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ジョン・コルトレーン《The Lost Album》を聴く [音楽]

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John Coltrane, London 1961 (thewire.co.ukより)

《Both Directions at Once/The Lost Album》はジョン・コルトレーンがルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで1963年3月6日に録音した音源であるが、曲構成や時間などがほとんどアルバムにするように作られているのにもかかわらず、いままでまとまったアルバムとしてリリースされたことはなかった。

ジョン・コルトレーンはジャズという音楽の最盛期における、いわゆる 「ジャズの巨人」 である。だがその音楽は正統的なジャズから次第にアヴァンギャルドなフリー・ジャズへと移行し、熱狂的なファンもいたが否定的なリスナーがいたことも事実である。
彼は自分がメジャーになるにつれて、必ずしも自分の音楽をそのまま演奏できるわけではないことを知った。「私は商品なのだ」 とコルトレーンは洩らしていたという。レコード会社としての第一義はレコードが売れることである。インパルス・レコードは商品を売るために彼と他の有名なミュージシャンとのコラボレーションを企画した。それがデューク・エリントンでありジョニー・ハートマンであった。《Duke Ellington & John Coltrane》は1962年9月26日に録音され、翌1963年2月にリリース、そして《John Coltrane and Johnny Hartman》は1963年3月7日に録音され、7月末にリリースされた。つまり《The Lost Album》はハートマンとの録音の前日に同じスタジオで録音されたのである (タイトルにあらわれているように、エリントンとの場合はエリントンの名前が先であり、ハートマンとの場合はコルトレーンの名前が先であることからもその有名度の順位を知ることができる)。
しかしハートマンとのアルバムはリリースされたが、このロスト・アルバムは発売されなかった。そしてそのマスターテープはおそらく失われてしまったのである。CDのパンフレットやその他の記事を読んでいるとそのへんの事情がだんだんとわかってくる。

ではなぜこの録音が50年以上の時間を経て出て来たのだろうか。解説によればこうである。コルトレーンはセッションを録音した後で、それをレコードにするための元となるマスターテープとは別に、自分で聴くためのテープをインパルスから受け取っていた。それは7インチリールのテープで、ステレオではなくモノラルであったが、自分の演奏がどうであったかを反省を含めて聞き返したいという要望に沿ってインパルスが提供していたのである。その当時は、マスターテープにトラックダウンしたらそれで終わりで、このように別のテープをわざわざ作ることはコルトレーンに対しての特別な計らいであったはずである。
同種のテープはコルトレーンの元に何種類もあったはずだが、死後、それがどうなったのかはわからない。だがこのロスト・アルバムのテープをずっと保管していたのが彼の最初の妻であるナイーマ (Naima) であった。ナイーマはコルトレーンとの離婚後も彼が残したものを保管し、そしてナイーマの死後はその娘であるサイーダ (Syeeda) に引き継がれた。
ところがあるとき、サイーダはそのテープをオークションにかけようとした。だが、録音テープはレコード会社との契約関係でそんなに簡単に売るわけにいかず、それをどのようにするのか、現在の権利を保有しているヴァーヴ・レコードとの話し合いになった。しかし担当者の異動などによって進まず、10年の時を過ぎてやっと今回のリリースになったというのである。したがって音源はマスターテープではなく、サブで録音されていたモノラルである。だが保管状態が良かったことと、たぶん1/4インチのはずだが、モノラルだからフルトラックなので音質としては申し分ない。

その辺の事情をCDの解説で藤岡靖洋が書いているが、コルトレーンの後妻であるアリス・コルトレーンとの関係など、いろいろと込み入っていて、しかもナイーマにとって不利なことがずっと続いていたようなのである。藤岡の記述に従うのなら、アリス・コルトレーンは遺族としての権利を独り占めしていたような傾向があり、サイーダがテープを売ろうとしたのも生活に困窮していたからに他ならないのではないかと感じる。
真実がどのようなことだったのかはわからないがそれとは関係なく、また別にアリスを悪者にしようとする意図はないのだが、ひとつだけ言えるのは、コルトレーンの晩年になってから、つまりフリーフォームになってからの演奏において、アリスはコルトレーン・グループのピアノを担当していたが、その演奏で感動できる曲が私にはひとつもなかったことである (私はコルトレーンの演奏をそんなに数多く聴いているわけではないし、もちろん個々人の嗜好の差は当然あるだろうが)。
ナイーマ自身は楽器を演奏しなかったし、音楽にも明るくなかったが、コルトレーンへの愛情は終生変わらなかったのではないだろうか。コルトレーンはナイーマとの離婚後もナイーマへの曲であるバラード〈Naima〉をライヴで繰り返し演奏していた。

さて、《The Lost Album》をざっと聴いてみて言えることは、ずばり言ってしまえば、アルバムにするにはやや弱いような印象を受ける。それが結局、リリースされなかった理由なのだろう。jazzdisco.orgのセッショングラフィーによればセッション番号は枝番のあるものを含めて21あるが、おそらく同じもののダブリだと思える。つまり今回リリースされたのがその全部であり、ヴァン・ゲルダーの手帳によれば、それは3月6日の午後1時から6時の間ということになっているのだそうだ。
またたとえば〈untitled 11386〉はtake1と2、5だけでtake3と4が無いがこれは仕方のないことである。〈impressions〉は最終的に残すつもりであったと思われるCD1にはtake3が採用されているが、take1、2、4がalt takeとして残されている。クリアでよく構成されているソロであるが、その後にライヴなどで演奏されたようなアグレッシヴさはない。
このようにリリースされなかったマスターテープは後日破棄されるのが普通だったようで、プレスティッジなどのあまり裕福でないレコード会社の場合は、レコードとしてリリースされた音源であっても、マスターテープはその後廃棄されるか、あるいは上に重ねて録音され、その記録は永遠に失われてしまったのだという。それからするとサブのテープが現存していたというのは奇跡である。

ネットなどの評判を読んでみるとCD1のtr7〈Slow Blues〉の評価が高い。しかしこの曲は、コルトレーンがいろいろなアプローチを試みて吹いているような、いわばテスト曲のように聞こえるし、何度もトライして、また振り出しに戻ってやり直しているような印象を受ける。wired.jpでベン・ラトリフは 「この曲には物語がない。愛や苦悩、宗教的な喜びが直接的に表現されてはいないのだ。しかしコルトレーンは、自分自身を裏返している」 と書いている。
私は先日、カッヴァッリーニの〈Capriccios for Clarinet〉とかカルク=エラートのフルートのための〈Caprices〉といった曲を聴いていた。どちらも管楽器のための練習曲であり、技巧習得のために書かれた作品であるから物語は全くない。でもここまで吹けるのか、という管楽器の限界がわかって面白い。コルトレーンの場合、そうした練習曲と同等ではないが物語が無いということでは似ているし、アシュリー・カーンがCDの解説で引用しているラヴィ・コルトレーンの言葉 「これは、小手調べといった感じの試験的セッションじゃないかな」 に共感するのである (ラヴィ・コルトレーンはジョン・コルトレーンの次男でサックス・プレイヤー)。

だがとりあえずテープは回していたのだし、ヴァン・ゲルダー・スタジオを独占しているのだから、まるでテストだけのはずもない。やはりリリースを前提としていたのだろう。

YouTubeで〈Naima〉を検索していたら1965年のライヴを見つけた。1965年8月1日のベルギー、コンブラン=ラ=トゥール (Comblain-la-tour) での演奏である。1965年、コルトレーン・グループは7月2日にニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演した後、下旬からヨーロッパに渡る。7月26日と27日はアンティーブのJuan-les-pins Jazz Festivalに、そして28日にパリのSalle Pleyelに出演、そしてその後がこの日のベルギーである。
メンバーはマッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズ。マッコイのソロも美しい。終焉に近い時期の至高のクァルテットのバラードを聴くことで、ロスト・アルバムのテープを保存していたナイーマを偲びたい。


John Coltrane/Both Directions at Once - The Lost Album (impulse)
ザ・ロスト・アルバム (デラックス・エディション)(UHQ-CD仕様)




John Coltrane Quartet/Naima
live in Belgium 1965
https://www.youtube.com/watch?v=zGt4BCfc4KE

John Coltrane/Slow Blues
Both Directions at Once - The Lost Album
https://www.youtube.com/watch?v=EH3mb3oXCpw
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Boss365

こんにちは。
興味深く読ませて頂きました。
コルトレーンのアルバム「バラード」しか所有していない素人です。YouTubeでThe Lost AlbumのSlow Bluesを聞きました。演奏はインパクトに欠けますが、55年前の録音!!マスター以外で残っている事が素晴らしです!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2018-12-28 12:10) 

末尾ルコ(アルベール)

ジョン・コルトレーンはかなり聴いているのですが、コルトレーンの音楽史を把握しながらの聴き方ではないので、今回もとても興味深く拝読させていただきました。
「否定的なリスナー」というのは、わたしの身近ではフランス人の友人フェノン(仮名)ですが(笑)、彼の傾向として、現代美術などはいつもこき下ろします。
ジャクソン・ポロックくらいまでならいいようですが、その後、特に今現在の現代美術なんかは「無意味」とまで言い切りますね。
映画でも、初期のゴダールならいいのですが、80年代以降の作品については、「あれは映画じゃない」といつも言いますね。
わたしはけっこう好きですし、蓮實重彦などにとってもゴダールの最新作は常に絶賛の対象なのですが、フェノンにとっては(げんなり)の対象のようで、このあたりの感覚の違いもおもしろいところです。
コルトレーンがフリージャズに移行した時期の「否定」派というのは、やはりフリージャズのスタイルそのものを受け付けなかったのでしょうか。

John Coltrane Quartet/Naima  live in Belgium 1965、視聴させていただきました。
年の瀬にとても心地よいです。
配偶者によって、音楽家としてのコルトレーンが様々な段階で異なる運命を辿っているのも興味深い事実です。
「音楽(芸術)は純粋に音楽だけに向き合うべきだ」という考えもありますが、やはり背景を知ることで視界が大きく拓け、深まることの方が多いですね。


近田春夫についてもそうですが、特に10代のわたしはロックに関しては、(ブリティッシュ至上!)という固定観念に取りつかれており、日本のみならず、米国のシーンでさえやや軽視しておりまして、日本の歌謡曲などについて熱心に語る近田春夫を軽視していたのもその一環だったのだと思います。
まったく若気の至り。
しかも近田の「見た目」の軽薄さにある意味騙されていたわけですね。
そしてブリティッシュ偏向は明らかに『ロッキングオン』の影響が感じられます。
別に渋谷陽一に責任を負わせようとしているわけではございませんが(笑)。
本当に前提の部分での偏見は危険ですね。

そんな(笑)渋谷陽一は特に『リメイン・イン・ライト』のトーキング・ヘッズを批判しておりました。
単純に言えば、「黒人のミュージシャンを入れて、黒人のグルーヴを取り入れたのはずるい」と、大体そのような意味だったと思うのですが、今となってはよく意味が分からないです。
いずれにしてもわたし最近でもトーキング・ヘッズのライヴ動画を愉しんでますし、『リメイン・イン・ライト』も大好きです。
なにしろ当時の渋谷陽一は、当時の今野雄二の何から何まで気に入らなかった印象でした。
『アヴァロン』の時も、アルバム自体は評価していたと思うのですが、今野雄二のライナーノーツをボロカスに言ってましたね。
「ブライアン・フェリーはパロディとしてのダンディなのに、それを本気でダンディと思っているようなレベルでは・・・」とか、いろいろ書いてました。

>でも基本的に重要なのは 「ミーハーの心」 なのです。

ここを無視していてはいけませんね。
「呪術的」という意味とも繋がります。
ディオニュソス的ということですよね。
まあこういう言葉を使うと、「どこからがディオニュソス的だ、どこからがアポロン的だ」というお話にもなり、もちろん「ミーハー=ディオニュソス的の信奉者」ではないのですが(笑)、通底する部分はありますね。 RUKO


by 末尾ルコ(アルベール) (2018-12-28 14:08) 

lequiche

>> Boss365 様

コメントありがとうございます。
いえいえ、《バラード》お持ちなのはナイスです。
実は私、《バラード》持っていません。(^^; 爆)
有名アルバムをことごとく持っていないので、
たとえばマイルスの《カインド・オブ・ブルー》も
持っていません。
それってちょっとどーなの? と思うようになって、
最近は少しずつ廉価盤で出たとき買うようにしてます。

ナイーマさんはきっととても大切に保存していたんだと思います。
レコード会社の倉庫に置いてあってもダメになることがあるのに
テープの状態はとてもよかったとのことです。
by lequiche (2018-12-29 03:11) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

そう言っていただけるとうれしいですが、
そんな大それた内容ではありません。
ごくぼんやりとした感想です。
今年はこのコルトレーンと同時期の1963年録音で
エリック・ドルフィーの《Musical Prophet》が出ました。
すべてが未発表ではないですが、非常に重要な時期の録音で、
それについてはそのうち書くつもりです。

音楽に限らず先進的なもの、アヴァンギャルドな範疇のものを
否定する人は多いと思います。
それはいままでの知識では対応できないことへの不安と、
パターン認識ができないからです。
アヴァンギャルドなものは全てがデタラメなのではなく、
必ず一定のパターンがあります。
それをすぐに見つけられる人と、なかなか見つけられない人がいて、
見つけられない人にとっては欲求不満になるのでしょうね。
パターンが解析できて、でもこれ、つまんないです、
というのならそれはそれですごいんですけど、
そういう人、残念ながら滅多にいません。

コルトレーンはアリス・マクレオドと知り合って、
彼女はピアニストですから2人には共通の音楽の話題があって、
ナイーマと疎遠になり離婚したのですが、
ナイーマはコルトレーンが下積みの時代からの妻、
アリスはコルトレーンの死の直前に結婚した妻であり、
よく言われる遺産目当ての結婚みたいな印象さえあります。
解説を読んでいますとアリスには 「がめつい」 と形容できそうな
行状も数々あったようなのです。
これはいわゆる判官贔屓みたいなものですけれど、
それで余計にナイーマに肩入れしてしまうのです。
ナイーマはNaïmaと、トレマを付けて表記することもありますが、
この曲はコルトレーンの傑作のひとつだと思います。

ロッキングオンという雑誌は、あまりよく知りませんけれど、
あの雑誌の記事の書き方にも一種のパターンがあって、
それがすぐにわかってしまい鼻白むことがありました。
私はパターン認識にとても強いので。(笑)
最後まで読む前に犯人がわかってしまう推理小説みたいです。

トーキング・ヘッズも私はよく知らなくて、
流行が過ぎてからまとめて聴きましたが、
面白いとは思いましたけれどやはり 「ハヤリモノ」、
という感じはしました。
でも、ずるいというのは感覚的に的外れではないかと思います。
大坂なおみが日本人だなんてずるい! というのと同じです。

ロキシーは輸入盤でしか聴いていないので何ともいえません。
逆にそのライナーを読んでみたいです。(^^)
フェリーは見た目がダンディとかそういう評価を受けやすいですが、
本人はダンディとかダサいとか、
あまり考えていないような感じがします。
最も彼にとって重要なのは音楽そのものですよね。

ディオニュソス的でもいいんですが、
ミーハーは森高千里の 「私、ただのミーハー」 という表現が
一番正確なんじゃないかと思います。
なぜなら誰からの影響も受けていない立場だからです。
これは良いものだ、良いものだ、と言われて
あぁそうなのかもしれない、と暗示にかけられるよりは
誰にも頼らずに自分の感覚を信頼するのがミーハーの心です。(^^)
by lequiche (2018-12-29 03:20) 

英ちゃん

森高千里は、好きでした(゚□゚)
歌も好きですが、美脚が~動機は不純です(゚□゚)

今年は、お世話になりましてありがとうございました。
来年も、よろしくお願い致します。
良いお年をお迎え下さい。
by 英ちゃん (2018-12-29 12:15) 

lequiche

>> 英ちゃん様

こちらこそありがとうございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。(^^)
by lequiche (2018-12-30 14:52) 

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