯淡ではないみずみずしさが彼女の音にはずっとつきまとう。それはたとえば併録されている2014年録音のノクターン Es-dur op.9 nr2 などを聴くとはっきりとわかる。速度が遅いのだろうか。そうではない。確かさがひとつひとつの音を際立たせるのだ。それはグールドがトルコ行進曲を故意のようにゆっくりと弾いたのとはまるで別のことである。ショパンはもしかすると、私が日常的にとらえていたよりももっと重い。
fis-moll op.48 nr2 のひとつひとつの音の重なりとその響きと緻密さ。弾き飛ばさないこと。それぞれの音がなぜそこにあるのかを考えること。ピリスがそれを教えてくれる。
そして最後に収録された cis-moll のノクターン。Lento con gran espressione. これは死の曲だ、明らかに。ひとつひとつの音を噛みしめるように、そして速いパッセージは羽根のようにたちのぼる。最後の曲が終わると、いままでスタジオ録音だと思っていた静寂さの中から拍手が湧き起こる。

速いパッセージは速く弾けばよいというものではない。個々に適切な速さというものがある。そしてそれはそのときの音楽の息遣いによって変わってくるものなのであって、いつでも機械のように同じ速さである必要はないし、またスピード競争のように指が回ることが偉いわけではない。速ければ速いほど偉いという価値基準は陸上選手などのタイムを競うスポーツに限られる。そして音楽はスポーツでも格闘技でもない。それを勘違いするとそれはもはや音楽でさえなくなる。ということを私はぼんやりと考えていた。
これはごく卑近なことからの連想であるので、ピリスとは隔絶した場所でのくだらない雑念に過ぎない。

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Pires and Christopher Warren-Green


Maria Joãn Pires/Chopin: Piano Concerto No.2 (NIFC)
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https://www.amazon.com/Frederic-Chopin-Piano-Concerto-Nocturnes/dp/B014S607MM/

Maria Joãn Pires/Chopin: Piano Concerto No.2
Allegro vivace:
https://www.youtube.com/watch?v=8t6_StAyOeg
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末尾ルコ(アルベール)

「Maria Joãn Pires/Chopin: Piano Concerto No.2 Allegro vivace」・・・聴かせていただきました。
わたしにはまだもちろんクラシック音楽の細かな差異というものは分かりませんが、今回のお記事のlequiche様の問い掛けについてはいくらか理解できる気がいたします。
つまり、「原曲」というものがあり、特にクラシックの場合はその作曲家の場合、ある時代までは作曲者の演奏をわたしたちは聴くことができません。譜面というものがあるわけですが、そこから作曲者の真意を演奏家がどれだけ引き出すことができるのか。あるいは作曲者の真意を超えて、作曲者以上の演奏をすることは可能なのか・・・とても興味深いですね。
クラシックについてわたしはその差異が理解できるレベルではないので何とも言えませんが、ロックやポップスで原曲よりも素晴らしいと感じるカヴァーは少なからずあり、しかしそれらは普通オリジナルの音源が存在する点、クラシックとは条件が大きく違うという気もいたしますし。
そしてどんな芸術でもそうですが、特に音楽は同じ聴き手であっても、その時々の心理的条件によって、同じ曲の印象が変わってきます。ある時期まで何とも感じてなかった曲が突然沁みてきたりとか・・・だからいかなる音楽に対してもできるだけ心を開いておくべきだとも言えるのでしょうが。

>速いパッセージは速く弾けばよいというものではない。

今回の動画も、お書きくださっているお言葉を噛み締めながら視聴しました。わたしには「明瞭な美しさを感じる」くらいしか書けませんが、いつも素晴らしい時間を与えてくださっております。

>音楽に関しては私はシロートなので

ところがですね~、lequiche様のお書きになるクラシックのお話、とても風通しがよくて、愉しく拝読させていただいております。クラシックのお話でありながら、ロックなパンクなスピリットをも感じるとでも言いましょうか、それは他のクラシックに関する批評などを読んでも感じないところなのですね。
そして常に中心に「人間の心」が存在すると感じるのです。一般のクラシックや美術に関する文章の中には、(人間の心はどこにあるの?)と感じるものは少なくないのです。

パルミジャニーノに関するお記事も拝読させていただきました。
わたし、澁澤龍彦の著作はほとんど読んでいると思うのですが、パルミジャニーノについての言及は覚えてませんでした。
それにしても山尾悠子も澁澤によって人生が変わったとされておりますが、その影響力たるや凄まじいですね。そして近年のいろんな作家と比べても、まず人間的な品格の高さを感じるのですよね。

カーのタイトル、カッコいいですよね。
そして、コナン・ドイルやモーリス・ルブランのタイトルも一度見たら忘れられないものが多かったです。
ドイルは、『緋色の研究』『ボヘミアの醜聞』『バスカヴィル家の犬』『赤毛組合』『まだらの紐』など。ルブランは、『奇岩城』『八点鐘』『813』など、短い言葉でイマジネーションを刺激してくれました。
子どもの頃にカッコいい言葉に多く触れるのは大切ですよね。逆に、「チョベリバ」とか「チャリンコ」などといったボキャブラリーしか周囲にない場合、その精神的成長は大きく阻害されそうです。
ミステリランキングなどで見て読んだ中でおもしろかったのは、チャンドラーなどその後レギュラーで愛読し始めた作家は別とすると、
ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』、ギャビン・ライアル『深夜プラス1』、コリン・デクスター『キドリントンから消えた娘』、ウィリアム・L・デアンドリア『ホッグ連続殺人』などがあります。
まあしかし、ランキング入りしている作品にはお馴染みの巨匠のものも多く、アラン・ポオやチェスタトンなどはいつ読んでもおもしろいですし、そうした作家以外の「数作だけおもしろい作品を書いた」的な人の発見には役立ちました。
Lequiche様のお書きになる山尾悠子のレヴューは、読めば読むほど興味が深まります。
なにせわたしにとっては未知の作家、これは本当に近々読まねばと決意を新たにしております。極めて多様な要素が盛り込まれながらも、「どんどん読んでいかないと」というのが凄いですね。それでふとガルシア・マルケスなんかを連想するのですが、マルケスの小説も取り敢えず進めないと進まないというのが、わたしにとってはあります。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-08-13 08:53) 

英ちゃん

ぁっ、今度のオフ会は10月に親睦会をやる予定です。
場所は、高円寺のヤミーにしようかなーと思ってます。
by 英ちゃん (2018-08-13 17:04) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

楽譜がどの程度まで作曲家の指示を伝えているのか、
すごく細かく書いている人もいるし、大雑把なのもあります。
バッハには楽器の指定が無い楽譜も存在します。
それをどのように解釈し、どのように演奏するのかは
演奏家にもよりますし、時代によっても変化します。
楽譜に忠実にという言い方は言葉の綾に過ぎず、
なにをもって忠実とするのかも、そのときどきで変わります。

ポピュラーミュージックの場合は、
楽譜はひとつの 「覚え」 であることが大半であり、
それをどのように演奏するのかは、
かなりの部分が演奏者に委ねられます。
つまり演奏者は即興的な編曲者でもあるわけです。

ピリスのフィンガリングは決して流麗ではなく、
ときとして無骨に見えることさえあります。
ただ、ここぞという音を確実に出すことを
重点的に考えているように思えます。
それは年齢を重ねるにつれ多くのものを削ぎ落として
シンプルでナチュラル志向に生活をシフトさせたような
ピリスの方向性を反映しているように見えます。

私の音楽に対する文章は批評でも評論でもなく
単なる感想文です。
ただ私はあまり権威というものを信じていません。
高名な評論家だから、有名大学の教授だから信用できる
というふうには考えません。地位と感性は別のものです。
何も失うものはないので 「怖いものなし」 で書いてしまいます。
信用できるのは自分の耳だけです。
他人がどのように言っていても、参考にはしますが、
それによって自分の意見を曲げてしまうことはないです。
良いものは良いですし、ダメなものはダメです。
でもダメなものに関してはなるべく書かないようにしています。

澁澤龍彦には桃源社版の選集、白水社版選集、
そして河出書房版全集がありますが、
一番最初の桃源社版を数冊だけ持っています。
全巻欲しいのですがなかなか程度の良いのがありません。
その中にパルミジャニーノの自画像が掲載されていて、
それがずっと印象的でした。
渋澤は 「見つけてくる視力」 がすごいんだと思います。

随分たくさんのミステリをお読みですね。
タイトルで読者を引き付けるという手法もあるのでしょうか。
また、映画タイトルでもそうですけれど、
昔は邦題の付け方が凝っていて、必ずしも直訳でないですが
そのほうがしっくりくるというのもあります。
ルブランの奇岩城というのも名訳です。
今月号のレコード・コレクターズで
ビートルズの〈抱きしめたい〉というタイトルは
我ながら傑作だと高嶋弘之氏が言っていますが、
そういう邦題のセンスは今、無くなりました。
もっとも洋楽は
もう日本ではほとんど聴かれていないのかもしれませんが。

山尾悠子の最初に『飛ぶ孔雀』を読むのは
少しきびしいのではないかと思います。
最初は文庫になっている作品あたりからが
無難なのではないかと。(^^)
ガルシア・マルケスやボルヘスなど、
ラテンアメリカ系の作家には共通した熱気がありますが、
そういうのとはやや異なった傾向です。
by lequiche (2018-08-14 05:02) 

lequiche

>> 英ちゃん様

親睦会ですか。
高円寺のほうが参加しやすいというかたは
多いかもしれませんね。(^^)
by lequiche (2018-08-14 05:02)