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《For Bunita Marcus》について [音楽]

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Morton Feldman, 1963 (npr.orgより)

フェルドマンの《For Bunita Marcus》をマルカンドレ・アムランが弾いたディスク。そう来たか、とは思ったのだが、そもそも何が来たのかといわれると答えることができない。それでいろいろと理由をつけて引き伸ばしていた。聴き較べてみようと思うのだけれどリープナーのCDが手に入らないから、とかいうのももっともらしい言い訳のひとつで、つまりフェルドマンは、とくにこの時期の《For Bunita Marcus》や《Triadic Memories》は誰が弾いても同じようでもあり、全てが違うようにも聞こえる。フェルドマンの作品のなかでこの曲は人気曲であるからCDも多く、全部を聴こうとするのは無理になりつつある。
それでとりあえずメモのようにして書いてしまうのだが、これはブログ記事として成立する以前の、私の単なる覚え書きでありヒントに過ぎない。

フェルドマンの作品は作曲者の力が非常に強く作用していて、その呪縛から逃れることができないようにも聞こえる。演奏者が解釈して自分の曲とすることができない。作曲者の下僕としてこき使われるしかないようにも思える。

試みにネットを検索すると、たとえばtheguardian.comにアムラン盤発売当時のCDレヴューがあって、その最後は、

 As Hamelin shows, the empty spaces in Feldman’s piano writing
 are as important as the pitches themselves.

と締めくくられているのだが、the empty spacesという表現はさておき (これは休符の部分が単なる休みではないことをさしているのだと思う)、いまさらそんなこと言われても、という気がするし、そもそもフェルドマンに対しての評価は沈黙の美とか音価の重要性とか、どうしてもそういうステロタイプな表現に終始してしまって、でもそれはフェルドマンのほとんどの作品に共通して使えてしまう表現なのだと思う。

godrec.comというサイトの記事に、Lenio Liatsouというピアニストの弾いたアルバム《For Bunita Marcus》のライナーノーツ (Sebastian Claren) からの抜粋があって、ここにフェルドマンが自作について語ったと思われる引用がある。孫引きになってしまうのだが、

 I was very interested in this whole problem of meter and the bar
 line. I was so interested that I started to write a piece in which I
 took meter very seriously. I saw that nobody knew how to notate.
 Sometimes, Stravinsky! In my notation I'm close to Stravinsky;
 that is, meter and rhythm actually being simultaneous and also
 being more grid-oriented, a balance between rhythm and meter.

とある。
ここでポイントとなっているのはmeterとbar lineという言葉である。meterは長さの単位であるメートルだが、音楽では拍子をあらわす。英語でmeter、ドイツ語のTaktである。
bar lineは小節線 (小節を分けるために使われる縦線) だが、ストラヴィンスキー云々というのは、wikiの 「bar (music)」 の項を見ると、小節線はアクセント以上のものであるというようなことを言っているので、こうした発言を踏まえたものなのだと類推する。

 Igor Stravinsky said of bar lines:

 The bar line is much, much more than a mere accent, and I don't
 believe that it can be simulated by an accent, at least not in my
 music.

フェルドマンはmeterとrhythmは同じであるといいながら、リズムと拍子の間のバランスだとも言うのだが、グリッド指向 (grid-oriented) という意味がよくわからない。つまりmeterとrhythmは彼の思考のなかでは重なっている部分はあるけれど異なる概念なのであるのだと思う。

アムランの演奏はやはり緻密で安定していて、聴いていてとても心地よい。だがフェルドマンは淡々としているようで、これは繰り返し書いていることだが全然淡々とはしていない。それは可視部分に見えて来ないだけのことなのである。ひとつの音への固執がtr27で突然変わるが、それは変わる契機であり、tr28では異なる兄弟のようなパターンが生み出される。これは静かに見せている躍動であるのだが、逆にいうとこういうふうに鮮やかに印象づけてしまうのが (というように私には聞こえた) 果たしてフェルドマンの意図なのか、それとも読み違いなのかは不明である。訊ねようとしてもフェルドマンはすでにいないからだ。いないのだからベートーヴェンに対する解釈と同じように、どのように解釈することだってできるとも考えられるのでもあるが。
CDショップの解説などを読むと、アンビエントとかニューエイジ・ミュージック (という言葉がまだ存在することに驚くのだが) ファンにも是非、というような惹句があったりするが、全然わかっていない。でも同様に、どのように聴いても自由なのだといわれたら返す言葉もない。

アムランはCDのパンフレットで次のように書いている。

 Note from the performer: this album should be listened to at a
 much lower level than usual . . .

アムランがそう言っているのだから、あえて大音量で聴いてやろうとするリスナーがいたっていい、とも思うのである。


Marc-andré Hamelin/Feldman: For Bunita Marcus (hyperion)
Feldman: for Bunita Marcus




Marc-andré Hamelin/Feldman: For Bunita Marcus PV
https://www.youtube.com/watch?v=wSEe_-doOeM

Stephen Drury/Feldman: For Bunita Marcus (全曲)
https://www.youtube.com/watch?v=BCl-bet_QIo
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末尾ルコ(アルベール)

リンクしてくださっている曲、視聴させていただきました。

Morton Feldmanについては何も知りませんでしたが、いいですね~。
今回はPCで文章を書きつつ聴かさていただきましたが、この音楽で部屋を満たしてみたいという感覚もありました。
こういう作品を聴くと、(音楽とは何か)と、根源的な命題を思い出させてくれますし、それがまた心地いいですね。
そして、こうした音楽家の存在を知ると、勇気が出るんです。
有り余る才能を持っている表現者が、「金儲け」とは真逆の世界で敢えて作品を作り続けている。
そうした世界があることは、常に念頭に置いておきたいです。

>沈黙の美とか音価の重要性

Morton Feldmanの音楽を言語化するのは確かに難しいでしょうね。
でも、「沈黙の美」は苦しいですね(笑)。
このフレーズが当て嵌まるものは、世界中に無数存在する気がします(笑)。

>アンビエントとかニューエイジ・ミュージック

この辺りもまた可笑しいですね。
ニューエイジ・ミュージックって何を指しているのでしょうか。
と思って検索してみたら、「癒し系の音楽」というスゴイ(笑)言葉を含めて、スゴイ(笑)解説がいろいろ出てきました。

ま、それはさて置き、Morton Feldmanをご紹介くださり、わたしとしてもまた新鮮な音楽経験となりました。


ケイト・ブッシュについて加えさせていただきますと、『The Dreaming』がリリースされた時に渋谷陽一の番組で取り上げた時の内容をいまだはっきり覚えているのですが、その録音方法や作り込みには驚いていましたが、「昔インタヴューした時に、〈あなたには新しいものを感じる〉と言ったら、素直に喜んでいて、こんなディープな作品を作るような人だとは思わなかった」という内容の話をしておりました。
だいたい当時のロック誌などは、新しいムーヴメントを追うのに忙しく、『The Dreaming』のような作品は正面から取り上げられなかったですね。
この辺りは、偉大な画家の作品を同時代に理解できなかった美術批評などと同類のような気がします。
クイーンにしても、初期にまず日本で人気が出たという点はよく報道されていますが、実はその後の方が問題で、ロック誌、ロックファン界隈では、『世界に捧ぐ』あたりからはもう、「クイーンは終わったバンド」扱いが定着しておりました。
当時、「クイーンファンです」なんて表面したら、「ロックを分かってない」と見做される雰囲気がありました。
「批評」だの「専門家の意見」だのは、本当に警戒して読まねばなりませんね。
特に日本社会には批評文化はまったく定着しておりません。
だから、日本で『ボヘミアンラプソディー』大ヒット・・・けっこうだけれど、かなり複雑な気持ちなのです。

ケイト・ブッシュの初期PVは、かけられる予算の問題もあったのでしょうが、ちょっとホラーっぽいテイストもありますよね。
でも本人がキューブリック『シャイニング』がお好きなら、敢えて「怖い・不気味」要素を加えているのかもしれません。
しかしハマースミスのライブではPVのある種毒々しさも緩和されており、これ以上ないほどのデリケートで最上の仕上がりになっていると思います。
まさに、大傑作ライブ・・・。

>それをどのように取捨選択するのかによって

どんどん連想が生まれるのが嬉しくて、それらを文章にどんどん加えていき、(あ~、なんでこんなことを書いたんだ・・・)と収拾がつかなくなる状況は、わたしにはよくあります(笑)。
取捨選択・・・文章、そして人生の妙味ですよね。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-02-18 13:42) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

フェルドマンは私の現代音楽系の話題のなかでは
ブーレーズと並んで、最も触れる機会の多い作曲家だと思います。
聞こえてくる音とその元の楽譜のあまりの違いに
大変魅力を感じるのです。
日本のピアニストでは高橋アキが
フェルドマン弾きとして有名ですが、
最近だと井上郷子もフェルドマンを弾いていますし、
いかに重要な作曲家であるかがだんだん知られてきています。

沈黙というと 「音、沈黙と測りあえるほどに」 という
武満の言葉をどうしても連想してしまいますが、
武満の音は基本的にはカラフルであり、
沈黙というイメージからは遠いように私には思えます。
またアンビエントというとイーノを連想したりしますが
イーノとフェルドマンは全く違います。
もちろん武満やイーノがダメだと言っているのではなくて
単純に目指しているものが違うのだということです。
そして現在の私はフェルドマンのような音楽観に
よりシンパシィを感じるのです。

wikiにはニューエイジ・ミュージックという項目がありますが、
書いてあることが抽象的ですね。
ニューエイジ・ミュージックという言葉自体が
ニューミュージックによく似た曖昧模糊さだからとも言えますが。
リストに挙げられている人たちも何かちょっと違うような。
ジャン・ミシェル・ジャールなんてニューエイジではないと思います。
一番イメージ的に感じられるのはリストには入っていませんけれど
加古隆でしょうか。

その渋谷陽一の話は面白いですね。
リアルタイムで私は知らないので、その当時に
そのような評価がされていたというのは大変参考になります。
その時点での批評と後年になってからの批評では
全然違ったり、正反対の評価になったりするのはよくあることです。

クイーンにしてもその当時そのように否定されたのは
多分にビジュアルが、つまりゲイであることを表明した
フレディに対する見た目が、多分に影響しているのだと思います。
ビジュアルで評価する人は多くが保守的です。
オカマっぽいから、ゲイっぽいから、顔がキモいから、
というような評価はほとんどが主観的で偏見から生じたものです。

誰だったか失念しましたがアメリカの有名SF作家で、
朝、オフィスに来て、その頃の機械式タイプライターで
原稿を打ち始める。昔のタイプライターは間違えて打つと面倒ですが、
ほとんど間違えずに規則的にパチパチと原稿を打ち続ける。
夕方の5時になると今日の仕事はおしまい、と終わりにする。
そのようにして小説を書いてしまう作家なのだ、
という話を聞いたことがあります。
これはすごいです。プロットなどが全部頭の中に入っていて、
下書きしたり、頭をかきむしって呻吟したり、
ということが無いということなのです。
でもそれはそれ。人によって方法論は違いますから。
by lequiche (2019-02-19 03:41) 

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