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失われた藍の時代に ー 東京キッドブラザース [シアター]

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純アリス (日刊スポーツ 19.07.16記事より)

「かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩」 というのは入澤康夫の詩集のタイトルで、その謎めいた言葉と音の響きに惹かれる。入澤の詩集には他にも思わず読んでみたくなるタイトルが多くて、「ランゲルハンス氏の島」 みたいな楽屋落ち的なタイトルもあるけれど、これは何なんだろうと惹きつけられてしまうそのときに、すでに詩人の術中に絡めとられているのだ。だが残念ながらオリジナルの詩集そのものはほとんど持っていなくて、偶然手に入れた『声なき木鼠の唄』という小さな本があるばかりだ。それゆえに彼の詩業を辿るには、とりあえず〈詩〉集成という2冊の作品集を読み進めていくしかない。そしてもちろん、宮澤賢治の全集における精緻な校訂と研究はあまりにも深い。

遠藤琢郎の訃報を聞いた。横浜ボートシアターという劇団を主宰し、横浜の川に浮かぶ船の上で演劇をしていた人である。ずっと以前にボートシアターには1回か2回か、よく覚えていないのだが行ったことがある。観客はごく少なかったが、何か落ち着ける独特の空気感があった。それは水の上に浮かんでいる船が劇場という、繋ぎとめられているのだから動かないのだけれど、しかし完全に固定されているわけではない場所の、ゆらゆらした感覚から来る微かな酩酊のようなものかもしれなくて、それは小栗康平の描いた《泥の河》の船の印象に通底する。
ただ横浜という土地は私の中ではいくつもの重層した記憶となっていて、ずっと昔の幼い頃の記憶と比較的最近の記憶が錯綜したりしていて、秩序だった回想の邪魔をする。むしろそうした錯誤を喜んでいる魔物がいるのかもしれない。

演劇における仮面が表象するものは、ひとつのキャラクターの固定化である。誰が被ったとしても仮面は、そのキャラクターを周知の (あえていえばステロタイプな) 納得せざるを得ない人物像として実感させ、様式性の中に封じ込める。だが演劇とは、たとえ素面であっても、それは演じるという状態において仮面をつけているのと同等の効果をあらわすし (あらわすべきだし)、役柄の性格に応じてその表情を変化させ際立たせなければならない。そうだとすると仮面とは、その変化を見させないものとして、つまりある一瞬の表情の凝固としてしか表現することができないはずである。その凝固してしまった単一の表情が幾つものヴァリエーションとして感じられてしまうのはなぜなのだろうか。
そうした仮面の二重性は、能楽に用いられるような高尚な仮面でなく、もっと下卑た、ドンキで売っているような俗悪でチープな仮面にこそ逆説的に存在する。能面でなく、田楽や神楽で用いられるようなもっとプリミティヴなもの、呪術的で野生的なもののほうが仮面に秘められた二重性はアクティヴである。ボートシアターの写真の中に見出した幾つもの仮面の連なりを見ながら、そんなことを考えていた。能楽の仮面よりコンメディア・デラルテの仮面のほうが、遊戯性や諧謔性が豊富な分、それが示すフィールドは広いように思うのである、もちろんこれは能楽の面を貶めているわけではない。通俗性のあるほうが裾野が広いということに過ぎない。それに通俗的事物から発散されるものはダイレクトであり、芸術性の質や量とはむしろ反比例する。そしてプリミティヴなものとは好意的に見るのならばシンプル、辛辣に見るのならば単純であり、そもそも楽観的なものなのである。

演劇をはじめとする舞台芸術とは儚いものである。もっとシビアにいうのなら脆弱といってもよい。なぜならそれらは映画のように、あるいは音楽を録音したCDやレコードのように固着化できないからである。素晴らしい演劇が存在するとしても、それを保存することはできない。それは一瞬の閃光であり、脆いイヴェントであり、時が過ぎれば消失する。たとえ映像に残したとしても、それは限られたフレーム内の2次元でしか再生できない。後に残るのは単なる伝説である。つまりたとえば 「かつて天井桟敷という演劇グループが存在していた」 というような過去形の伝聞表現でしかそれを語ることはできない。この 「かつて」 という詠嘆を含む言葉から想起されるものを記録するために、冒頭の 「かつて座亜謙什と……」 が私にとっての触媒としてリフレインしていたのだから。

なぜならこれはひとつの疑問から端を発している。それは東京キッドブラザースという劇団のことを検索していたときのことである。東京キッドブラザースは、寺山修司の 「演劇実験室天井桟敷」 にいた東由多加がそこから脱退して新たに結成した劇団である。ところが検索する手がかりのひとつとして存在しているはずのwikipediaには、それについて本当におざなりな記述しかない。wikiの内容のアンバランスさは、よく知られているとはいえ、これはひどいのではないかと思ったのである。
調べようとしたきっかけは、かつてある知人がいて、仮にAさんとしておこう、そのAさんはある時期、演劇を観ることにとても入れ込んでいたのである。Aさんは熱しやすく醒めやすい性格といってよく、何かひとつのことに熱中するとそればかりになり、ところが突然それが終息して他のことに興味が移って行くという特徴を持っていた。それまでとまったく正反対に意見が変わったりすることさえあり、それに振り回されてしまうということがよくあった。だがそのパッショネイトな言葉に、そのときはつい乗せられてしまうのである。
そのAさんがシンパシィを感じていたのが東京キッドブラザースという劇団であった。その話をよく聞かされて、全くそういうことを知らなかった私は、まずそれについて調べてみた。
天井桟敷から別れ、寺山修司とは全く正反対のような芝居を始めたこと。その違いは68/71とオンシアター自由劇場などよりもっと離れている。そしてミュージカルへの傾倒、そこには《ヘアー》という伝説のミュージカルとの関係もあるらしい。そして《黄金バット》という作品でニューヨークで公演したことなど。ああなるほど、という部分と、本能的に感じた胡散臭さと、でもそうした負の部分の印象は決してAさんに言うことはなくて、それなりに話を合わせていた。それに愛と平和とか、反戦とか、一時期のアメリカを象徴するそうした現象からの影響がその当時の演劇シーンにも反映されていたのかもしれない。だがやがてひとつの公演で失敗してキッドブラザースはほとんど壊滅状態になる。もちろんこうした歴史はキッドブラザース系のサイトなどを参考に記述しているだけで、実際の演劇について私は全く知らない。

やがて東由多加は演劇をやることを再開し、新宿にシアター365というスペースを作る。その芝居のタイトルに俄然興味を持った。〈彼が殺した驢馬〉〈冬のシンガポール〉〈失われた藍の色〉。連続する1978年のこれらのタイトルは聞くだけでカッコイイ。Aさんがシアター365でそれらの芝居を観ていたのかどうか、それは知らないし聞いたこともなかった。いつ頃からAさんがキッドブラザースに入れ込みはじめたのかはわからないが、たぶんそのシアター365のあたりからなのではないか、と推測するばかりである。
やがてキッドブラザースは再び人気の劇団となり、Aさんが言うのには、評論家の誰々さんも褒めている、何々にも取り上げられた等々、絶賛の嵐である。柴田恭兵とか純アリスとか、すごい人気なのだという。う〜んそうなのかぁ、とは思ったのだが、私はなかなか決断しなかった。
でも1回くらいならいいかなと思って、Aさんと一緒に行ってみることにした。だがまだ私は若くて、いやむしろキッドブラザースの演劇は若い人たちのための芝居だったとは思うのだが、そうした内容にノルことができなかった。それはひとことで言うのなら気恥ずかしくて、気恥ずかしいものに臆面もなく賛同する人と、気恥ずかしいものを避ける人とがいると私は思うのである。私は後者であった。キッドブラザースと尾崎豊は気恥ずかしい。だが同時にAさんの顔を立てなければならない、というような妙に大人びた意識も同時に持っていたのだと最近あらためて思う。
むしろ年齢を重ねた今になると、もっと柔軟に対応できる術もあったはずなのではないかと感じるし、キッドブラザースそんなに悪くなかったよなぁ、とさえ思うのである。だが当時の私はずっと硬直化していて余裕がなかった。それにそうしたマジョリティなものを拒否する気持ちがずっと強かったのだと思う。結果としてそれは決してマジョリティではなくて、マジョリティに踊らされたマイノリティの一表現に過ぎなかったのだとしても。20世紀の終わりに東由多加は亡くなる。寺山修司と同様、東由多加が存在しなくなったことで彼の演劇も実質的に終わりとなる。継ぐ者は誰もいない。

だが、今、演劇のクロニクルな情報を見ると、天井桟敷の1978年は〈奴婢訓〉、そして79年は〈レミング〉であり、夢の遊眠社は〈怪盗乱魔〉の初演とリストにある。つまりそうした混沌とした状況、全く異なった位相のものが並立するような状況がその時代だったのだとあらためて感じるのである。
しかし同時に、その当時、あれだけキッドブラザースを絶賛していた評論家やマスメディアは今どうしているのだろうと思うこともある。その時々の流行にさえ乗っていれば後は野となれ、なのだろうか。wikiの惨状が如実にそれを表している。彼らは責任感を持たない。すべては金で換算される。金にならないものは無価値なのである。
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末尾ルコ(アルベール)

入澤康夫はほとんど読んだことありません。
またいろいろ調べてみたいと思います。
母の付き添いをしている時期は病室に宮沢賢治の詩集と寺山修司の歌集を持ち込んでました。(他にも30冊くらい持ち込んでましたが 笑)
あまり熟読する時間はなかったのですが、迫力が違いますね。
このところは室生犀星の詩をよく読んでいます。
犀星が生きた時代の空気感を短い言葉で味わえるだけでも快感です。

> 呪術的で野生的なもののほうが仮面に秘められた二重性はアクティヴである。

おもしろいですね。
仮面についてももちろん以前から興味がありますが、今後は多様な仮面に対しての意識が変わりそうなお言葉です。

演劇を映像化した時の変わり様と言いますか、時に(こんなになるんなら、映像化しなければいいのに)と感じるくらいつまらなくなってしまう場合もあります。
WOWOWで最近の演劇もよく放送されていますが、観始めても最後まで辿り着かないことが多いです。
映像で残すよりは文字だけにした方が、特に優秀な演劇であれば神話性が保てるのではとも思うことがあります。
でも映像化の魅力は時に抗し難いものがあるのでしょうね。

東京キッドブラザーズは、「柴田恭兵が在籍していた」くらいしか知りませんで、今回のお記事でまた新たな目を開かせていただきました。

> wikiの惨状

これはもう今回の件に限らず、本当に酷いです。
日本のwikiで念入りに書き込まれていることが多い対象はごく限られており、重要な俳優や作家などの情報は唖然とするほど少ないのが普通です。
そしてごく限られたよく「書き込まれている対象」も、本当に枝葉末節の情報が中心なのですよね。
批評性・客観性など皆無です。
日本のwikiの「惨状」は、現在の日本文化、そして日本社会の脆弱さと歪みを実によく象徴しているなあと、いつも感じてます。


・・・

「土地の地場」、じゃなくて(←わざとらしい 笑)、「土地の磁場」に関しては、わたしは初めて皇居の近くへ行ったとき、そして京都へ行ったときに感じました。
重く存在感に漲る何かが大地の底から湧いてくるような感覚です。
これは皇居周辺や京都の歴史をある程度知っているからこその錯覚であるとするのが「合理的」となるのでしょうが、わたしはそのような単純な合理的解釈はあまり好きではありません。
(何か感じる・・・)くらいの思想的・精神的グレーゾーンはいつも持っていたいと思っています。

わたしは現実的に(流浪したい)と検討したことはありませんが、vagabondに対する憧憬は常にあります。
今でも例えばランボーの'Ma bohème'なんか読むと、(ああこんな感じの日々を送るとどんなだろうなあ)と夢想はします。
しかしわたしはキャンプさえもしたことないし、まあキャンプと放浪はまったく違うのでしょうが、基本的にインドアなんですよね。
だから絶対にvagavondにはなれないことは分かっているんですが、だからこそ「自分とは真逆の生活」としての憧憬があるのだと思います。
極端なお話をすれば、ヴェドウィンやモンゴル帝国時代の生活とかにも憧憬はあります。
もちろんあくまで「憧憬だけ」ですが(笑)。
でもそれだけでも大切な精神作業だと思ってます。
想いを馳せるとか、想像するとか。

> シャンソンやカンツォーネが入っているのが良い例です。

そう言えばそんな分類も目にしたことがあります。
「ワールドミュージック」という言葉自体、その定義は論者によって異なるようですね。
わたしの中ではこの言葉、ずっと曖昧なイメージのままでした。
ただ、ある特定の国で生まれた音楽であっても、その中で「その国の伝統や精神性を如実に体現しているもの」と「その時々の商業主義の方向に振れたもの」との違いであれば、ある程度は聴き分けられるのかな・・・という気はしています。
ジプシーキングスはいささか後者であるという印象で、何と言いますか、「民族性らしき雰囲気」を漂わせながらも足が地についてないという感じかなと。
でも商業主義に振れているようでいて、その実高い音楽性は精神性を有している楽曲も多くありますから、難しいところです。

> ヴェルヴェッツとルー・リードはやはり違いますし

確かにそれはありますね。
わたしの個人的印象だと、ルー・リードの方がよりロックで、ソウルフルな要素さえ感じます。
ヴェルヴェッツも大好きなのですが、ロックではない何か、より高い事件性のようなものを感じます。
ま、でもこれはかなり前の印象ですので、今聴いてみると違ったものを感じる可能性大です。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-02-11 09:59) 

NO14Ruggerman

東京キッドブラザースと来れば私としてはヒカシューの
巻上公一氏です。
そして巻上氏と若かりしころ交流があり人気ソネブロガーだったcafelamamaさんを思わずにはおれません。
mamaさんも東京キッドブラザースと深くかかわっておられたと
発言されてたことを思い浮かべます。
また過日巻上氏の講演に参加させていただいたとき直接お話する
機会に恵まれたのでcafelamamaさんご逝去をお伝え
したところとても驚かれておりました。
by NO14Ruggerman (2020-02-13 02:25) 

(。・_・。)2k

勉強になりました
ありがとうございます

by (。・_・。)2k (2020-02-13 03:21) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

入澤康夫の詩はマニアックともいえますから、
宮澤賢治とか寺山修司に較べると
かなり傾向が違いますので、
誰にでもおすすめできるものではないと思います。

仮面をツールとして最も昇華させたのが能楽ですが、
もともと仮面というものは簡単にその人物になり代わる
という意味において昔から使われている道具です。
能面は芸術度として高度過ぎて、仮面本来の意味と
少し違った様相を帯びているように見えます。
実用としてはお神楽のおかめ、ひょっとことかキツネとか、
そうしたプリミティヴな霊 (と言い切ってしまいます) を
表現するというのが本来の目的だったように思います。
これはボートシアターの写真にあった仮面を見ていて
あ、そうだったな、と思い出したことです。
逆に見ると、仮面を現代演劇の中に取り入れることによって
簡単にプリミティヴな霊的場面を作りだすことができる
という方法論もあるように思います。

演劇を映像化したものを見て一番感じるのは
ホールトーン (残響音) が過剰に感じられてしまうことです。
実際にはそのくらいの残響が存在しているのですが、
人間の耳はそれを修正して聞いていますから
映像をプレイバックしたとき、
なぜこんなに聞こえにくいのだろう? とがっかりするのです。
ただそうは言っても記録として残すのは重要であって、
ですから美術展のカタログを見ると
実際の絵画とは全く異なる色合いなのですが、
それは印刷の限界と考えてとりあえずは買っておく、
というのと似た意味合いですね。
記録を呼び覚ますための資料と考えたほうがいいです。
つまりその演劇を実際に観た人のためのもの、というふうに
私は考えています。

これはあくまで私の印象なのですが、
柴田恭兵は東京キッドにいたことに対して
あまり積極的には言わないでいるような気がします。
つまり黒歴史といったら言い過ぎかもしれませんが、
そういうニュアンスが感じられます。
そして東京キッドそのものに対しても、
かつてそれを持ち上げていたマスメディアや評論家先生が
まるで無かったことのように扱っていますし、
それがwikiにもあらわれているというふうに
私には感じられます。
全盛期の東京キッドの集客数は
寺山修司の天井桟敷などよりずっと多かったはずです。
それなのに今のwikiの書き方はどうなのでしょうか?
ということが私の論点なのです。
別に東京キッドを贔屓しているとかいうことではないのですが、
歴史とはそのように歪曲・捏造されるのだというべきなのか、
いわゆる何らかの 「政治的判断」 が存在すると私は見ています。
こういうこと、あまり表立って書いてしまうのは
ヤヴァいことなのかもしれませんが。(笑)

土地の磁場……フィリップ・スーポーに
Les Champs magnétiquesという作品がありますね。(^^;)
私の知人で神社などが好きな人が
同じようなことを言っていました。

vagabondに関してもまさにそういうことです。
憧憬はあってもそれを実行するかどうかは
また別の問題です。
というか結局実行することはおそらく無いのです。
実行する人はvagabondなどという概念とは
おそらく無縁な人で、そうした概念さえ知りません。
そんなものです。

ヴェルヴェットアンダーグラウンドもそうですし、
ピストルズなんかもそうですが、
そのバンドの音自体よりもその思想性とかが
音楽よりも過大なところで論議されやすい場合があります。
ただそういう傾向は、たとえばプロレタリア小説とか
プロレタリア演劇と同じで、その芸術本来から
逸脱してしまう傾向があります。
それは、とりあえず自分が聴こうとする音楽に関しては
避けて通りたいというのが私の本音です。
by lequiche (2020-02-14 02:19) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

巻上公一さんは東京キッドのメンバーだったのですね。
そのへんのことは私もよく知りませんでした。
キッドを脱退してミスタースリムを創設したとのことですが、
私はミスタースリムを知らないので何ともわからないです。
やはり意外な人がかかわっているのですね。
谷村新司や小椋佳が曲を提供していたというのは知っています。
つまり演劇というものは歴史に残りにくい、
というのを大変強く感じます。
消費財に過ぎないのだろうか、とも思います。
by lequiche (2020-02-14 02:19) 

lequiche

>> (。・_・。)2k様

いえいえ、写真のことは私にはよくわかりませんし、
いつも2kさんの写真から勉強させていただいております。
ただ基本的なとらえかたとして、
撮ってもらいたい人もいるけれど、撮られたくない人もいる、
ということは常に考えなければなりません。
たとえばオフ会の写真などでも、楽しい雰囲気はあるんだけれど、
ここまで出してしまっていいの? と感じる写真はよくあります。
目線をしたりボカせばいいというものではないと思います。
by lequiche (2020-02-14 02:19) 

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