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コペンハーゲン・リハーサル再び ― ビル・エヴァンス [音楽]

evans&zetterlund_190409.jpg
Bill Evans and Monica Zetterlund

ひとりごとから始めてしまおう。といってもブログなんて所詮ひとりごとなのかもしれないのだけれど。

ビル・エヴァンスというジャズ・ピアニストはジャズ・ピアニストとしては最も有名ななかのひとりで、だから多くのアルバムがリリースされているのにもかかわらず、まだよくわからないことが多い。もっともジャズとかロックというものは、クラシックなどに較べるとそうしたセッショングラフィ的な追究はどうしても疎かにされがちである。
そもそもの疑問は、ビル・エヴァンスの〈Oslo Rehearsal Tape〉という1966年の動画をYouTubeで観て、そのことを以前のブログ記事に書いたことが元なのだが、他のことに関連して、今回それを観ようとしたらOslo Rehearsal Tapeという動画は無くて、Copenhagen Rehearsal Tapeに変わっていたのだ。URLが同じなのにタイトルのオスロがコペンハーゲンになっているということに気付くまでにかなり時間を要したのである。

一体これは何なの? と思ったのだが、そもそも1966年のオスロ・コンサートというのがあって、これは《Oslo Concerts》というタイトルのDVDでShanachieというレーベルからリリースされている映像であるらしいということがわかってきた。これはYouTubeの動画に付いているデータなどから読み取って、逆算してメディアを探したのである。
そもそも〈Oslo Rehearsal Tape〉とは、そのときのドラマー、アレックス・リールがプライヴェートで撮影していたリハーサル風景なので、それはオスロ・コンサートのためのリハーサルだったのである。

それでjazzdiscoのディスコグラフィを参照すると、1966年10月24日にエヴァンス、エディ・ゴメス、そしてリールのトリオによる演奏がコペンハーゲンで行われている。そしてその次は、10月28日のノルウェイである。〈Oslo Rehearsal Tape〉のdateは1966年10月25日となっている。

 Bill rehearsing for a concert with Monica Zetterlund swedish
 singer, and Alex Riel danish drummer in Copenhagen,
 Denmark.
 1966 Oct. 25

したがってこのリハーサルは、28日のオスロ・コンサートのためのリハーサルなのだととればオスロ・リハーサルであるし、リハーサルをしていた場所がコペンハーゲンだとしたら、コペンハーゲン・リハーサルであるという推論が成り立つ。10月24日にコペンハーゲンでライヴをして、その翌日、同じコペンハーゲンでリハーサルをしてからオスロに行ったということなのではないかと考えられる。
上記の英文のなかにあるようにモニカ・ゼタールンドとのリハーサルという記述もあるのだが、ゼタールンドとの動画も散見するし、それも一緒に、あるいは日時を変えて行われたのだと考えてよい。そのなかに日付までは記述されていないが、Recorded in Copenhagen Oct. 1966と表記があるからだ。
もちろん、オスロに前乗りしてリハーサルをしたということも有り得るのだが、以前のYouTubeのタイトルがコペンハーゲンだったので、たぶんコペンハーゲンなのではないかと思うのである。

ゼタールンドがタバコをふかしてエヴァンスのピアノを聴いていて、最初は軽く歌いながらだんだんと没入して行き、そしてアップテンポになっていきいきと変わっていくところ。それでもあくまでフルで歌っていないのだが、そのいかにもリハーサルだという雰囲気が伝わってきて心地よい。
コンサート自体の動画もあるが、リハーサルと本番の差というのが如実にあらわれていて、ゼタールンドのハレとケみたいな違いもわかって面白い。

コペンハーゲン・リハーサルの前後をjazzdiscoのリストからデータを拝借して時系列的に並べるとこのようになる。

1966.10.24.
radio broadcast, “Tivolis Koncertsal”, Copenhagen, Denmark
* Tempo Di Jazz (It) CDTJ 708 Bill Evans - Tempo Di Jazz

1966.10.25.
Copenhagen Rehearsal Tape

1966.10.28
television broadcast, Norway
* Vap (J) VPVR 60740 Autumn Leaves, Bill Evans Trio Live '66

実はこの記事は〈Nardis〉という曲について書き始めたのだが、それはヘルシンキの1969年あるいは1970年とされるフィンランドの作曲家、イルッカ・クーシストの自宅で行われた演奏の動画に端を発しているので、それなのに結果としてどんどん横道にそれてしまっている。そもそも、こんなメモ書きを出してしまってよいものなのだろうか。
ただここで気がついたことは、1966年と1970年という4年間にエヴァンスのアプローチは随分と変化していて、そのきっかけとなったのは1969年のジェレミー・スタイグとのセッションであると類推するのだが、まだ整理がついていないのであらためて続きを書きたいと思う。そして1961年のスタジオ・レコーディングによる《Explorations》に収録された〈Nardis〉が1980年にはどのように変化していったのか、ということも含めて。


Bill Evans/Explorations (Fantasy)
Explorations




Monica Zetterlund & Bill Evans/Waltz for Debby (ユニバーサル ミュージック)
ワルツ・フォー・デビー+6 [SHM-CD]




Bill Evans/Nardis
from《Explorations》(1961)
https://www.youtube.com/watch?v=yStCqteGiQU

Bill Evans Copenhagen Rehearsal Tape
https://www.youtube.com/watch?v=2mn0hZtVE04&t=1310s

Monica Zetterlund with Bill Evans Trio/Waltz for Debby
Recorded in Copenhagen Oct. 1966
https://www.youtube.com/watch?v=BoSpkQz4jXo

Monica Zetterlund with Bill Evans Trio/
Once Upon a Summertime
LIve 1966
https://www.youtube.com/watch?v=O2bXWWNBvFI
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Boss365

こんにちは。
lequiche さんの推測・推理?興味深いです。小生には考えもつかないです。モニカ・ゼタールンドとの動画を何回か観た事ありますが、時代を感じさせる貴重だリハーサル動画ですね。酔っ払いの観客いれば、ジャズクラブでの一場面の雰囲気です。ビル・エヴァンスのアルバム「Waltz for Debby」ライブな自然な音?グラス音や話し声など好きです。横道に逸れましたが、小生もコンサートホールでの動画見ると全く違う「ハレとケ」感じます。JAZZの楽しさはない感じですが、これが出来るのもビル・エヴァンスの知的で温かいピアノが成せる技のような気がします?!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2019-04-09 13:18) 

末尾ルコ(アルベール)

まるで素敵なミステリ小説を拝読させていただいているようなご筆致ですね。
う~ん、ウンベルト・エーコ!
ミステリ小説のおもしろさはわたしたちが「ミステリアス」にワクワクするからなのですが、ならばそれは「ミステリ小説」というジャンルに限る必要はなく、逆に言えば良質な小説は「すべてミステリ小説」だと言うこともできそうです。
小説というもの、良質であればあるほど、人間の謎、世界の謎などへの深い探求に溢れておりますので。
といった意味では今回のお記事も、「小さなミステリ小説」とお呼びしてもお許し願えるのではないかと僭越ではございますが、感じている次第です。
何よりも、「URLが同じなのにタイトルのオスロがコペンハーゲンになっている」という部分から、ゾクッと来るのです。
シャーロック・ホームズが小さな新聞記事から大きな謎を発見した瞬間のような感覚です。
そしてその後の展開は、ビル・エヴァンスというあまりに著名なジャズピアニストのキャリアの中の深い部分が解き明かされていくような感覚。
とは言えいつものごとく、わたしはエヴァンスのキャリアと作品の大まかな部分しか知りませんが、それでもエヴァンスに対する興味はいや増しましたし、今後の鑑賞にも大いに役立てさせていただけると確信しております。

・・・

沢木耕太郎は一部の(か、「多くの」かは分かりませんが)読書家たちから、ちょいちょい「気取ってる」的な揶揄を受けることがありました。
最近の動向はよく知りませんが、かつて誰かエッセイスト(コラムニスト?)もそのようなことを書いていたと記憶します。
その時も何かの番組へ出演した際、「わたしがこのような番組へ出ることは滅多にないんですよと、(司会者にとっても、もちろん視聴者にとっても非常に貴重な時間なんだよ)というニュアンスをあからさまに漂わせていた)という内容で、わたしは同番組を観てないので明確なジャッジ(笑)はできませんが、割と自虐などとは真逆のタイプかなとは感じます。
もちろん作家として、取材者として超一流の一人であるという前提においてのお話ですが。

> 「キャラヴァンは進まなければならない」 と進言したのだそうです。

どうなのでしょう、このエピソードを拝読して感じるのは、かつてのフランスの作家たちは現在よりもずっと持っていたのだなという印象です。
昨今も、ル・クレジオやモディアノがノーベル賞を取っておりますし、ウエルベックらも大好きなのですが、ジッドやサルトル、カミュなどはもう世界的に「問答無用」というバリュー感がありましたね。
映画監督なんかも、ゴダール、トリュフォーらのような格の作家はなかなか現れません。


「YMO一派なら何でも絶賛」という方々(笑)についてですが、これは地方都市ならではの理由がありまして、つまり「盲目的東京礼賛」です。
当時YMOとテクノブームは、「東京の象徴」のようなものでした。
なにせ吉本隆明を読み始めて「偉くなったつもり」の高校生が、「東京へ行きさえすれば何とかなる」とか田舎者丸出しの発言を本気でしてましたから。
もちろんそいつはYMO礼賛で、前にも書かしていただいたかと思いますが、坂本龍一を「龍一」と呼んでましたから(笑)。
普通ファンでも「龍一」と呼ばないと思うのですが。

>どんなに崩そうがバッハが崩壊することはないのです。

へえ~、なるほどです(←と書きながら、よく分かってないのですが 笑い)。
あまりに素朴な質問で恐縮過ぎますけれど、バッハ以外にそうした作曲家はおりますでしょうか?

>大きな声を出さないと聞こえないほどうるさい酒場

わたしは現在酒場関係にはまったく足を運びませんが、ファミレスでもそうした惨状はよくありますよね。
何と言いますか、家庭教育、社会的雰囲気・・・そういうものを許してしまうメンタリティが根強いですね。
それと、「酒を飲んだら、無礼講」なんていうのも大嫌いなのです。   RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-04-09 16:49) 

lequiche

>> Boss365 様

いえいえ、コペンハーゲンに関してはたぶんそうだろうということで、
そんなに目新しいことではないと思います。
ただ、リストとかデータは意外にいい加減で間違いも多いですし、
同一内容なのに曲順がシャッフルされているライヴCDとか、
だまされてしまう要素は種々あります。

《Sunday at the Village Vanguard》と《Waltz for Debby》は
ヴィレッジ・ヴァンガードにおける伝説的ライヴですが、
グラスの触れ合う音など、ライヴハウスの雰囲気が伝わってきますね。
このヴィレッジ・ヴァンガードのライヴのコンプリート盤である
《The Complete Village Vanguard Recordings》は
マスターテープから起こした音をあまり加工していないためか、
上記2アルバムとは音質がやや異なります。
私は捨てテイクまで収録したこちらの音のほうが好きですが、
リスナーによって好みは分かれるようです。

モニカ・ゼタールンドを描いた
《Monica Z》(邦題:ストックホルムでワルツを)
https://www.youtube.com/watch?v=Ni5a6Q8D16I
という美しい映画もありましたね。
by lequiche (2019-04-11 05:10) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

これはごく単純な一例なのですが、
それよりももっと重要な問題はマイナーな録音というものは
ことごとくすぐに廃盤になってしまうことなのです。
また再発される毎に異なった (誤った) データで表記されていたり、
そうしたことはポピュラー音楽ではよくあります。
パーカーの音がなぜキーが狂っているか、という疑問から
音が是正されたアルバムというのもあったように記憶しています。
エヴァンスのような有名なミュージシャンの場合、
未知の録音は数知れずあるはずであり、
それらをすべて発掘することは不可能ですが、
違うヴァージョンを聴くことには一定の価値があると思います。

沢木耕太郎への揶揄ですか。
そういうのも一種の有名税で、当然あるでしょうね。
いろいろな意見があり多様な表現が存在する――
そのなかからどのように取捨選択するかが重要です。
全ての人から称賛を得るというのは不可能ですし、
そんなことがあったとしたらむしろ気持ち悪いです。

かつてのような大物がいなくなって全て小粒になってしまった、
という言い方はどのジャンルでも言われ続けています。
世界の歴史はすでに最盛期を過ぎてしまってるのだ、
という形容をされることもあります。
でもそうした慨嘆みたいなポーズは昔から継続して存在していて
プラトンの頃から 「最近の若い者は」 という言い方がされています。
崇敬すべき大物が出てくることは潜在的待望論として
常にありますが、踏み外すとそれはファッショになります。

盲目的東京礼賛の象徴であるYMOですか!
それは面白いですね。そういうのもあったのだろうな、
というのはなんとなく理解できます。
でもYMOを聴いても吉本を読んでもそれは単なる蓄積であり、
蓄積するだけなら単なる貯水池に過ぎません。
貯められた水をどのように放出するか、ですね。

バッハはバロック期における典型だと思うのです。
たとえばバッハ以外だったらモーツァルトとか
時代性や地域性の典型的な音には特有の記名性があります。
表層的にはわかりやすいお決まりの進行となってあらわれます。
それは一種のクリシェであり、音楽の本質とは異なりますが、
単純に見ればいかに人口に膾炙しているかにかかる部分はあります。
ですからたとえば美空ひばりの〈リンゴ追分〉は
どこまで崩しても〈リンゴ追分〉であって、
その音としての痕跡を消し去ることは不可能です。
捏造や改変に耐えられないのは、ひとえに有名でないからであって、
では有名だったら崩壊は起こりえず揺るぎないのか、と問われると
そうでもないような気がします。
つまりあまり有名でないバッハの作品を他の作曲家の作品と
取り違えることはあるか、といったら、それはあると思います。
でもそれは各論であって、トータルとしてのバッハの傾向は
存在しますし、もっと広い目でみればドイツとフランス、
ドイツとイタリアではそれぞれにテイストの違いが現れてきます。
バッハやモーツァルトにはその記名性 (あるいは署名性) が顕著ですが
しかし偽作も当然存在します。
それをどこで見分けるか、どのへんが境目なのかというのが
今、考えている問題でもあるのです。

これは身近な差異で考えるとわかりやすいです。
あなたと私はどこが違うかといえば、あそこもここも色々違う、
でも外国人から見れば同じ日本人で見分けがつかない、
というように視点が異なるとその差異の判断基準も異なってきます。
でも人間の判断力には奇妙な面があり、
つまり直感でこれはブラームスかもしれない、というような
判断ができる場合があります。
先日の番組でグッチ裕三が
「スティーヴィーのハーモニカは聴いた瞬間分かる」
というのも同様です。
これはコンピュータに膨大なデータを入れ込んで、
それで判断させるのとは全く別のルートとしてのメソッドです。
そのようにして判断する人間の頼るものがどこから出てくるのか、
この帰納的でない判断がなぜできるのか、不思議ですね。

その環境がある人間にとって快適であるか不快であるかは
個々に違いがあるのだと思います。
最近多くなってきた廉価なステーキハウスは
どこも賑わっていますが、一度入って懲りました。
でもああした喧噪が快い人もいるはずでだから繁盛しているのです。
私はどちらかというと食に対する興味は薄いので、
そうした外食系の店に対する期待ももともと少ないですが、
混沌とした雰囲気が蔓延しているのはこの時代が要請しているからで
そしてこの時代が退廃しているからです。
by lequiche (2019-04-11 05:11) 

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