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ペーター・ブロッツマンを聴く [音楽]

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Peter Brötzmann (2008)

ペーター・ブロッツマン (Peter Brötzmann, 1941-) はドイツのフリージャズのリード奏者である。主にサックス奏者だがクラリネットも吹く。だがサックスだろうがクラリネットだろうが、極端に言えば皆同じである。メチャクチャ吹いて吹いて吹きまくる。怒濤のように来襲して、ワンパターンで、常にフォルティシモで、音なんてどうだっていいので、楽器が全部無くてもいいので、楽器の下半分をとりあげられて上半分のリードの部分だけになっても、それでも延々と吹き続ける。もう、ほとんどトムとジェリーの世界である。そして吹くだけ吹くと、嵐のように去って行く。

昔からそのスタイルで、全然自分のスタイルを曲げない。フリージャズっていったって、いつでもメチャクチャやっていればいいってもんではなくて、たまには違う方法論があったっていいだろう、と普通なら思う。でもそれが彼には無い。全く無いのである。スタイリッシュとかセンシティヴとか、そういう単語は辞書に存在しない。常にフル・ヴォリュームでVU振り切れるだけ吹けばそれでオッケーなのである。ほとんどバカである。ほとんどというか、もう完全にバカなのかもしれない。

たとえばYouTubeに1974年10月のワルシャワでのライヴ映像がある。クァルテットの演奏で、ピアノはまだ若い頃のアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハである。TVP (Telewizja Polska SA) によるモノクロの映像だが、もう最初から全開である。シュリッペンバッハはさすがに緩急とか強弱を心得ていて、混沌一辺倒でなくリリカルな方向に持って行こうとしたりするが、結局元の木阿弥になる予感を常に秘めている。
ベーシストのペーター・コヴァルトはアルコを多用するが、このメチャクチャな音群の中で正統的な音をキープし続けている。しかしシュリッペンバッハがピアノの中をスティックで叩いたりし始めると、演奏は次の局面に突入するが、ピアノのひとつひとつの音はまだクラスターにはならない。走り続けるブロッツマンに対して、シュリッペンバッハのピアノとパウル・ローフェンスのドラムスの細かい音の応酬がより細分化されたリズムになって降りかかる。
楽器は凶器であり、演奏は時として狂気であるが、そう見えて実はそうではない。メチャクチャのように見えてそこにブロッツマンの音楽構造が透けて見える。でもブロッツマンはきっと言うだろう。「ただ吹きたいだけ吹いてるだけだよ」 と。

1974年がポーランドにとってどういう時代だったかということを思い出さなければならない。それはオイル・ショックの頃であり、PZPRの時代であり、鬱屈の時代である。
たとえば同じ1974年にレコーディングされたアルバムには山下洋輔トリオの《CLAY》がある。ドイツのメルス・ジャズ・フェスティヴァルにおける1974年6月2日のライヴであり、メンバーは山下、坂田明、森山威男であるが、このブロッツマンを聴いてしまうと坂田のアルトのほうがずっとスタイリッシュだ。
同じ1974年にはセシル・テイラーのソロ《Silent Tongues》がある。1974年7月2日、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルにおけるライヴである。その前年、ピアノ・トリオでの日本におけるライヴ《Akisakila》を経てのソロであり、彼の最も充実していた時期である。
つまりそうした時代性を考慮した上でブロッツマンを聴かなければならない。音楽は世界情勢と関係ないようでいて、如実に時代を映すものである。

だが21世紀になってもブロッツマンの演奏は変わらない。相変わらずのフォルティシモ吹きまくりであり、年齢とか時代とか周囲の反応とか、全然考えのうちに入っていないのである。だからやっぱりバカなのである。だが実は、おそろしい静謐の音楽を内包しているのに知らないふりをしているバカなのである。

私はある日の演奏の後で、ブロッツマンから直接サインしてもらったCDを持っている。これはかけがえのない宝物である。


Peter Brötzmann/Brötzmann Box (Jazzwerkstatt)
Brotzmann Box




Peter Brötzmann/Machine Gun (Cien Fuegos) [LP]
MACHINE GUN [LP] [Analog]




Peter Brötzmann Quartet
17. Międzynarodowy Festiwal Muzyki Jazzowej "Jazz Jamboree"
Poland, October 1974, Warsaw (Sala Kongresowa)
https://www.youtube.com/watch?v=dFa0oyF63d0

Masahiko Satoh, Akira Sakata, Peter Brötzmann
“BrötzFest 2011” Shinjuku Pit Inn
https://www.youtube.com/watch?v=mPGsk1FnhKA
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末尾ルコ(アルベール)

動画、視聴させていただきましたです。
おもしろいですね~。
音もおもしろいし、映像もつい見入ってしまいます。
ペーター・ブロッツマンのプロフィールを少し見ると、独学で音楽を学んだとありました。
ジャズという音楽は現在ではアカデミックな音楽教育を経ていくイメージがありますが、ジャズの起源はどうんだったのでしょうか。
決してアカデミックな存在ではなかったのではと思うのですが。

ペーター・ブロッツマンのプレイを聴き、そして観ていて連想する言葉が、「狂暴」です。
もちろんいい意味での狂暴。
しかしあからさまにいい意味で狂暴という言葉を使うと狂暴の価値が落ちてしまいそうですから、やはり「悪い意味」も含んでいる方が相応しい気もいたします。
爆裂している感覚ですね。
あるいは破壊的という言葉でもいいかもしれません。
わたしの人生はこうした音楽を常に必要としていました。
ただ決して、「いつも聴く」というのではないです。
生活の中のある時間、ある感覚の時、あるいはこうした音楽がどうしても聴きたくなる気持ちの時に大音量で聴きたくなります。

>楽器は凶器であり、演奏は時として狂気であるが、そう見えて実はそうではない。

素晴らしく深いお言葉ですね。
特に「実はそうではない」という部分に響き渡るニュアンスに想像力を掻き立てられますが、思えば、どのような表現手段でも凶器性と狂気性がなければなんらおもしろくはなく、そうした要素をすべて排除してしまい勝ちなのが現代のメディア状況なのだと思うところです。
ペーター・ブロッツマンの音やプレイする姿を鑑賞していると、荒ぶる格闘家や、さらに剣豪といった存在も連想して、とても魅力を感じます。

1974年のポーランドと言えば、まだ連帯は存在してなかったのですね。
わたしは同時代にポーランド情勢に興味を持っていたわけではありませんが、そうですね、80年代以降の東欧情勢にはずっと高い関心を持ち続けております。
「メッセージソングを歌う」といったこととは別に、確かに「世界を感じさせる、世界情勢が漂っている」音楽にこそ本当の魅惑があるのでしょうね。
ペーター・ブロッツマン、今後もぜひ聴いていきたいと思います。

・・・

>少年文庫という名称でいいんでしょうか。

すごくよくない気がします(笑)。
言葉の運用に関しての無神経さが罷り通っていた時代の名残を感じますが、現在の日本の言語状況がかつてよりよくなっているかと言うと、まったくそうではないとも思いますし。
「日本人と言葉」というテーマは実に難しいです。
それはさて置き、児童文学のおもしろさもいろいろお教えいただき、読書欲がさらに増進してまいりました。

>「大好きな絵の中にとじこめられ」 てしまうんですね。

これは毒がありますね~。
当然意識的な毒なのでしょうね。
だからこそ逆に安心して身を委ねられます。
(子ども相手だから、このくらいで)とか(大人も泣かせてやろう)とか、そうした意識が透けて見えるともうダメなのです。

>記録するという使命感だけが肥大し

例えば旅行先でその場所ならではの雰囲気を体感するより前に、とにかく写真撮りまくりとか、レストランで料理を味わう以前に写真撮りまくりとか、どうにも気持ちがよくありません。
そもそも膨大な写真や動画を、(いつ見るのだろう?)という疑問ですね。
「現在を味わう」ことを忘れ、「過去の自分たち」を何度も何度も見るということを、まあ個人の嗜好ですからあからさまに否定はしませんが、わたしにはそのような暇はないなあと、いつでも感じるのです。

>昔は国語の授業で、まず文章を音読することがありましたが

現代はどうなのか、わたしも興味がありますが、仮に音読の時間を設けていたとしても、その価値を生徒に理解させられる国語教員がどのくらいいるのかというのが大きな問題だと考えます。
わたしが生徒時代には、魅力的な音読授業ができる教員は一人もいませんでした。
わたしは勝手に(笑)読書好きになったから別に構いませんが、魅力的な授業のできる教員と出会えなかったことで、人生の中で読書機会を喪失した人たちは無数にいるでしょうね。
本当はこれは日本の根幹に関わる大問題なのだと思っております。

RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2019-05-23 17:24) 

lequiche


>> 末尾ルコ(アルベール)様

動画をわざわざ観ていただきありがとうございます。
wikiによれば最初にジャズを知ったのはシドニー・ベシェを
コンサートで聴いたのがきっかけとのことです。
ブロッツマンはマルチリード奏者でいろいろな楽器を吹きますが、
タロガトーというクラリネット系の楽器は
もともとはダブルリードですがハンガリーの民族楽器であって、
ポーランドとかハンガリーとか、対ロシアに対する抵抗精神
みたいなものへのシンパシーがあるのではないかと思います。

ジャズはもちろんアカデミックなものではなく
ブルースなど黒人の音楽をルーツとしていますし、
楽譜なんて関係ないというのがその精神だったはずです。
今は複雑な理論がありますが、
理論というのは常に後付けで成立するものに過ぎません。

ブロッツマンは基本的にアナーキーであって、
パンクの精神性に近いです。
吹きたいだけ吹くというのがフリージャズの典型ですが、
それでいつもメチャクチャやっているみたいなのですが、
実は演奏の全体量の0.01%くらいの確率で
そうでもないときが稀にあって、
それはまさに奈落の底の諦念みたいな音です。

格闘家、剣豪という形容は適切ですが、
メチャクチャに見えて、ちゃんとストーリーが存在する
ということではプロレスに近いのかもしれません。
ストーリーはリスナーには知らされていませんが、
きっとそうなるだろうなと思っているとそうなります。
どこまで行っても必ず戻って来ます。
それがセオリーだからです。

ポーランドなどの東欧の歴史も
もちろん後から知ったことですが、
たとえばデヴィッド・ギルモアのグダニスク・コンサートも
(これは以前、記事にも書きましたが)
グダニスクでやるということに意味があるのです。
https://www.youtube.com/watch?v=fJZ-uoXnfWg

絵の中にとじこめられるという歌詞については、
前記事のうりくまさんへのレスにも書きましたが、
おそらくドガの絵のことだと思います。
それはメトロポリタン美術館の収蔵品になにがあるか
ということがわかっている必要がありますが。

児童文学というのは秘めた楽しみみたいな部分があり、
世間に広く知られたくないというワガママな願望があります。
メアリー・ノートンもあまり知られていなかったのですが、
宮崎駿のアリエッティによって有名になってしまい
気持ちとしては複雑です。(笑)
ですからホントに大切にしている児童文学作品については
おそらくこのブログには書かないで隠匿しておきます。(笑)

写真というのは個々人のとらえかたによりますね。
それが必要という人は撮ればいいと思いますし、
そうでない場合は撮らなければいい。
ただ写真というのは記録する場合と美術的に撮るのとでは
やや違ったスタンスがあるのではないかと思います。
古い考え方かもしれませんが、
私はフィルムカメラのほうが 「その一瞬」 を
確実に捉えるのではないかと思っています。

ただ声を出して読むのだけではそれは時間の浪費であって、
音読の本質とは違うところにあると思います。
最近は日本語が大切にされていませんから
どうしてもそうした精神性はおざなりになってしまっています。
私は幸いなことにすぐれた国語教師何人かに巡り合いました。
でも国語というのは基本的に読書によって養われるもので
受動的に学ぶものではないと思います。
by lequiche (2019-05-24 15:08) 

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