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柴田淳 ― 蝶 [音楽]

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柴田淳の〈蝶〉は7thアルバム《ゴーストライター》(2009) の5曲目に収録されている曲である。タイトルはゴーストライターだが、別にゴーストライターが書いた曲というわけではなく、全曲柴田淳による作詞作曲である。

歌詞には花と蝶が出てくるが、「花と蝶」 という言葉から連想するのは森進一の〈花と蝶〉(彩木雅夫/川内康範、1968) である。歌詞はいきなり 「花が女か 男が蝶か」 と始まってしまうように、咲いている花と花に寄ってくる蝶を男女関係に喩えているわかりやすい歌詞である。
また、蝶という言葉から思い出すのは木村カエラの〈Butterfly〉(木村カエラ/末光篤、2009) で、これは木村カエラが友人の結婚式用に書いたとされる明るい曲であり、歌詞の最後は 「運命の花を見つけた チョウは青い空を舞う」 となっていて、これも飛んで行く蝶に運命を託した明快な曲である。

一方の花には数多くの曲があると思われるが、私があえて選んでしまうのはSugar Soulの〈悲しみの花に〉(Sugar Soul/朝本浩文・サヨコ、1998) である。〈悲しみの花に〉における花は、

 そう 悲しみもやがて
 涙色の花に かわるの

という花で、「涙色の花」 にかわるのは 「悲しみ」 であって 「私」 ではない。悲しんでいるのは私なんだから同じじゃん! と感じるかもしれないが、曲の最後は、

 あぁ 悲しみはやがて
 涙色の花になるでしょう
 もう なにも言わないで
 こうしていよう あたしがいるよ

と、しめくくられている。この部分を分析すると、涙色の花になった 「悲しみ」 は私が見ている 「悲しみさん」 なのであって、それを冷静に見つめている 「あたし」 が別にいるのである。これはもちろん一種の詭弁なのであるが、「悲しみさん」 を突き放している 「あたし」 の悲しみはより深いのかもしれない。
前のフレーズでは 「涙色の花に かわるの」 と言っているのに、後では 「涙色の花になるでしょう」 と丁寧な表現に変わっているのも諦念のあらわれなのだ。

以上は単なる前フリである。さて、そのような視点で柴田淳の〈蝶〉を読んでいくと、これはもっと屈折していて複雑である。歌詞の冒頭は、

 あなたが私にしたことは
 忘れてあげない なんて言わない

である。メロディとしては 「あなたが私にしたことは 忘れてあげない」 と歌っておいて、その後に 「なんて言わない」 と付け加える。いきなり出現するこの二重否定に、えっ? と心が動く。しかも 「忘れない」 のではなくて 「忘れてあげない」 のだ。
「忘れてあげる」 のではなくて 「忘れてあげない」 のだけれど、それを 「なんて言わない」 のだから、つまり結論は 「忘れてあげる」 ということなのだが、それを 「あなたが私にしたことは忘れてあげるよ」 と言わずに二重否定を使う屈折度がダークである。そして 「あげる」 という表現にプライドと高慢さがただよう。それは負の高慢さだ。
歌詞のつづきはこうである。

 あなたもあなたの存在も
 忘れてあげるから

ここで初めてシンプルに、ストレートに 「忘れてあげるから」 と歌う。これは 「忘れてあげない なんて言わない」 の言い換えなのであるが、もちろん二重否定と肯定は同じ意味あいではあるけれど、だからといってニュアンスは同じなのではない。そこに含意が存在するから二重否定なのである。
そしてここにはまた別の屈折がある。「あなたもあなたの存在も」 とあるが、これを額面通りにとらえるならば 「あなた」 と 「あなたの存在」 は別のものなのである。「あなたを忘れてあげる」 だけでなく 「あなたという存在そのものも忘れてあげる」 というダメ押しなのである。
さらに続く歌詞は、

 あなたが望むままに 今

つまり 「あなた」 という彼に対して、「あなたは私のことを忘れたがっているのが望みのようだから、私もあなたのことなんか忘れるよ」 とまとめて納得しているのである。恩着せがましいように見えて、実は 「あなた」 はそんなに 「私」 のことを重く思っているわけではないのだけれど、でもそれを 「私」 は認めたくないので、「あなた」 に罪を被せているとも言える。

この最初の5行がこの曲の暗さと屈折度を決定づけている。それが柴田淳であり、それは極端にいえば 「声を聴いただけで悲しい」 彼女の声質の特徴をあらわしている。

さて、歌詞は続いて次のように展開する。

 摘み取られるのが花だと知っているの 痛いくらい
 忘れ去られた花が どんなに哀しいか

以下は、一種の恨み節であり、内容としては演歌に近いような印象も受けてしまう。ただ、Sugar Soulの 「悲しみの涙色の花」 と同様に、すべては 「花」 に仮託されて、「私」 が哀しいとは一言もいわないのがやはりプライドなのである。

 どこかで笑ってるあなたに
 踏み潰されもせず

 忘れ去られた花のように

は、せめて踏み潰されたのならまだしも、それさえ無く忘れ去られてただ咲いているだけの花という虚無のことである。そして、

 もがくほど絡み付く糸を
 説く術を身につけた蝶は

と、花の比喩は蝶の比喩にすげ替わる。
歌詞の最後は最初の歌詞のルフランであるが3~4行目が変化する。

 あなたが私にしたことは
 許してあげない なんて言わない

 忘れた花には止まらない
 舞い上がる蝶になる

 あなたが望むままに 今

忘れ去られた花はすでに死の花なのであるから、そんな花にとまる蝶はいない。しかし、その死の花は 「私」 の過去の姿であり、それを客観的に見つめている 「私」 がいるのである。ではこの後、「私」 に希望があるのかというとそれはほとんど見えない。そうしたダークな風景のままで歌は終わる。花や蝶は、前述した歌の歌詞のように具体的ではなく抽象的だ。花が女で男が蝶だったらわかりやすくていいのに、というような地点がずっと過ぎ去った時代からこの歌は始まっているので、明視性が乏しいのである。
思わず 「時代」 と書いてしまったが、時はそのようにリニアに経過してゆくものであり決して遡行することはない。それゆえに哀しみはそこここにうち捨てられていくものなのである。

柴田淳に惹かれたきっかけは、荒井由実の〈ひこうき雲〉あるいは〈卒業写真〉のカヴァーの古い映像であった。彼女のカヴァーには定評があるが、なによりもその声がすべての曲想を変えてしまう。それは化学反応であり、ときとして虚無という毒を生成する。


柴田淳/ブライニクル (ビクターエンタテインメント)
ブライニクル (初回生産限定盤)




柴田淳/蝶
https://www.youtube.com/watch?v=v5lzx8mpuE4

柴田淳/Love Letter
https://www.youtube.com/watch?v=jdfNX5TsNfs

柴田淳/それでも来た道
https://www.youtube.com/watch?v=EJCsPXFGW7E

柴田淳+大江千里/卒業写真
https://www.youtube.com/watch?v=kFA3J8lNH18
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コメント 4

きよたん

屈折した女心の歌詞ですね
油断できない(笑)
by きよたん (2019-05-26 06:49) 

lequiche

>> きよたん様

油断できない・・・あはは、言えてますね。
こういうの、ずっと聴いていると
どんどん水の底に沈んて行って
水面が明るく光っているのを
見上げるような気持ちになります。
by lequiche (2019-05-26 12:05) 

末尾ルコ(アルベール)

柴田淳についてはほとんど知らないのですが、リンクしてくださっている動画、視聴させていただきました。
堪能できますね。
声、そして歌唱の雰囲気とも、奥深いものを感じます。
柴田淳につてはマイルスについてのお記事の中でも触れておられますね。
その部分を拝読しただけでもこの方が実に深く思考しながら音楽活動をしておられることが分かります。
掲載してくださっているお写真を見ると、とても綺麗な人。
キャリアも長く、オリコン上位へランクされることもあるのですね。

歌詞のご説明も素晴らしいですね。
歌詞としては決して饒舌ではありませんが、一つ一つの言葉に籠められた気持ちの深さ、そして研ぎ澄まされた言語感覚によって選び抜かれた言葉の深い味わいがとてもよく理解できます。
ここで少し脇道に逸れますが(笑)、歌詞のご説明を拝読しつつ思い出したのが、過去に付き合ったある女性。
いかにも別れたがっている雰囲気が出てきたと感じていたら案の定で(笑)、その顛末の最中に彼女が放った言葉が、「わたしはあなたのことを一生忘れないけれど、あなたはわたしのことを忘れてほしいの」と、(なんちゅう偽善的な言葉だ)と呆れ、今では向こうから別れを切り出してくれてよかったと心底思ってます。
ちなみにこの女性、英国人でございました。

>ときとして虚無という毒を生成する。

柴田淳を少し聴かせていただいただけで僭越なのですが、「虚無」という言葉、確かに感じます。
この「虚無」という概念はとても恐ろしいのですが、究極的には「虚無」こそすべてのものの故郷かもしれないのであって、もちろん底の浅い「虚無的ポーズ」ではお話になりませんが、柴田淳の場合は「本物の虚無」を内包してる深さがあるからこそ、一聴しただけでも惹かれてしまうのかなとも感じました。

・・・

ブロッツマンのお話、実に興味深いです。
ハンガリーの民族楽器の演奏など、確かにこの方の音楽にも歴史が強く脈打っているのですね。
しかもミュージシャンの自国ドメスティックでは決してなくて、世界の歴史をその精神の中に感じ取っている様子が。
ブロッツマンが「パンクの精神性」ということ、実は動画を視聴して真っ先に感じたのですが、(見当外れだと拙いな)と小心な自分が首をもたげ、書くことを控えておりました。
lequiche様のそうご指摘いただくと、何やら嬉しく思います。

「奈落の底の諦念」というご表現も凄いですね。
しかもプロレスとの近似性もご指摘くださっております。
ブロッツマンについてまるで知らないわたしがそうしたところまで感じ取れるのはいつの日のことか分かりませんが、今後も心して聴いていきたいです。

中川翔子についてもご評価されているのですね。
わたしももちろん以前からこの方の活動知っておりますが、ずっとアニメを観てませんもので、ちょっと住む世界が違う人という印象でしたが、この前の「ささきいさお台絶賛」ぶりは凄いなと思いましいた。
それではショコタンの歌もけっこういいのですね。
チェックしてみます。

メアリー・ノートンは日本では『アリエッティ』で有名になったのですか。
わたしノートン大好きでかなり読んでいるのですが、それは知りませんでした。
彼女の「笑い」は最高に好みです。
フランスというとすぐに、お洒落とかグルメとかロマンティックとか、そんな話になりますが、フランスの文学や映画のギャグって最高ですよね。
英米とはかなり違ったおもしろさがあります。

>でも国語というのは基本的に読書によって養われる

おっしゃる通りです。
現実的には就学までの読書量、あるいは中学進学、高校進学までの読書量により、生徒間で国語授業では何十年かかっても縮まらないほどの差がついています。
読書の質も大いに問題で、このところの愚言で話題の政治家のセンセーたちは、余程質の悪い読書をしてきたか、実質一切してこなかったか、どちらかなのだと思います。   RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-05-26 13:08) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

何事にも建て前と本音というのがありますが、
たとえば私のブログも本文は建て前、本音はコメント欄にあり、
ルコさんへのレスに重要なことが書いてあったりします。
それはルコさんのコメントにより思考が整理されることがあって、
ルコさんのコメントをとてもありがたく拝読しております。
でもそれだからといって本文を変えることはしません。

柴田淳もメアリー・ノートンと同じで
あまり広まってしまうのが惜しくて
こっそりと聴くことにしてブログには書かないでいたのですが、
最近はかなり有名になってきましたから、
まぁいいか、という成り行きです。(^^;)
実は他のブログを読んでいたら、
森進一の曲の内容をそのまま援用しているのか、
花が女で男が蝶みたいなことを柴田淳の詞に対しても
書いている人がいて、おいおい、と思ったのもきっかけです。
最初は 「何で売れないんだろう?」 と思っていたのですが、
最近は 「何で売れてきちゃったんだろう?」 と思うようになって
何とも複雑な心理です。

ルコさんの 「過去の女性」、まさにこの歌詞のようですね。
でもそういう別れ話の際の用語パターンはよく聞きますから
「自分と相手とどちらをも納得させるための手軽な言い分」
としての手段なのではないか、とも思います。
歌詞の内容とそれを作っている作詞家は同一ではありませんが、
シンガーソングライターの場合、歌手=曲の主人公として
見られたりすることはあるかもしれません。
そのへんのきわどさというかあざとさというか、
そこまで含めて、しばじゅんやるなぁと思うんです。
坂口靖子の《科捜研の女》のエンディング・テーマに
曲が採用されたこともありましたね。
オトナの歌ですし、
リンクした歌唱はほとんどライヴですが、
ライヴでこのクォリティというのはなかなか無いです。
音楽に限らず芸術というものは突き詰めていくと
何を目標としているのかという疑問に到達します。
何も目標は無いのだと私は思います。
売れればいいとか有名になりたいとかいうのは俗な願望で、
それで韜晦してごまかす場合もありますが、
その先には何もないのです。
ルイス・キャロルはスナーク狩りの最後に then, silence.
と書きました。それはつまりnéantという意味です。

ブロッツマンはアヴァンギャルドでパンクですけれど、
いわゆるインテリ・パンクであって、
全然違いますけどジョー・ストラマーみたいな
そういう系統におけるヴァイオレンスという感じもします。
アヴァンギャルドなジャズのリード奏者ということだと
アンソニー・ブラクストンがいますが、
ブラクストンはやはりインテリ性がどんどん顕著になって
アヴァンギャルドの重鎮みたいになっていますが、
ブロッツマンは、ずっとあれ (笑) なので
そこが芸風といえば芸風なのですが、
真実をそんなに簡単に見せないという矜恃があるのかも
とも感じます。

すみません。中川翔子については
ルコさんの記事のコメントの中のことなのですが、
Winkのひとりのほう、と勘違いされているかたがいまして、
失礼ながら大笑いしてしまいました。
ささきいさおと中川翔子は海外のアニソンイヴェントなどで
同席していることもありますから、
よく知らない人間ではなくて、ごく知悉です。
でも、私もとんでもない勘違いをすることもありますから
何事も注意深く、と自戒を籠めて、です。

メアリー・ノートン (Mary Norton, 1903-1992) は
イギリスのジュヴナイルの作家で、
The Borrowers のシリーズで有名です。
邦訳タイトル『床下の小人たち』から始まるシリーズですが、
これを翻案したのが宮崎駿の《借りぐらしのアリエッティ》です。

アンドレ・ノートン (Andre Norton, 1912-2005) という
アメリカのSF&ファタシィ作家もいるのですが、
この人は男性名のペンネームですが、実は女性で、
アリス・メアリー・ノートンといいます。
でもメアリー・ノートンとは別人です。
私も以前、この2人で混乱したことがあります。

で、さらにベルギーの作家に
アメリー・ノートン (Amélie Northomb, 1966-) がいますが、
記述語はフランス語ですから、もしかしてルコさんの
よく読まれている作家は
このアメリー・ノートンのことではありませんか?

読書の質ということでいえば、
私の読んできた本はあまり質を誇れるようなものはなくて、
魔夜峰央ではないですが、ミステリとSFしか読まない
みたいな、ごく低俗な範疇の読書にしか過ぎません。
私の亡くなった祖母によれば
「本ばかり読んでいると不良になる」 とのことでした。
でも雑読というのも必要かもしれなくて、
「シャレているように見えて内容がからっぽな文章」 とか
「微妙に文法が狂っている稚拙な文章」 を
書いたことがあります。単なるテクニックであり、
そういう需要があったからなのですが。(笑)
by lequiche (2019-05-26 14:57) 

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