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Little Red Corvette ― Prince《1999》 [音楽]

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プリンスのアルバムをリアルタイムで聴いたのはいつだろう、と考えてみる。記憶としてはっきりしているのは《Batman》で、CDサイズの丸い黒の缶に入っていた。でもそれはティム・バートンの映画《Batman》の主題歌としてプリンスが起用されたもののサントラであり、映画音楽自体はダニー・エルフマンが担当している。プリンスの楽曲というよりも、ティム・バートンの暗い映画という印象が強くて、それに惹かれたということのほうが大きい。バットマンは何度も映画化されているが、私はティム・バートンのとクリストファー・ノーランのしか知らない。つまりジャック・ニコルソンかヒース・レジャーか、というふうに考えてもよい (もっとも私はルーシャス・フォックス役のモーガン・フリーマンが好きなのだけれど)。とはいっても映画とはその全体の雰囲気だと私は考えるほうであり、私の中で夢想するゴッサム・シティのイメージは最近の腐乱した東京に似ている。

だから初期のプリンスのアルバムはすでに出尽くした後で、後追いで聴いていったのに過ぎないし、そんなに熱心なリスナーではなかった。自己弁護するようだが、この 「そんなに熱心なリスナーではなかった」 というのはそのミュージシャンを長く聴き続けるためのキーワードのような気がする。すごく熱心に聴き過ぎると、かえってすぐに飽きて色褪せてしまうのかもしれない、とこの頃は思うのだ。

プリンスの《1999》(1982) は大ヒットとなった《Purple Rain》(1984) の前に作られたアルバムであるが、つい先日、リマスターされたアルバムが出されたばかりである。多くの未発表作品が収録されているというのは、ビートルズの最近のデラックス盤や、ロックの大きなグループの再発盤のリリースを踏襲しているようにも思えてしまうが、日本ではプリンスのファンというのは、私の感覚では一般的ではなくて多分に偏りがあり、そうした中でこういう体裁のものが出されてしまうということだけで喜ぶべき事態である。コアだけれど一定のファン層があるのだろうと推察できる。そしてその関連の記事なども多く目にする。

21世紀になってからのプリンスのインターネットを排斥するような発言と行動は、結果としてコアでない私のようなファンには彼がミュージックシーンから消えてしまったようにも感じられてしまったのだが、そして今から振り返るとプリンスがそうしてアンダーグラウンドで活動していた時期を含めて、私は彼の音楽を正確に理解してはいなかったと思う。すごいということはわかるのだが、それはごく漠然としたものでどういうふうにすごいのかというのがわかりにくい。単純に音楽に対する知識と経験値がなかったのだといわればその通りだが、それは彼の表層を、つまり顕示されるものに惑わされていて、その本質までに辿り着けなかったということに他ならない。

今回の《1999》リリースに関して、当時のギタリストであったデズ・ディッカーソンへのインタヴューがある。TOWER RECORDSの宣伝誌『bounce』433号と、billboard JAPAN 11月29日のSpecial記事を読み較べると、大体同じような内容なのだが、ややニュアンスの違う部分もあって興味深い。
その頃のプリンスのバンドは、比較的身内のメンバーでかためられていて、その中にオーディションで選ばれ加わったディッカーソンは、いわば 「外様」 な状態だった。しかしプリンスからの処遇は決して悪くなく、彼のプレイを常に尊重してくれたという。だがプリンスが急速に人気を得るにつれて、ビジネスとしてのストレスも大きくなり疲弊していっただろうということが、そうした直接的言葉はないけれど暗黙裡に感じ取ることができる。ディッカーソンは1999ツアーの後、バンドを脱退するがそれはプリンスと袂を分かったようなかたちではなく、あくまで友好的なものだったという。そしてその動機として『bounce』の記事では 「信仰上の理由」 と語られている。しかしbillboard JAPANでは次のような発言が記録されている。

 信仰上の理由も確かにあったけど、ほかにも理由はあった。なんていう
 か、だんだん居心地が悪くなっていったんだよね。よく覚えているのは
 ワシントンDCでのショーなんだけど、8歳くらいの女の子が観に来て
 て、そのとき僕はプレイしながら、自分の娘にはこの曲を聴かせたくな
 いと思ってしまったんだ。どの曲かは言わないけど、そういう気持ちに
 させる内容だった。

確かにプリンスの歌詞は、特に初期の歌詞はそうしたセクシャルなイメージがあるし、アタマの悪そうな言葉、とんでもない言葉が使われていたこともある。ただそれは多分に、メディアに取り上げてもらおうとするためのポーズととれないこともない。プリンスの歌詞は意外に 「かわいい」 ときがあるのだけれど、それでいて決して単純さにとどまらない。そういう歌詞を歌っている表層のプリンスという歌手を外から冷静に見つめているプリンスという、幻影ともいえる二重性の存在を感じる。それこそが自分自身をもカリカチュアとして、手駒として利用しているプリンスの本質なのだ。
ディッカーソンは気に入っていた曲として、自らのソロがフューチャーされている〈リトル・レッド・コルヴェット*〉をあげている。そしてそうした曲の成立過程を語るのだが、その様子から常によりよいものを目指すプリンスの姿勢がうかがえる。プリンスは常に、ハードルは高くしておけ、と言ったのだという。逆にそうしたヘヴィーな向上心にプレッシャーを感じたメンバーもいたのではないかと思われる。『bounce』の記事の最後には、

 そんな完璧主義が珠玉の作品を生み出し、同時に周囲との軋轢を招いて
 きたのは雄象に難くない。

と書かれている。ディッカーソンは地元ミネアポリスにおけるまだ人気の出る前のプリンスが 「リトル・スティーヴィー・ワンダーと呼ばれていた」 と回想するのだが、プリンスがバンドメンバーをいかにうまくコントロールして良い部分を出させるかというアプローチは、むしろマイルス・デイヴィスの手法を思い出させる。
(*コルヴェットとはそれが暗に何を意味しているのかは別として、直接的にはシボレー・コルヴェットのことである。松任谷由実の《流線型'80》に収録されている〈Corvett 1954〉のコルヴェットと同じであるが、松任谷由実のタイトルには最後のeが欠けていて、それがなぜなのかは不明である)


Prince/1999 (ワーナーミュージック・ジャパン)
1999:スーパー・デラックス・エディション




Amazonでは輸入盤のみだが国内盤がよい。
1999 -Deluxe-




Prince/Little Red Corvette
(ハチマキをしているギタリストがデズ・ディッカーソン)
https://www.youtube.com/watch?v=v0KpfrJE4zw

Prince/1999
https://www.youtube.com/watch?v=rblt2EtFfC4

Prince/1999
Live at The Summit, Houston, TX, 1982.12.29
https://www.youtube.com/watch?v=udkRI514KSI
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末尾ルコ(アルベール)

ホアキン・フェニックスの『ジョーカー』も鑑賞しましたが、『タクシードライバー』とほとんど構造が同じという点でとても愉しかったです。
そしてこの作品が世界的大ヒット、大きな議論を呼んでいるのも大歓迎で、要するに「映画は世界を巻き込む」という形を取ったのが嬉しかったですね。
映画好きだけが愉しめるような作品も悪くないけれど、それだけでは映画の世界つまらないですから。
ジョーカーというキャラクターに関しては、映画『ジョーカー』を観た20代くらいの人たちから、「ホアキンも凄いけれど、やはりヒースは偉大だった」という反応も出ていますが、lequiche様のおっしゃるように、まず「ニコルソン=ジョーカー」だと思います。
あの大大大スター、名優中名優ジャック・ニコルソンがジョーカーを演じ、それが米国でプリンスの曲と共に社会現象となるまでの大ヒットをしたことで「ジョーカー」、そしてアメコミ映画のバリューが大きく上がったと思います。
ジョーカーをオファーされた時点でのヒース・レジャーにとってジャック・ニコルソンは雲の上のまた上のような存在であり、ニコルソンが創造したジョーカーと同じ役を演じるという恐怖とプレッシャーが『ダークナイト』の異様な迫力のジョーカーを生んだ原動力だったのだと思うのです。

プリンスについてはこれまでも書かせていただいたように、「何となく好き」くらいのスタンスでして、どちらかと言えばマドンナの方をずっと熱心(と言うほどでもないですが)に聴いておりました。
だからlequiche様のお記事によってプリンスの凄さ、時代によってのディレールを少しずつ新たに教えていただいている感が強く、とても有難く拝読させていただいております。

> すごく熱心に聴き過ぎると、かえってすぐに飽きて色褪せてしまうのかもしれない

これはとても興味深いご洞察で、わたしの音楽鑑賞史に思いを馳せてしまいました(笑)。
文学や映画ですと一つの作品を「鑑賞し過ぎ」ということはあまり起こらないですが、音楽はつい同じ曲やアルバムを「聴き過ぎ」てしまうことがありますよね(笑)。

・・・

グレン・グールドを日本の批評家が初めて聴いた時、強く異形性を感じたということでした。
それに彼らが聴いていたバッハとまったく異なる感触だったとか。
そんな中、吉田秀和らがグールドを高く評価していたということですが、米国などではデビュー作から絶賛されていたとも言われてますよね。
この辺りのギャップはおもしろいなと。
お読みになっているかもしれませんが、次のサイトは興味深かったです。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3232/1.html


米国、あるいはフランスや英国などは、批評の力が日本よりずっと強いですよね。
映画なんかも現在でも有力紙、あるいは有力サイトに掲載された批評の良し悪しが動員をかなり左右する場合もあるようです。
日本でもかつて淀川長治や、アート系なら蓮實重彦が動員に影響を与えていたこともあったと思いますが、一般的には批評は軽視されています。
批評は間違うこともしょっちゅうなので力を持ちすぎるのもどうかと思いますが、鑑賞経験豊富な人たちの意見は貴重なたたき台になりますし、批評自体作品としておもしろいものも多いので、日本のこの状況はどうにかならないかなあと以前から思ってます。
まあ、どうにかなれば世話ないのですが(笑)。

>音楽のなかに何も具体的な情緒が存在しません。

考えさせられます。
けれどバロックを聴いて、深い感銘を受けたり、何やらやたらと琴線に触れたりがあるのがおもしろいですね。
音楽と心の関係。
例えばわたしを含め多くの人間は自然の織り成す景観に感動し、時に涙を流しますが、自然はもちろん「感動させよう」とも、ましてや「泣かそう」ともしていない(していたら、笑っちゃいますが 笑)、自然の景観のほとんどは科学的に説明できる、けれど「それを超えたものがある」と、まあそんなことを連想してみました。


> 物理的に見れば単純な現象

鏡に映る像って、日常にありふれているはずなのですが、ふと極めて非日常を感じてゾクッとする瞬間があります。
自分の顔や姿は自分で直接見ることができないから鏡を見た瞬間の違和感も理解できますが、普段目で見ている人たちの姿が鏡に映った時、(あれっ?)と感じる瞬間があります。
「魔の瞬間」とでも、少々大袈裟ですが、言いましょうか。
そんな感覚ももっと大切にしたい今日この頃なのです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2019-12-24 15:37) 

英ちゃん

(*゚∀)ノ.。・:メリークリスマス*:・゚`☆、。・:*:・゚`★.・゚
(((*★*プレゼント*★*)))ヘ(・_・ヘ).∠(o・_・)/由
by 英ちゃん (2019-12-24 22:50) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

ホアキン・フェニックスの映画は観ておりませんが、
ルコさんの記事で知りました。
主役以外のキャラで物語/映画が成立し得るというのは
いくら有名アメコミといっても珍しいのではないか
というふうに思います。
ただ、私がバットマンの映画に関して感じたのは
ロビンの不在でした。
もちろんロビンが登場する映画もありますが、
ティム・バートンでもクリストファー・ノーランでも
バットマンには本来いるべきはずの相棒がいません。
なぜそんなにロビンが嫌われているのか、
実写映画にした場合、ロビンは扱いにくいのか、
もっといえば邪魔なのか、そのへんがずっと疑問なのです。

アメコミというのはアメリカのパルプマガジン隆盛の頃、
俗悪で知性のないエンターテインメントの亜流として
出てきたジャンルだと私は解釈しているのですが、
それはつまりサイエンス・フィクションの源流であって、
しかしSFは次第に洗練されることによって
初期の原初的パワーは逆に無くなっていってしまいました。
エムシュウィラーをはじめとするSFのセンス・オブ・ワンダーは
懐かしいけれど旧弊なものとして捨てられていってしまったのです。
それらは確かに俗悪で稚拙なのかもしれませんが、
その俗悪さのなかにその時代でなければならないものを
保有していたのではないかと思うのです。
そうした俗悪さと、プリンスが初期に提示した俗悪さは
通底している部分があります。
露悪趣味ととるか、それとも本当にバカなのか、
結果として彼はそのどちらでもありませんでした。
ただアクの強さは確かにありますし、
それが好き嫌いの極端さにつながったのかもしれません。
R&Bという限定されたジャンルにくくられることで
一般的な音楽とは違うのだと感じさせられた傾向もあります。
渋谷陽一も、戦略的なものかもしれませんが、
最初はプリンスをけなしていたような印象があります。

同様にグレン・グールドも一般的なピアニストとしての
評価対象からすこしずれる状態で出現してきたので、
異形とかトリッキーというふうな評価をされたのではないか
というふうに思います。
その点でも私はグールドにプリンスとの共通性を見てしまいます。
グールドについては、今、村上春樹/川上未映子の本を
遅ればせながら読んでいるのですが、
その中で村上春樹のグールドに対する形容に
なるほどと思う箇所がありました。
それについてはあらためて書こうと思っています。

バッハについて考えれば、彼の作品の根本には信仰があります。
つまりパッションとカンタータに
それが最も顕著に表現されているのではないかと思います。
でも宗教心というのは、これは言葉が悪いかもしれませんが、
極端に偏執的な読解とその理解とで成立しているともいえます。
でもその中にいる人は外から眺めているわけではないので
客観的な視点を得ることができないのかもしれないのです。

以前にも書きましたがバロックはそもそもイタリアが本流で
ヴィヴァルディはその典型的存在でした。
ある意味、ヴィヴァルディは通俗です。
通俗だからこそ人口に膾炙していた部分もあるのです。
でもバッハはそうした通俗を排して彼なりの音楽を創造しました。
彼の作品は後年認められ現在でも多くの曲が演奏されていますが、
典型的バロックという観点からすると
少しずれているのではないかと私は思うのです。
by lequiche (2019-12-28 01:14) 

lequiche

>> 英ちゃん様

クリスマスはもう過ぎてしまいましたけれど、
クリスマスコメント、ありがとうございます。(^^)
by lequiche (2019-12-28 01:14) 

coco030705

こんばんは。
プリンスはほとんど知らなかったのですが、あるきっかけがあってYou Tubeで観てみたら、すごくセクシーな歌手だなと思いました。音楽もいいですね。
by coco030705 (2019-12-29 21:25) 

lequiche

>> coco030705 様

はい。セクシーですけれど、
最初はゲテモノとして見られていた傾向はあります。
それは彼の趣味が半分、戦略としてが半分ですね、たぶん。(^^;)
プリンスはどんな楽器でも弾けますし、
ですからひとりででもアルバムを作れてしまうんです。
演奏はバンドでやっていますが、それぞれの担当者より
プリンスのほうが上手いにきまっているのです。
私が観たライヴでは途中でピアノをアドリブで弾くんですが、
だんだんモーツァルトみたいになってしまって、
それってロックじゃないよね? というような
驚きがありました。
なぜこんなに早く亡くなってしまったのか、
残念でなりません。
プリンスとデヴィッド・ボウイは私にとって永遠のスターです。
by lequiche (2019-12-30 00:56) 

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