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アンドリュー・ヒル《Point of Departure》 [音楽]

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ブルーノートは一時期のスタンダードなジャズ・シーンを形成し牽引していたレーベルである。繰り返しリリースされている有名アルバムが多いので、聴いているような気がしているのだが、実は意外に知らなかったり、聴いていても忘れていたりする。私はマニアックなジャズ・ファンではないし、それにたとえば映画にしても超有名作品をほとんど観たことがなかったりするのだがそれと同じで、「そんなのも知らないの?」 状態だから、それを補完するためにときどき、こっそりと廉価盤を買う。と書いてしまったら、こっそりではなくなってしまうのだけれど。某有名CDショップでは抱き合わせ販売があって 「何枚買ったら何%引き」 というセールのとき、枚数合わせに廉価盤を利用するという甚だ不純な買い方なのだ。

と言い訳をだらだら書いてしまったが、今回のブルーノート盤は次のようである。

 Sonny Clark/Cool Struttin’ (rec. 1958.01.05)
 Herbie Hancock/Maiden Voyage (rec. 1965.03.17)
 Anthony Williams/Spring (rec. 1965.08.12)
 McCoy Tyner/The Real McCoy (rec. 1967.04.21)
 Andrew Hill/Point of Departure (rec. 1964.03.21)

実はこの5枚とも、The Rudy Van Gelder Edition と表記されているのがミソである。
ソニー・クラークの《Cool Struttin’》はあまりにも有名で、買ったことがあるような気がするのだが、見当たらないので買ってみた。そのメロディだけでなくジャケットの写真でも有名で、というよりジャケット写真のほうが有名なのではないかと思う。そして日本だけでヒットしたアルバムでもある。このジャケットの写真をパクッた油井正一のアナログレコードがあったような記憶があるが、それも所在不明だ。
でもこのアルバムをあらためて聴いてみても、新たな感動みたいなものをほとんど感じないのは、ジャズのイディオムとしてあまりに消費され過ぎてしまったためなのだろう。ポール・チェンバースのアルコも、いかにもこの時代のムードを現していて、懐かしいと思うか鼻につくと思うのか微妙なところだ。この1年後の1959年がマイルスの《Kind of Blue》(rec. 1959.03.02&04.22) であるということと考え併せると、すでに楽想としてはノスタルジックな色合いが濃いのである。

ソニー・クラークはピアノの鍵盤のイラストをコラージュした1957年の《sonny clark》(一般的にはソニー・クラーク・トリオと呼ばれているアルバム) が一番良いと私は思っていて、冒頭曲〈Be-bop〉のつんのめった弾き方が、単に指が動き切らなかっただけなのかもしれないのだけれど、彼の特徴のように感じるし、リマスターであるよりもオルタネイト・テイクのあることが気になってしまう。
アナログレコードも国内盤では過去に東芝EMI盤 (当時) で発売されていたことがあるが、それより少し前のキングレコード盤の方が音が良かったと記憶している。残念ながらオリジナルのブルーノート盤はもちろん聴いたことがない。

ハービー・ハンコックの《Maiden Voyage》も有名盤であるが、トランペットがフレディ・ハバードに代わっただけのマイルス・クインテット (正確にいえば1964年《For & More》までのクインテット・メンバー) であるのにもかかわらず、音がハービー・ハンコックであるのが秀逸である (あたりまえだけれど)。記憶のなかにあった印象よりもずっと柔軟で、そんなに古くもなく聴きやすい。
それに対してトニー・ウィリアムスの《Spring》はドラマーがリーダーであるということの気負いで、アヴァンギャルドとはいわないけれど先鋭的なテイストがあり、新しい音をという意欲に満ちているのだが、結果としてその意欲に見える分だけ古くなってしまっているような気がする。とはいってもそれは無い物ねだりであり、彼のドラミングの斬新さは色褪せない。

マッコイ・タイナーの《The Real McCoy》は友人から借りたアナログレコードを何度も聴いた思い出がある。この5枚のCDのなかでは最も新しい録音日である。ところが実際に聴いてみると記憶というものがいかに曖昧でいい加減なものであるのかがわかって驚いてしまう。まずtr1の〈Passion Dance〉のノロさにびっくりする。もっとずっと速い曲だったと思っていたのに、私の中で刻まれていた速度感覚よりかなり遅いのだ。アルバムを通して聴いてみても、どの曲も私の中で反芻していたはずの速度より遅くて、そんなに鋭角的でなくマイルドなテイストだ。パッション・ダンスという言葉から来るイメージとはほど遠い。そして右手はすばらしく速いのだが、左手の和音が単純で物足りなさを感じてしまうのだ。
それはきっと経験値が上がったのではなく、引いた場所から聴いているからなのだ。アップ・トゥ・デイトな音楽とアーカイヴからひっぱり出された音楽とではそのフレッシュさが違う。時を経て熟成する音楽もあるが、そうでない音楽もあるのだということは、酒の熟成に似た現象として存在する。

アンドリュー・ヒルの《Point of Departure》は、この5枚の中では唯一スリリングでありヴィヴィッドである。ジャケット・デザインの記憶はあるが内容の記憶がないので、初めて聴いたように思う、
ケニー・ドーハム、エリック・ドルフィー、ジョー・ヘンダーソン、という3管編成で、その特徴が生かされた内容となっている。しかもオルタネイトが3曲もあり、しかも単なるオマケではないテイクになっている。

tr1の急速調な〈Refuge〉からして気合いが入っていて、というか力が入り過ぎかもしれない。tr2の〈New Monastery〉はミディアムだが、いかにもドルフィーのために書かれたようなエキセントリックなテーマ。だがドルフィーだけが浮き上がるようなこともなく、ジョー・ヘンダーソンのテナーがとても快調だ。その後、ベース (リチャード・デイヴィス)、ドラムス (トニー・ウィリアムス) とソロが渡り、テーマに戻ってからベースとピアノだけになって終わるのだが、あまり終わりを考えていないような唐突さがかえって新鮮だ。
tr3の〈Spectrum〉はタイトル通りにそれぞれの演奏が分光して拡散してゆくように聞こえる。ヒルのピアノはやや奇妙なラインを辿り、ドラムスが入った後まるで異なった雰囲気のテーマ。すぐにドルフィーのバスクラに引き継がれる。バスクラは悪魔の響きであり、すべてを支配してしまうが、こうした奏法を編み出したのがドルフィーである。《Bitches Brew》でベニー・モウピンが吹き始めた途端、世界がダークでブードゥーな表情に変わるように、あまりに刺激の強過ぎる音色なのかもしれない。

しかし最も惹きつけられるのはtr5の〈Dedication〉である。スローで悲哀を感じるバラード。トランペットによるテーマとそれに絡むピアノのオブリガート。さらに蛇のように見え隠れして巻き付くバスクラ。ソロになっても単純に受け渡していくのでなく、常にソロの背後に音が絡まり、光の加減で見え方のかわるテクスチャー。
出だしの濃密なテーマに絡まるドルフィーの音が蛇のような光彩を放つ。tr5がマスターテイクとして採用されたのは最初のドルフィーの鋭く切り込む音形が影響しているように思える。そしてそれはそのまま最初のソロで展開されてゆく。だがtr8も捨てがたい。
アンドリュー・ヒルの作品の中では、このアルバムはやや特異な作品なのかもしれない。しかし、曲も全て自分で書き、3管をこのようにコントロールしていることに、ジャズという音楽の再帰しない奇跡を感じる。

Dorham&Dolphy_181204.jpg
Kenny Dorham (R), Eric Dolphy (L)
during Andrew Hill’s Point of Departure session, March 21,1964

Andrew Hill/Point of Departure (Blue Note)

Point of Departure




Andrew Hill/Dedication
https://www.youtube.com/watch?v=gPju93N9ZkI
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末尾ルコ(アルベール)

音楽にしても、文学、映画などなど、「いつ何を鑑賞するか」は本当に重要です。
一人の人間が与えられている時間には限りがありますし、しかも結果的に「どれだけ与えられているか」も分かりません。
その中で、「いつ何を鑑賞するか」・・・その意味では功罪あるでしょうが、ネット世界の普及はかつてとは比較にならないほど無数の表現にアクセスできる状況を出現させています。
YouTubeだけでも興味の範囲を広げれば、いくらでもおもしろそうな動画が出てきます。
欲望に任せて(笑)見ていてはキリがありません。
子どもの頃は親に貰う小遣いの範囲で、そして友人知人との貸し借りなどで「鑑賞」機会を捻出していましたが、今はある本当に鑑賞機会の取捨選択が重要なのだと、自分に言い聞かせる昨今でございます。
ついつい「なるべく多く鑑賞」と欲をかいて、一つ一つの鑑賞が大雑把になる傾向がわたしにはあるのですよね。

今回お書きになっている5人、Sonny Clark、Herbie Hancock、McCoy Tyner、Anthony Williams、 Andrew Hillの中で、アンソニー・ウイリアムズとアンドリュー・ヒルについてはほとんど知りません。
思い出せばハービー・ハンコックは、高校の自分から周囲のフュージョンファンなどもよく口にしておりました。
で、マイルス・デイヴィスだけはロックファンも大好きで、案外フュージョンファンはマイルスを話題にしてなかった・・・などということも思い出しました。
わたしの周囲だけの傾向だったのかもしれませんが。

Andrew Hill/Dedication、聴かせていただきました。
とてもいいですね。アンドリュー・ヒル、今後いろいろ挑戦してみたいと思います。
それにしてもこの曲についてお書きになっているlequiche様の文章が素晴らしくて、もうウットリです。
曲を聴き、(どのように感想を書こうか)と思いつつ拝読し、lequiche様の文章を拝読すると、わたしには「この通りです!」と宣言するしかございません(笑)。
前にも書かせていただいたかと思いますが、音楽を言葉で表現するのはとても難しく、だからこそおもしろいというところもありますが、例えば音楽批評を専門にしている人の文章でも、続けて読んでいるとよく(無理して書いてるな)と感じるところもあって、飽きてきたりするんです。
そうしたことを考えても、lequiche様のお記事は一つ一つに細かな感覚が行き届いており、いつも新鮮です。

>その奇妙さのなかにかえって夢を感じるのです。

う~ん、なるほどです。
車のお話から飛びますが、昔の乗り物としては、飛行船なんかの映像や写真を見ると、時にゾクゾクする感覚を持ちます。
あれに人間が乗って空に浮かんでいたなんて、それこそ白昼夢のようです。

スティーヴ・マックイーンは素晴らしいですよね。子どもの頃から知っておりましたが、大人になってからの方が彼の魅力がずっと理解できるようになって気がします。
「ル・マン」という言葉も、スティーヴ・マックイーンから知りました。
マックイーンの醸し出す人間的磁力の強烈さには惚れ惚れします。RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2018-12-04 09:23) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

アンソニー・ウィリアムスとトニー・ウィリアムスは同じ人で、
ジャケットによって表記が違っていたりしますが、
マイルス黄金期のクインテットのドラマーです。
メインストリームなジャズもアヴァンギャルドなジャズも、
フュージョンもこなす人でしたが51歳で亡くなりました。
最もすぐれた演奏はマイルス・クインテット在籍時だと思います。

確かにネットの利用によって選択肢は拡がりますが、
でも必ずしもそこに全てが存在しているかどうかは不明です。
データは偏っていますし、あるべきものが無いこともあります。
たとえば上記のトニー・ウィリアムスにしても、
日本語wikiにはアンソニー・ウィリアムスという項目が無く、
トニー・ウィリアムスの項にもアンソニーの説明がありません。
英語wikiには Anthony tillmon “Tony” Willams と書かれていて
トニーが愛称 (Anthony → Tony) であることがわかりますが、
日本語wikiは不親切です。
でもネットのクォリティとは所詮そんなものです。

アンドリュー・ヒルは日本語wikiには項目さえありませんので、
それほど知られている人とは言えないということになります。
あまり挑戦しないほうが良いと思います。(^^)
実はヒルという名前は、
前記事のグレアム・ヒル → アンドリュー・ヒルという
ヒルつながりなのですが、これは単なるシャレです。

アンドリュー・ヒルは比較的不遇の人で、
またエリック・ドルフィーも同様に不遇の人であり、
このアルバムではその2人の波長がとても合っているようです。
「俺が俺が」 と出て行かないところも似ていますね。
ジャズというのはアドリブであり瞬間芸術なので、
相手がこう来たときどう出るかというのが非常に重要です。
相手に応じて対応を変えるべきなのに、
誰が来ても我が道を行くという横着な人もいます。
横着というかフレキシビリティが無いのかもしれません。
それは音楽だけでなく実際の生活でも同じで、
私は唯我独尊の人が嫌いなので、
音楽においても 「俺が俺が」 の人は嫌いです。

また音楽というのは突然出現するようなことはなく、
必ず何かの影響を受けているものです。
突然出現する天才というのはどのジャンルにもいません。
私はそれが時間の中で、つまり音楽の歴史の中で
どのような位置にいるのかがいつも気になります。
そして感想を書くことはそれについて書いているようにみえて
実は自分自身について書いているのだと思います。
ですから、とても好きな演奏者がいたとして、
好きな人のものなら何でも素晴らしい!
と入れ込んでしまうエピゴーネンな人がいますが、
それをやり過ぎるのは自分という 「個」 を失うことであり、
悲しいことなのではないかと感じてしまいます。
そういう意味では私はどのような表現者に対しても
マニアでもファンでもないのかもしれません。

飛行船、いいですね。
昔の船や自動車には皆、夢がありましたが、
それはノスタルジアでスチームパンクなのかもしれなくて、
でもそのほうが昨今の 「怖い顔の車」 よりずっと良いです。
「怖い顔の車」 に乗っているから性格が怖くなってしまったのか、
怖い性格だから 「怖い顔の車」 に乗るのか、
ともかく現代は自分さえ良ければ良いという時代です。

カーレースというのは必ずしもそれだけで成立するものではなく、
いろいろな複合的な関係性で成立しています。
ただ、今後は環境的な問題からだんだんと衰退するでしょう。
衰退するかもしれない故に面白いですね。
スティーヴ・マックイーンの頃には今のようなことになるとは
全く考えていなかったでしょうから、
それこそ夢の時代だったのだと思います。
by lequiche (2018-12-09 10:02) 

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