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錦見映理子『リトルガールズ』を読む [本]

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『リトルガールズ』に出てくる大崎先生のインパクトは絶大である。大崎先生は中学校の家庭科の非常勤講師で55歳。ある日、それは授業参観日なのだが、突然、ピンクのひらひらしたディオールのワンピースを着て教壇に立つ。
小太りで、地味な服しか着ていなかった彼女の変身に皆、騒然とする。あだ名をつけられ陰口を言われる。でも彼女は屈しない。いままで着たいと思っていた服を着ていなかっただけに過ぎないのだから。何を着たって勝手、何を言われても構わない、と思うのだ。
本の紹介記事で篠原かをりはこう書く。

 服とブスを巡る問題は、根深い。ブスでないと許されない着こなしなん
 て聞かないが、美人でないと着てはならないとされるものは多い。ピン
 クだったりフリルやレースが使われていたりする可愛いものや、派手だ
 ったり、露出が多いものも。逆にブスに許されているのは、黒や茶の目
 立たない服である。極力自然物に擬態していろとでもいうのだろうか。
 本当は法律の範囲内で 「着ている」 という事実があれば、それで十分な
 はずなのに、勝手にルールを定めてそこから外れた人間は糾弾しても良
 いとされている。

そう書くのは篠原自身が選んで着た服を非難されたという経験からなのである。そして篠原はこうしたメソッドを 「現代の冠位十二階」 だと指摘するが、ほどほどにとか、失礼のないようにとか、意味もなくTPOがどうとか、他人の着るものに対して似合うとか似合わないとか主観的判断でインネンをつけ、ヒエラルキーを作り上げ、それに合致しない者を排除しようとする行為、これは昔からずっと続いている陰険な差別意識に他ならない。

ところがその大崎先生に美を見出す人が出現する。それは産休になった教師のかわりにやって来た猿渡という美術の教師で、一瞬にして大崎先生に美を感じ、自分の描く絵のモデルになって欲しいと繰り返し迫るのだ。
その依頼を最初はふざけているのだろう、からかっているのだろうと斥けていた大崎先生だったが、猿渡の真剣さにだんだんと頑なさが崩れてゆく。

だがこの小説の主人公は中学一年生の沢口桃香である。桃香は杏梨と仲がよいが、やや近寄りがたい雰囲気のある浅羽小夜が気になっている。瀬波勇輝は桃香のマンションのむかいの警察官舎に住んでいて、桃香と幼なじみである。
勇輝は桃香の誕生日プレゼントを何にしようかと思って、小夜に相談する。そして手芸の得意な小夜に教えてもらいながらポーチを作るうちに手芸にハマッてしまう。
一方、絵を描くことが好きな桃香は小夜に頼んでモデルになってもらうが、小夜が桃香に対して好意以上の恋愛感情を抱いていることを知る。

桃香の母親である夕実はアパレルのセレクトショップを経営していて、不動産業をしている夫 (つまり桃香の父親) の行人とは理想的な夫婦のように見える。だが夕実には恋人がいて、桃香の父親は行人ではなく、その恋人である早瀬らしい。そして夕実の店の上客のひとりが大崎先生なのである。

やがて大崎先生は猿渡の依頼に根負けして彼の絵のモデルになるが、猿渡は学校の美術準備室にも自作のヌードの絵をたくさん陳列していて、そのうちに私はヌードにされるのではないかと危惧する。ところが猿渡にはルイ子という恋人がいて、彼女は彫刻をやっているのだが、猿渡が妙な絵を描くようになったことから彼の動向を詮索し、そのモデルが大崎先生であることをつきとめる。ルイ子は猿渡と大崎先生の関係に嫉妬するが、彼女も大崎先生の美に目覚めてモデルの取り合いとなる。

というようなストーリーなのだが、簡単にいうと3つの三角関係のようなものが成り立つ。大崎先生・猿渡・ルイ子と桃香・勇輝・小夜、そして優美・行人・早瀬の3組である。これらの関係性はちょっと見ると複雑そうなのだが、それを簡単に読者に理解できるように読ませてしまう作者の筆力が冴えている。
大崎先生は冒頭にすごいインパクトで登場して、その後、ストーリーのなかに溶け込んでしまうように見えながら最後にやはり強い印象を残してくる。生徒から 「ピンクばばあ」 とか 「エロばばあ」 と言われながら決してそうではないのだ。
小夜が桃香のことを同性愛のように思っているのとか、その2人の間に立つ勇輝が、結局サッカー部を辞めて手芸部員になってしまうあたりは、ちょっとした少女マンガ的テイストな感じがする。
芸能関係を目指している杏梨は演劇部に属していて、文化祭でチェーホフを演じるのだが、その後、それぞれの未来への道はどんどん分化して変質してゆく。つまり桃香、小夜、杏梨は三人姉妹なのだ。

だがそれぞれに皆、力強いしたくましい。大崎先生も猿渡も、暗い印象を持たれてしまう小夜も、そしてそうした人々に翻弄される主人公の桃香も、悩んだり迷ったりしながらも芯がある。小説全体はライトな感じで簡単に読めるのだけれど、芸術とはなにかという隠された問いの意味は意外に深い。


錦見映理子/リトルガールズ (筑摩書房)
リトルガールズ (単行本)

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末尾ルコ(アルベール)

錦見映理子という作家さんは太宰治賞を獲得したのですね。
彼女のツイッターを見ると、プロフィールに「欅坂46の平手友梨奈さんが好きです。」とあります。
プロフィールに書くくらいなのだから、余程お好きなのでしょうね。
そして短歌もやっておられる方ということで、作品もおもしろそうです。
この方、太宰治賞を受賞し、『リトルガールズ』が出版されて間もないと思うのですが、書評などで(おもしろそう)とお感じになって購入されたのでしょうか。
いわば新人作家さんですよね。あるいは書店でお手に取り、1ページ目をお読みになって、(おもしろい!)と思われたとか。
わたしの場合は、古本屋で(笑)フランス人作家の本があれば、全然知らない人のでもたいがい買うようにしております。
特に現代フランス作家は出版自体が少ないですから、翻訳出版されているだけでも興味が湧きます。
そうして名も知らなかった作家の本を買って、成功したことも多いです。
もちろんわざわざ翻訳出版しているものですから、一定以上のクオリティである確率は高いのでしょうが。
新本でじゃんじゃん買いたいところですが、お金が・・・(とほほ)。

>黒や茶の目立たない服である。
こうした傾向もあるのでしょうが、逆に奇麗な女性(←この判断基準も様々な問題がありますが、便宜上こう書いております)が黒とか茶をシックに着こなしている姿もよく見かけます。
「ヒエラルキー」の問題もわたしのこのところの大きな興味でして、同時代の社会的ヒエラルキーも存在すれば、個人個人が持つ、その成長環境の影響などによって創り上げられた多種多様なヒエラルキー意識も存在します。
そうした中でいかなる価値観を持って生きるか・・・わたし自身も心の中にある種のヒエラルキー感が無いわけではありませんので、これはとても難しい問題ですね。

>でも両方に才能があってそれぞれこなせるというのは

これはその通りで、原田知世はその稀な一人なのでしょうね。
才能と、モチベーションと、継続する努力・・・どのような分野でもこの3通りが揃ってないと長きに渡っていいものを創り出すことはできませんね。
薬師丸ひろ子の歌がとてもいいと書きましたが、あれは「女優 薬師丸ひろ子」としての表現力であって、原田知世は女優と音楽がそれぞれ独立して成立しているように感じます。
何よりもステージでの立ち姿が美しく、しかもシンプルな衣装で十分見栄えがするのが素晴らしいですね。
滅多にいないと思います。

それで・・・渡辺典子については忘れてください(笑)。
ま、わたし時折自虐ネタとして話題にするのですが。
まがりにもかつて「角川三人娘」だった人を「自虐ネタ」と言うのは失礼極まりないですけれど、そこは芸能人の宿命かもしれません(笑)。

>変なタレント性とか売れ線を狙わなかった

この点も原田知世の素晴らしさですね。
確かに真摯に音楽に対して向き合っている感があります。
こうした姿勢の人が結局は残っていく・・・そんな状況が望ましいですね。
どう見ても「カッコつけ」のために音楽をやっているように見える人も多いですから。
それと、「音楽そのもの」を無視して、売れた人たちのスタッフの仕掛けやセールス記録などの話題に終始する記事もダメですね。
売れる・売れないの前に、音楽そのものについて語れ!・・・といつもシャウトしたくなります。
まあこれは音楽だけのお話ではないですが。

>そのあきらめないという精神が大切です。

まったくおっしゃる通りです。
「ちやほやされたい」という承認欲は多くの人が持っていますが、物差しがそれだけになってる人が多いんですよね。後、「金儲け」とか。   RUKO


by 末尾ルコ(アルベール) (2018-12-13 14:17) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

書評というか紹介文を読んで、
これは面白そうと思ったのがきっかけです。
でもそういうのは少し強い惹句で構成されていることが多く、
読んでみたら、やや異なった印象を受けました。
太宰治賞の授賞式ではピンクでなく赤のドレスでしたが、
ここはがんばってピンクを着ればよかったのに、
と勝手な妄想をしておりました。
もっとも作中の大崎先生とは違って
スタイルの良いかたですので
あまり面白いギャグにはならなかったでしょうけれど。
(ギャグを期待していたなんて失礼千万! ^^;)

本でもCDでもそうですが、ある程度の 「賭け」 は存在します。
賭けが外れた場合はブログには書きません。
それと本もCDも、私は原則自分で買ったものについて書きます。
「これから買う予定」 とか 「借りた」 というのはナシです。
それでは単なる宣伝文になってしまいますから。

たしかにフランス翻訳は少ないですし、
近年はさらに少なくなってしまったような気がします。
ですから余計に、とりあえず買えるものは買わないと、
と思っています。それでないとますます売れなくなって
本が出なくなって、という悪循環ですので。

もちろん暗色をシックに着こなすというのはセオリーですが、
逆の場合に、「そんな服、オマエが着るんじゃない!」
と言われるのはどうなのか、しかも妙に回りくどい言い方で、
ということを篠原かをりさんは主張していて、
それはとても納得できるのです。
そうしたレトリックはファッションに限らずよく存在していて、
たとえば何かに対して非難めいたことを言うと、
「よく知りもせずに」 的な返答をする人がいるわけです。
それは一種のマウンティング行為であって、
そうした言動の不快さの記憶は長く尾を引きます。
クラシック音楽のほうが演歌よりエライ、とか
純文学のほうがアダルト小説よりエライみたいなのも
一種のヒエラルキーの構築なのであって、
私はそうしたヒエラルキーを根底に持っている人を信じません。

ある集まりがあったときにスクエアな服装をしていったら
「そんなカッコつけた服を着て」 と言われたことがありました。
また同じような集まりでカジュアルな服装をしていったら
「そんなダラケた格好をして」 と言われました。
言った人は同じ人です。ひとことで言えばバカです。
非難めいたことを言いたいだけで何のポリシーもないのです。

原田知世はユニークなポジションを保持していると思うのですが、
でも、出されたアルバムの全部が全部優れているわけではないです。
つまり 「賭け」 に外れたものも当然あるので、
それについてはなるべく書かないようにしています。(^^)
また、プロパーの歌手と女優兼業の歌手とでは
さすがに違う部分は存在します。
ただ、たとえばテクニックのあるものが必ずしも良いか
というと、そうでもないところが芸術の不思議な点だと感じます。

音楽そのものでなく、その周辺について語ってしまう……
よくあります。アナログレコードのファーストプレスがどうの
とか、ゴールドディスク受賞とかいうのもそうです。
でも経済学最優先の状況のなかでは仕方がないのかもしれません。
経済学的な尺度でみれば、まず 「カネ」 なのですから。
「なんでも鑑定団」 のように金銭に換算すればわかりやすいのです。
by lequiche (2018-12-15 01:46) 

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