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〈Agharta〉と〈Time After Time〉の間 ― マイルス・デイヴィス [音楽]

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Cyndi Lauper (Time After Time PVより)

シンディ・ローパーの〈Time After Time〉のPVはマレーネ・ディートリヒの映画から始まる。ニッパーを抱いたシンディ。物語は始まるがそれはシンディの過去の戯画のようでもあり、すべてが幻想のようでもある。最後の、列車の窓のシーンに至るまで。

過去に、マイルス・デイヴィスのことは何回か書いてきた。《Miles in the Sky》(1968) から始まり《Bitches Brew》(1969) を経て《Agharta》(1975)《Pangaea》(1975) に至るエレクトリック・シーンは、彼の歴史の中で閉じた生態系のようにみえる。次第に進化し変貌していった手法は、進化しているように見えながら、実は停滞しているのに過ぎないのを錯視しているだけなのかもしれないと思えてしまう部分もあり、常にステロタイプに陥る危険性を併せ持っている。その頃の、あるいはその頃を回想した最近に至るまでの評価を読むと、意外に否定的な意見が散見されるのは、まさにそのステロタイプ的なルーティンであると感じてしまう方法論にあったのだと思う。

私はその頃のライヴをまとめて聴いた時期があって、それは幾つかの記事としてすでに書いたが、冷静に聴いているようにみえて、何かしらの先入観を抱いていたこともあったのではないかと今になって思う。つまりマイルスの方法論は最初から繰り返されるクリシェに過ぎないと思い、また当時のマイルスの態度が尊大過ぎるとか、PAスピーカーがうるさ過ぎた云々などと書いてあると、その場を知らない者にとっては、そうだったのかと信じてしまうものなのである。ライヴ会場での印象は実際にそうだったのだろうが、音源として聴いた場合は別の様相を帯びてくる。
《Bitches Brew》以降のライヴは後年になるほど過激になっていったが、その転換点はオフィシャルなアルバムでいうのならば《Get Up with It》(1974) から《Agharta》《Pangaea》までの2年間であり*、それはキーボードの不在によって区切られる。ギタリストが3人もいながらキーボードを弾くのはマイルス自身であって、キーボード専任のプレイヤーがいないということに意味がある。
それはシンプルに比較するのならばオーネット・コールマンの《The Shape of Jazz to Come》(1959) における2管+ベース&ドラムでピアノレスという方向性を思い出させる。
(*ピアニストの不在を正確に言うのならば、jazzdiscoのdiscography等を参照すると、ピアニストがいるのは1972年9月29日のニューヨーク、リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホールにおけるライヴ《In Concert》のセドリック・ローソンが最後である。したがって実質的には1973年以降の3年間ということになる。《Get Up with It》に収録されているテイクも72年まではピアニストが在籍している)。

先日、なんとなく《Agharta》を聴いていたらハマッてしまった。この時期の演奏は皆同じようなものというような思い込みがあったのかもしれない。たとえば1975年1月22日の東京厚生年金ホールのライヴのブート《Live in Tokyo 1975》があるが、《Agharta》(1975年2月1日) とは明らかに違うのである。日本盤として《Agharta》を最初にリリースした際に、もちろん全公演は録音されていてそのなかから最も優れた演奏として2月1日をチョイスしたのだろうとは思う。
だがそれだけではなく、マイルスが弾くごく短いオルガンによる和音、それは曲をどこに持って行くかという一種のトリガーであり合図なのだが、その音色そのものが神秘性を帯びてしまうときがある。ギターも、それは以前にも 「よく聴くとそんなにデタラメではなくノイジーなだけではない」 とは書いたが、《Agharta》におけるリヴァーブの使い方とか、ギターとサックスの出入り、そしてそこに絡まっているポリリズムのようなものから感じ取れる印象は、すごくうまく組み上がった寄木細工のような精緻な構築物なのだ。しかしそれは物体としての形状を持ち得ない。なぜなら音楽だからである。
それゆえに、どこが優れているのかということを表現しにくい。それはごく些細な気配であり、小さな符号に過ぎない。私だけの勘違いなのかもしれない。短い一音が、その後の膨大な音群を支配する契機となることがあるのだ、と私は思う。

柴田淳のブログに、音程へのこだわりとして興味をひかれることが書いてあった。
コンピュータで歌った音を直すことは今はよくある方法なのだが、それをやるとその一瞬が自分の声で無くなるのでそれはやらない。歌い直すか、それとも何回も録音したテイクのなかから良いテイクを探すのだが、その、気になる音は 「大抵一文字なのです」 というのである (JUN SHIBATA Official site 2019年4月24日ブログ)。
ひとつの音はその曲の総体から見ればごく小さい。だがそのひとつの音が重要である場合は確実に存在する。いつでもではない。ある特定の時、地点において、重要性を持ってしまう音がある。《Agharta》に聴くのはそうした特異点の音が幾つも打ち出されることだ。

《Agharta》《Pangaea》を最後として、マイルスは長い休暇に入る。それは肉体的な疲労と病気だけでなく、尊大とも見える態度を押し通して自分の音楽を展開させたことによる精神的なストレスもあったのだろう。
1980年の復活以降、過激なスタイルは影を潜める。ポップスも取り上げ、その中で〈Time After Time〉もカヴァーされた。だがそれはあくまでジャズとしての〈Time After Time〉である。深層に流れるメロディとその上に屹立するマイルスのソロが鮮明である。《Bitches Brew》以降のエレクトリック・シーンに対して 「ロックに接近」 というような形容がされることがあるが、それは間違いであり、どこまでいってもマイルスはジャズでしかない。《Agharta》もそうである。ギタリストが3人いても、リズムがロックっぽく聞こえてもその本質はジャズでしかないし、「どうだ、ロックだろう?」 というのはマイルスの韜晦でしかない。


Miles Davis/Agharta (SMJ)
【Blu-spec CD】アガルタ




Miles Davis/Pangaea (SMJ)
パンゲア [Blu-spec CD]




Cyndi Lauper/Time After Time (PV)
https://www.youtube.com/watch?v=VdQY7BusJNU

Miles Davis/Time After Time
live in Germany 1988
https://www.youtube.com/watch?v=FpZHjvFXprk

Miles Davis/
Live in Stadthalle, Vienna, Austria, November 3, 1973.
(full)
https://www.youtube.com/watch?v=wOA9_TdRFt4
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末尾ルコ(アルベール)

シンディ・ローパー「Time After Time」のPVは何度も観ているはずなのですが、マレーネ・ディートリッヒの映像が使われていると気づいてなかったと言いますか、なぜか見逃していた、あるいは心の中を素通りしていたのかもしれません。
あるいはこのPVが出たころにはまだ、グレタ・ガルボと並んで映画史上の大大大大大女優であるディートリッヒをに対しての意識が希薄だったのかもしれません。
ちなみにディートリッヒ主演作では、『モロッコ』と『情婦』が気に入りでございます。

そう言えばアッバス・キアロスタミですが、『桜桃の味』をご覧になってはと思います。
ジュリエット・ビノシュのような国際的大スターを起用した近作『トスカーナの贋作』らもとてもおもしろいのですが、そうした不動のステータスを得る一歩手前の頂点が『桜桃の味』なのではないかと。

マイルス・デイヴィスのアルバムは概ね聴いておりますし、マイルス関連の書籍も何冊か読んでおりますが、だからわたし自身がマイルスに対して語る言葉を持っているかと言えば、そういうわけでもないのです。
これはなぜかと思いますに、どうもクラシックやジャズに対してわたしは、(もう既に誰かが語っているから)という怠惰な姿勢があり続けていたからだと、概ね先ほど気づきました。
これはもちろん、自分にはジャズやクラシックを語るほどの鑑賞経験がないという謙虚な気持ち(笑)の表れでもあるのでしょうが、「怠惰」であり続けていたという反省もあります。
そんなわけで今回のお記事も、とても興味深く拝読させていただきました。
lequiche様の繊細なご指摘の一つ一つに感想を書けるほどわたしはマイルスを聴き込んではおりませんが、今後の彼のアルバム鑑賞の大きな糧とさせていただけそうです。
有難うございます。

・・・
 

>ジジ・ジャンメールにインスパイアされた名称

ジジ・ジャンメールはバレエの枠を超えたミューズだったようですね。
わたしはその全盛期の活躍をリアルタイムでは知りませんが、そう言えば、バレエの世界もどうにも小粒になってきて、ルドルフ・ヌレエフ、ミハイル・バリシニコフ、ジョルジュ・ドン、パトリック・デュポン、シルヴィ・ギエムらのような大スターがいなくなりました。
コリオグラファーも同様で、ローラン・プチやモールス・ベジャールのように、バレエ界の外側にも聞こえてくるような人がいません。
全ジャンルに渡る「小粒化」の印象が、錯覚なのか事実なのか興味深いところです。

>ファルメールは1961年生まれ

若いですよね~。
沢口靖子も妙に若いですが、それはさて置き、「若さ」というものは何と言ってもまず「気持ち」だと思います。
「気持ち」という言葉の中には多様な意味が含まれますが、少なくとも単純に「少女の気持ちのまま」とかいうお話ではないのですよね。
「大人であり、しかし気持ちは若い」とか、あるいは「人生への眼差しが常に若い」とか、そうしたことだと思います。
決していわゆる「美魔女」(笑)なんていうものの、見てくれだけの若さではないのですよね。
その意味ではイザベル・ユペールという人も凄いです。
もちろんよく見れば皺はかなりありますけれど、佇まいの若さときたら、間違いなく「挑戦を続ける人生」を送っている人間の若さですね。

吉本隆明についてはわあたしは熱心な読者だったことはないのですが、彼が死去した時に『高知新聞』辺りでも大きなスペースで報じたのです。
かなり重要な作家、俳優、歌手などの死去を豆粒程度の記事でしか報じないことのある新聞が、です。
だから、ある時代のある人たちにとってはまさに「信奉すべき対象」だったのでしょうが、その熱烈ぶりにはやや鼻白んでしまいます。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-05-12 17:20) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

ディートリヒの映画は《沙漠の花園》(The Garden of Allah, 1936)
とのことですが私は未見です。
セリフを全部覚えているという設定になっているようです。
このように動画の中に、さらに動画を使う手法は
ズルいといえばそうなんですが、
昔の映画は独特の存在感を持っているように思えます。
〈Time After Time〉は色褪せない名曲ですね。

キアロスタミは《桜桃の味》ですか。
とりあえずキアロスタミBOX1&2を買いました。
全7本入っていますので少しずつ観ていこうと思っています。
《桜桃の味》も収録されています。

マイルス・デイヴィスのような人になると
いろいろな角度から見ることによって違う局面が出て来ます。
私はいわゆるエレクトリック・マイルスの時期について
どちらかというと否定的だったのですが、
今だんだんと修正しつつあります。
《アガルタ》と同じ日の夜の《パンゲア》がありますが、
その前後公演のブートなどと聴き較べていくうちに
マイルスのやりたかったことが浮き上がって来るのです。
これはすごいと思う部分があって、
でもそれは音質の悪いブート盤ではわからないこともあります。
1975年の日本公演でのこの大阪ライヴの昼・夜が
いかに突出していたかというのがだんだんわかってきました。
ただ、マイルスがエレクトリック期に対して
「すごいロックをやる」 と言った言葉が
曲解されているように私には思えます。
マイルスの言葉には時として 「こけおどし」 の部分があって、
その言葉にだまされてしまっている感触があります。
ブログ本文にも書きましたがこれはあくまでジャズであって
ロックとは全く異なる構造性を備えています。
ただ、私の中でそれがどのようであるのか
ということについて、まだ整理ができていません。
というか言葉が見つからないのです。
エレクトリック・マイルスは、ある意味、失敗です。
しかし私にとって非常に共感すべき方法論を持っています。
だからこそもっと分析的に聴かなければなりません。

バレエは私にはほとんどわからないジャンルですが、
でもバレエに限らず、小粒になってきているというのは
ありますね。それは何事も細分化し過ぎて、
全てを見渡せることが困難になってきたからだと思うのです。

ファルメールもデビューしたのは20代になってからで、
10代でデビューするのが普通のような日本の状況からすると
年齢的には遅いです。
そしてデカダンでありマニエリスムです。
そうしたコンセプトはJ-popの消耗品的な音楽への姿勢とは
かなり異なった印象があります。

それと今回も、フランスのTVの映像を観ていて思ったのですが、
作り方としてはややラフであるにもかかわらず、
きちんと押さえるべきところは押さえていますし、
なによりも司会者などの人数が少ないですね。
日本のニュースとかバラエティ番組とか、
どうして5人も10人も人がいるのでしょうか。
多過ぎます。
人数が多いほど低劣な番組であると私は認識しています。(笑)

吉本隆明はそんなに読んだことはありませんし、
一応読んだのだけれど結局理解はできていないのでは、
と思っています。
ただ、一度講演を聴いたことがありますが、
あまり喋りとしては上手くないのですが、
どんどん引き込まれてしまうのはその内容が濃いからですね。
あぁこの人は普通の人じゃない、と思いました。
一種の魔術師的な、つまりカリスマとしての印象を得ました。
by lequiche (2019-05-13 03:13) 

NO14Ruggerman

偶然ですね!GW中yummyに《Agharta》を持ち込み
先日お客がワタシひとりだったのでマスターといっしょに
聴きました(C面)
大阪フェステイバルホールとまではいかずとも、自宅でチマチマ
聴くよりも断然Liveの迫力に近いものが感じられたので
自分の中での評価が上昇しました。


by NO14Ruggerman (2019-05-15 00:27) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

それはラッキーでしたね。
やはり音量が大きいほうが迫力もありますし。
ピート・コージーというのが
今まで何やってるのかよくわからなかったのですが、
動画などを見るとよくわかって
マイルスの目指していたことの輪郭が見えてきました。
アガルタにくらべるとパンゲアはあまり言われませんが
これはこれで別の魅力があります。
でももう少し聴いてみないと、と思っています。
by lequiche (2019-05-15 15:41) 

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