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BWV826を記述する試み [音楽]

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Martha Argerich

昼のTVのバラエティ番組 「ヒルナンデス!」 でクラヴィコードが紹介されていた。番組はバラエティなのだが、東洋文庫の天井まで届く本棚とか北斎のあまり知られていない絵とか、内容はなかなか教養番組風で、クラヴィコードは国立音楽大学の収蔵品とのこと。ピアノとクラヴィコードの音の出し方の違いについての説明などがあった。黒白が反対の鍵盤。小さくまとまった慎ましやかな外観など、同じ鍵盤楽器でありながらグランド・ピアノのような威圧的表情とは無縁の姿に心惹かれる。
『レコード芸術』12月号のレヴューに《Early stereo recordings 3》という、EMI初期のステレオ録音を集めたオムニバス盤の記事をちょうど読んだばかりだったので、クラヴィーア系への興味が湧き起こっていたのである。CDに収録されている演奏は1954~56年なので、主にモダン・チェンバロが使用されているのだが、その内容とレヴューの熱心さに共感してしまう。演奏者リストの中にカークパトリックの名前があったのもその要因のひとつである。

以前の記事にも書いたことがあるが、ラルフ・カークパトリック (Ralph Kirkpatrick, 1911-1984) は私にとって特別な演奏者のひとりである。なぜなら初めて買ったバッハの鍵盤曲のレコードがアルヒーフ盤のカークパトリックのパルティータだったからで、まだレコードを何枚も持っていなかった頃だったから、何度も繰り返し聴いたことでそれが刷り込みとなり、私の中での基準になってしまったのである。だが彼の演奏はその頃評判が悪く、生硬で面白くないというのが大半の意見だったと思う (いまでもそうなのかもしれないが)。
カークパトリックは演奏者であると同時に研究者でもあり、ドメニコ・スカルラッティの権威であった。それは何種類かあるスカルラッティの作品番号のひとつであるKまたはKkがカークパトリックの意味であることからもわかると思う (Kだとケッヒェルと紛らわしいので私はKkを使うようにしている)。そうした学究的印象が生真面目で遊びがないというような先入観につながっていったのではないだろうか。だがバッハはムード・ミュージックではないのである。
先にあげたEMI盤の評の中では、

 カークパトリックのソロもゴーブルのモダン楽器だが、先進的なアーテ
 ィキュレーションで極めて 「新しい」 印象を受ける。この時代でこれほ
 ど様式的なフローベルガーが聴けるとは。しかもテンションが高く、カ
 ークパトリック再評価すべき! と強く思った。

と書かれていて溜飲の下がる思いである。そもそもレコード (あるいはCD) 評なんて、そのときどきの流行に多分に左右されていて、必ずしも参考になるとは限らないのだ。そのカークパトリックが弾いたアルヒーフ原盤の平均律の使用楽器はクラヴィコードであり、曲の性格から考えればクラヴィコードが適しているようにも思えるのである。そしてヘンレ版パルティータの中扉裏には初版の表紙と思われる図版があるが、その下に英語とフランス語訳が併記させれていて、フランス語だとEXERCICES POUR LE CLAVIERと曖昧だが英語表記ではCLAVICHORD PRACTICEと明快である。

バッハの鍵盤曲の中でパルティータは、イギリス組曲、フランス組曲と並ぶ3大クラヴィーア曲集的な認識がされているが、パルティータはバッハが 「クラヴィーア練習曲集第1巻」 として出版した作品であり、バッハにとって最も重要な鍵盤曲集である。イギリス組曲やフランス組曲と異なり、曲名から想起する具体的なイメージがなく抽象的であるが、やはり組曲であり、それは舞曲の集成という一定の形式に従っている。だがそれは平均律ほどには構成的でもメカニックでもなく、ゆるやかな形式性に則っているのに過ぎない。BWV番号では825~830に位置している。
フレスコヴァルティの頃にはパルティータとは変奏曲の意味だったというが、その後、組曲の意味に変化してゆき、バッハは組曲の意味として使用している。バッハには無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティータや無伴奏フルートのためのパルティータという作品もあるが、そこで示されているパルティータと概念としては同一である。

カークパトリックの演奏楽器はもちろんチェンバロであったが、現代のピアノで演奏するのにも好適な曲である。パルティータはどのピアニストも弾く有名曲であるが、マルタ・アルゲリッチのパルティータはある意味せわしげで強烈であるが、彼女の音楽への対峙のしかたそのものを現しているように思う。それは峻厳であり深層を走る水流である。バッハは未来においてこうした演奏がされることをおそらくは想定していなかっただろうが、それゆえに現代のバッハ演奏として強い印象を残す。一方でもはや伝説となりつつあるグレン・グールドの若き日の演奏もあるが、グールドの弾き方はその音価が短い傾向にあり、フーガのなかに浸り込もうとする私を躊躇わせる。
2008年のヴェルビエ音楽祭におけるアルゲリッチのパルティータ第2番のロンドとカプリッチョの演奏がYouTubeにあって、バロックとしてもっともスリリングな瞬間を見せてくれる。単純にチェンバロとモダーン・ピアノの違いだけでなく、曲に対する解釈が異なるのだ。そしてカークパトリックもアルゲリッチも、どちらもバッハなのである。翌年のヴェルビエ音楽祭でアルゲリッチはスカルラッティのKk.141のソナタを弾いているが、このスピードはチェンバロでは不可能なスピードである。

市田儀一郎は全音の楽譜《フランス組曲》の解説の中で次のように書いている。

 《フランス組曲》をはじめとして《イギリス組曲》《パルティータ》と
 いった一連の舞踏組曲にわれわれの耳や心が求めるものは、端的にいえ
 ばリズムや動きの多様性と情趣 (独 Stimmung) の世界であり、変化と
 趣味性であろう。流動の多様さとリズムに対する知的および感覚的な悦
 びである。

さらに、

 バッハはこれらの組曲を単に家庭における音楽的な団らんや教育用のた
 めだけではなく、真に 「心の愉しみ」 として供されるよう望んでいたに
 違いない。

つまり《フランス組曲》だけでなくこれらの舞踏組曲は単純に練習曲としても使えるのだが、バッハの真意はそこに留まってはいないというようにとらえることができる。

BWV826からは離れるがパルティータ第6番・BWV830の最後の曲であるジーグは死の曲であると私は以前に書いた。だがそれは演奏者の解釈によっても異なるのである。やはりYouTubeで行き当たった武久源造の弾き方も妙な不安感を私に与える。バロックは抽象的であるがゆえにその不安はすがるべき基盤がなく漂ったままである。


Ralph kirkpatrick/the complete 1950s Bach recordings on archiv (Archiv)
Complete 1950's Bach Recordings on Archiv




The Art of Ralph Kirkpatrick (Ars Nova)
https://tower.jp/item/4778391/

Martha Argerich/Bach: Toccata BWV911, Partita BWV826,
Englische Suite BWV807 (ユニバーサルミュージック)
バッハ:パルティータ第2番、イギリス組曲第2番、トッカータ




Ralph Kirkpatrick/Bach: Partita BWV 826, 1. Sinfonia
https://www.youtube.com/watch?v=bIPxF5prRO4

Martha Argerich/Bach: BWV.826, 5. Rondeaux~6. Capriccio
Verbier 2008
https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8

Martha Argerich/Scarlatti: Sonate K.141
Verbier 2009
https://www.youtube.com/watch?v=Gh9WX7TKfkI

Genzo Takehisa/Bach: Partita BWV 830, Gigue
https://www.youtube.com/watch?v=e1PS2_NHqG0
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末尾ルコ(アルベール)

『ヒルナンデス!』って、そんな音楽の企画もやってるんですね。
てっきり食べ物とかショップとかを紹介するのみの番組かと思っていました。
なのでお昼にテレビをつけている時は、やたらとお天気情報の長い『ひるおび』に合わしていることがほとんどでした。
今後『ヒルナンデス!』へも合わせてみます。

> 初めて買ったバッハの鍵盤曲のレコード

わたしにも初めて買ったバッハのレコード(あるいはCD?)という経験はあったのですが、その頃はいずれにしてもクラシック音楽は演奏者よりも作曲家の名前で買ってました。
「バッハを買ったぞ!」という具合です。
聴き始めた頃から演奏者への意識がもっと強ければ、わたしも現在のような体たらく(笑)ではなかったかもしれません。

> そのときどきの流行に多分に左右されていて、必ずしも参考になるとは限らないのだ。

音楽以外の分野でもそういう現象はしょっちゅうですね。
最近グレン・グールド関連の本を2冊読んだのですが、まあそれほど聴き込んでいるわけではないので、本の内容の理解もそこそこというところだと思いますけれど、かつて日本の評論家の多くがグールドをこき下ろしていたという点が強調されていました。
美術史にもそんなことはしょっちゅうですし、そうした事例を知れば知るほど、自分なりの愉しみ方、そして評価の仕方をより柔軟に、しかもある程度以上確実にやっていきたいと思ってしまいます。
もとより芸術の評価に「正解」はないという真実を踏まえつつも。

パルティータはいかにクラシック音楽の波打ち際で留まっているわたしでも、かなり多くの演奏かを聴いています。
しかしまだまだそれら演奏個々の魅力を聴き分けられるほどには到底至っておらず、しかしこの聴き馴染んだ曲は、今後クラシック理解を深めるチャンスの曲であると、これまた今思いついたのですが(笑)。

今回のお記事を拝読しながら、わたし自信「音楽のどういう要素」により惹かれるのか、考えを深めていくたく思いました。
無限に近い音を耳にしながら、それらの何に自分が愉悦を覚えているのか、などと。

・・・

鏡ってけっこう意地悪で、自宅の鏡とスーパーなんかの鏡ではたいがい映りが違うんです。
自宅の鏡の方がよく見えます、わたしの場合(笑)。
あるいはわたしだけでなく、スーパーという隅々まで人口の光が行き届く環境では鏡の持つ神秘性も減退してしまうのかなとも思ってしまいます。
例えば駐車場に停めてある自動車のウインドウに映る姿とかは、スーパーの鏡よりはましに見えます。
それはさて置き、鏡や「映る物体」などの神秘性についてはできるだけ鋭敏でいたいものだと、最近また気を引き締めています。
どうもそういうこと、かつてはもっと鋭敏だった事々について鈍くなっていたという自覚がありまして、それは「周囲の自然」という対象についても同様ですが、空を見ることも少なくなっていたし、鳥や虫の鳴き声などにも鈍くなっている自分がいて、愕然としてしまったというのがこのところでして、取り戻し、以前より鋭敏になりたいなと思っております。

「声」についても結局は同じことで、より鋭敏であれば毎日毎日よりおもしろい発見があると思うのですが、どうも愚鈍になっていていろいろなものを見逃し(聴き逃して)続けていた感が強いのです。

> ある程度のアウトラインを知ることは闇雲に聴くより効率がよいですし、良い方法だと思います。

ですよね。
ツイッターなどで20代くらいの映画ファンの書き込みを見ていると、愉しんでいる、映画が好きであることなどは伝わってきますが、明らかにここ10年くらいの映画についてしか知らないだろうなと、手に取るように分かる内容が多いんです。
それはそれで何かを始める、何かを好きになる初期段階では当然の状態かもしれませんが、たとえツイッターであっても不特定多数に向けての言葉であれば、多少なりともその世界の大まかな歴史を知っていてほしいとは思います。
何よりも、「知る」ことで理解が深まるし、おもしろさがどんどん増してきますよね。

> 自分の心情をストレートに出す人と、そうではない人がいます。

この見方はとても新鮮です。
日常生活においてもこの2通りの人たちの言動は大きく違いますが、芸術表現の世界でのこの2通りについてはあまり意識していませんでした。
今後意識していきたいです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-12-14 15:46) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

いえ、食べ物とかショップとかを紹介するのみの番組で
間違いありません。(^^)
ですから 「このEテレ風なノリは何?」 とびっくりでした。
たぶん、気まぐれでやったので、滅多にないことだと思います。

クラシックのメディアは私も基本的には作曲家優先です。
有名曲でない場合、それ1種類しかないことがありますので、
演奏者を選ぶことは不可能ですから。
ただ、どういう演奏者なのかというのは気にかけています。

グールドをこきおろしていたんですか?
でも彼が生きている頃だったらありえますね。
ところが死んでしまうと途端に評価が上がったりするのは、
どのジャンルにおいてもあるように思います。
死んでしまうと、それ以後は変化が無くなるので、
評価もしやすいということなのかもしれません。

バッハなどのバロックの音楽というのは
音楽を聴き始めるのにはわかりやすいのではないかと私は思います。
なぜならバロックは抽象的であり、歌詞を伴わない場合、
音楽のなかに何も具体的な情緒が存在しません。
ですから純粋にメカニックに経過するものとして
表面的にとらえることができます。
実はこれは罠なのですが、知らないふりをすることができます。
ロマン派のような情緒過多の音楽はわかりやすそうでいて
でもわかりにくい、という印象があります。
すごく逆説的な言い方ですが、
私はそうした抽象的ななかにこそロマンが存在しているのだ
というふうに考えます。ロマンというより浪漫でしょうか。(^^)

鏡というのはその昔は高価なものでしたから、
それを見るということ自体が一種の酩酊感というか
たぶん魔術的な意味があったのではないかと思います。
鏡ということばから思い浮かぶのは、
ルイス・キャロルの〈鏡の国のアリス〉とか、
ラヴェルの〈鏡〉だったりします。
遡ればもちろん〈白雪姫〉ですね。
物理的に見れば単純な現象なのですけれど、
人間はそこに何らかのものを付加してきました。
それは一種の恐怖感だったのかもしれません。

歴史についていえば、後から生まれた者ほど不利です。
その分、覚えることが多いわけですから。
でもあまりに視野が狭くなってしまうのも困りますが、
たとえばJ-popしか聴かないとか、
そういうあたりからすでに視野狭窄の傾向はありますね。
なぜなら知らないほうが楽だからです。

あるジャズ・ピアニストで、ジャズクラブでライヴをすると、
客が少ないほうがすごい演奏をするという人がいます。
「この人はすごい」 と評判になり、
客席が満員になるとなぜかあまりよくない。
でも客席に数人しかいないような時、神がかりのソロを弾く。
こういうのは困りますね。
単に気が小さいとか、人前で演奏するのが苦手とか、
そういう問題だけではないのだと思います。
大観衆の前で自分の最高のパフォーマンスを見せることができる
というのは表現者としてはすぐれているのですが、
でも表現としてはストレートですし、裏がありません。
自己顕示欲があるからです。
でも自己顕示欲がないけれど才能のある人というのも
存在するのです。
by lequiche (2019-12-15 03:38) 

Boss365

こんにちは。
ご無沙汰しています。
クラヴィコード知らなかったですが・・・エレガントでしっかり小気味良い音色です。何かに似ている?弦楽器にも聴こえる粒感?表現難しいですが、パイプオルガンの対極をゆく感じもします。

クラッシックよく分からなですが・・・ラルフ・カークパトリック、感情入ってますね。エモーショナル 感と楽器音が良い調和。マルタ・アルゲリッチのBWV.826 Capriccioの演奏は聴きやすいかな?無感情な演奏?ですが、良い眺め?景色を感じます。疾走感もあり、解釈の仕方が面白いですね。
PS.わざわざご連絡ありがとうございます。また、お気遣いありがとうございます。ssブログ、小生はコメント等がエラー表示で拒否される事多々ありです。
by Boss365 (2019-12-15 21:05) 

lequiche

>> Boss365 様

カークパトリックがクラヴィコードで弾いている平均律はこれです。

J.S. Bach/The Well-Tempered Clavier Book 1
Fugue No 2 in C Minor
https://www.youtube.com/watch?v=b7WU1a53a-8

チェンバロは弦をハジくのですが、クラヴィコードは弦を押し付けるので、
鍵盤を押さえて強さを変えることで
ギターのチョーキングのように音の揺れを出すことが可能です、
と説明されていました。

アルゲリッチはパッショネイトに闇雲に弾いているように見えますが、
音楽の造形がすごいんです。
しかも年齢とともに衰えるということがないです。
最近はソロで弾くことがほとんど無くなっってしまったのですが、
まだまだバリバリ弾いて欲しいです。

やはりSSブログになってから数々の不具合がありますね。
So-netがトカゲのシッポ切りをしたのですから、
そのうち閉鎖ということになる可能性が強いです。
by lequiche (2019-12-16 15:37) 

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