SSブログ

ルツェルン・フェスティヴァルの諏訪内晶子 [音楽]

swanai_2016_200223.jpg
諏訪内晶子とドルフィン (朝日新聞digital 2013.08.16より)

CDショップの新発売リストを見ていたら、パーヴォ・ヤルヴィとN響の 「20世紀傑作選」 というSACDが出ていて、その2は《武満徹:管弦楽曲集》とある。〈ノスタルジア〉と〈遠い呼び声の彼方へ!〉が収録されているがこのヴァイオリンは諏訪内晶子だ。その演奏のことを私は2年前の記事に書いたことがあるが (→2018年04月28日ブログ)、その書き方は、どちらかというと否定的な印象ととられてしまったかもしれない、ということを思い出した。
つまりそれは諏訪内の演奏の是非ではなくて、その頃私が感じていた武満徹に関する鈍色の疑問である。疑問というよりも無い物ねだりのようなほの暗いインプレッションであって、つまりやや調性感のある西欧伝統音楽的な色合いを持った作曲技法は、聴いていて心地よいし安定感はあるのだが、そこに何らかのアカデミックさ、時代への迎合というかたちでのアヴァンギャルドからの後退を感じてしまったのに他ならない。といっても、そもそも武満なんて最初からアカデミックでしかないのだと言われればその通りなのかもしれないが、そうした大雑把な理解で解決できるほど事は単純ではない。つまり前記事ではそのあたりのニュアンスが欠けていたのに違いないのだが、名前がどんどん売れていって今や大巨匠になってしまった武満が、もはや何をやってもいいという状態になったとき、あえてトリッキーなことはせず、伝統的オーケストラの楽器群を活用して音を精緻に絡ませていけばそれで 「ウケる」 という安心感や充足感の中にありながら彼が感じていた一種のいらだちのようなものが、その時読んでいた立花隆の伝記を通して何となく読みとれたというのが私のぼんやりとした感想だったのである。そして今もそれは変わらない。

武満は現代音楽の作曲家としてはすでに巨匠で、20世紀の作曲家としてビッグネームのひとりであることは確かだったが、武満自身はいつも満足していなかったのではないか、と私は勝手に類推する。それらの曲のクォリティが完璧であるのにもかかわらず、作品のかたちをある時点で確定しなければならないのは、画家がいつその絵を完成と見なすかというタイミングに似ている。そういう点で武満は、たとえば黛敏郎などとは全く傾向が異なる作曲家だと思うのである。

でも武満への評価はとりあえず措くとして、そのときの諏訪内の演奏は2年前にはYouTubeに無かったのだが、今、〈ノスタルジア〉があることを発見し、あらためて聴いてみて、諏訪内晶子の演奏の完璧さと、そして武満徹の (円熟したというべきなのだろうか) 作曲技法に心うたれるのである。
以前の記事にも書いたように諏訪内の演奏は安心して聞けるほどに余裕があって、曲の細部までをとても理解していて齟齬が無い。それは彼女の音楽的技術や思考の円熟さと、それを透かして見える武満がかたちづくる楽曲構造の円熟さという二重性の中にある。もはや武満はアヴァンギャルドな存在ではなくて、伝統的古典派とでも形容できる中のひとりと考えてもいいくらいに思えてしまう (と言ったら言い過ぎなのかもしれないが)。
だが〈遠い呼び声の彼方へ!〉というタイトルはそもそもフィネガンズ・ウェイクからとられたものであり、ジェイムズ・ジョイスはほとんど目が見えなくなり、家庭的にも問題を抱えながらこのプログレッシヴな作品をかかえていて、最後までアヴァンギャルドな人であった。彼がウェイクを書いている頃、それはWork in Progressと仮に名付けられ、まさにそのプログレッシヴさをそのままあらわしていた。

そして〈ノスタルジア〉はアンドレイ・タルコフスキーを追悼して彼の同名映画《ノスタルジア》(1983) のタイトルを冠して作られた曲である。タルコフスキーは《ノスタルジア》を完成後、当時のソヴィエトには戻らず亡命というかたちをとって、それから3年後、パリで客死する。
《ノスタルジア》は悲劇的とも幻想的ともいえる作品であり、それは監督本人の心情をあらわしており、そしてそのキーとなる曲はヴェルディとベートーヴェンである。私が最初に観たタルコフスキーは《ソラリス》だったが、その冒頭に映しだされる流れの中の水草の描写の中に彼の語るべきことの全てが描かれているように直感した。

そしてここで本来の話題、CDショップの新発売リストの話に戻るのだが、そこにはイザベル・ファウストのシェーンベルクのコンチェルトもリストアップされていて、彼女にはベルクのコンチェルトも、今度のシェーンベルクのコンチェルトもあるのに、諏訪内の選曲は安全運転過ぎるように思うのである。
諏訪内には2003年のルツェルン・フェスティヴァルにおけるベルクのコンチェルトがあって、これはピエール・ブーレーズの指揮によるもの。2006年のアシュケナージ指揮の動画もあるが、ブーレーズのほうが格段に優れているように感じる。
ベルクのコンチェルトは有名曲であり傑作である。ある天使の思い出に (Dem Andenken eines Engels) というサブタイトルが付いているが、アルバン・ベルクはアルマ・マーラーとその夫でバウハウスの創立で知られるヴァルター・グロビウスの娘マノンの死への追悼としてこの曲を書いた。しかしそのすぐ後に彼自身も病死する。したがってベルクのヴァイオリン・コンチェルトは彼の遺作なのである。

尚、ヤルヴィ/N響の 「20世紀傑作選 1」 はバルトーク3部作でこれも捨てがたい。リストには他にも諏訪根自子と巌本眞理のバッハのドッペル・コンチェルトという発掘ものがあって、実はこうしてリストを眺めながらまだ聴いていないCDを吟味している時間が一番楽しいのかもしれない。


パーヴォ・ヤルヴィ/20世紀傑作選②〜武満徹:管弦楽曲集 (SMJ)
20世紀傑作選②〜武満徹:管弦楽曲集




諏訪内晶子/シベリウス&ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲
(ユニバーサルミュージック)
シベリウス/ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲




Akiko Suwanai, Paavo Järvi/Toru Takemitsu : Nostalghia
NHK Symphony Orchestra
https://www.youtube.com/watch?v=QMAk4ZWuqTQ

Andrei Tarkovsky/Nostalghia (CM)
https://www.youtube.com/watch?v=zP59oKDTqKo

Lucerne Festival Easter 2003
Akiko Suwanai, Pierre Boulez/Berg, Violin Concerto
Gustav Mahler Youth Orchestra
https://www.youtube.com/watch?v=wSUdZ0-7rWE
nice!(87)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

nice! 87

コメント 2

末尾ルコ(アルベール)

諏訪内晶子はチャイコフスキーコンクールでメジャーになって以来かなり長い間聴き続けていたのですが、ある時期を境にぷっつりと興味を失っておりました。
大貫妙子もそうなのですが、わたしの個人史の中で、強い興味を持っていたのにある時期にぷっつり興味を失うという事例が多々あることにこのところ愕然としてしまいます。
まあそれも人間という存在の一面なにかもしれませんが(←安易な一般化 笑)、わたしとしてはもっと粘り強く興味を持続させていかねばと反省する次第です。

というわけで、諏訪内晶子もこれからあらためて聴き続けていきたいですが、諏訪内晶子の「完璧さ」についても武満徹の変遷についても語れるほどのものを持ってないわたしですけれど、今回「ノスタルジア」を視聴させていただけるのはとてもよい機会を与えていただいたと嬉しく感じつつ聴いております。

『シネマの快楽』という蓮實重彦と武満徹の対談本でタルコフスキーの『ノスタルジア』が大きく取り上げられているのですが、印象的な言葉を少し引用してみます。

武満 ぼくは、とても好きです、この映画は。二度見て、二度目はさらによかった。一つの空間に様々な亀裂が見えて、十分に〈映画〉を感じることができたっていう気がするんです。堪能したなあ。二度目はなにしろ、最初から終りまで興奮していました(笑)。

蓮實 宇宙論的なイメージを追求する映画はたくさんあると思うんですけれども、この作品は、いかにして映画が宇宙に達するかという一つの答えを出したと思うんです。

武満 映画というものは、単なる知ではない何かもっと大きな思考へ人間をかり立てる力を持っていると思いますね。

・・・他にも多くの素晴らしい言葉がありますが、映画ファンとしては嬉しくワクワクさせてもらえるものばかりです。
映画を語る武満徹の、まるで子どものようなキラキラした雰囲気が大好きなのです。

今回リンクしてくださっている動画、まだ「ノスタルジア」を視聴しただけですが、順次愉しませていただきます。

・・・

> 何か普段と違う特異なことがあったときには、通常では起こらない現象が誘発されて起こることが

このような現象を一時期のわたしなら「単なる偶然」と見做そうとしていたのですが、それはどうやら間違いで、もちろんファナティックに何かを信じるのではなく、緩やかに、しかしより鋭敏にそうした「流れ」を感じていくようにしたいと思っています。
何事も「非科学的」なんていう単純な言葉で片づけるのではなく。
何よりも、緩やかにでもそうしたことを心身に取り入れる方が、人生よりおもしろく、しかも深まりますからね。

『PURISSIMA』、聴かせていただきました。
素晴らしいですね。
大貫妙子の歌唱の素晴らしさについてのお話を拝読しながら、「歌」についてもあらためていろいろ考えております。
世の中の多くの人たちは、大仰な歌唱を「上手い」と感じる傾向があり、それはまた大仰な芝居を「上手い」と感じる傾向も同様で、それ以外のより自然で高度な表現を下手すれば「下手」「大根」などと貶める傾向にも繋がっています。
あるいは「哀しみ」の表現がもっぱら俳優の号泣演技によるものになっているとか、どのような分野にしても、多くの日本人の鑑賞眼の低下は深刻です。

The Ventures/Nuttyの方は、EL&Pの演奏で親しんでおりました。

https://www.youtube.com/watch?v=y30jjHw0ecw

わたしもかつてであれば、EL&Pの大仰なプレイを有難がったでしょうが、今だとやはりヴェンチャーズの方がより愉しめます。
山下達郎はAI美空ひばりを批判したのですっかりファンに(笑)。

> 演劇が行われているという状態を映画にしたもの

それはまさに、(なるほど!)です。
いくつかそのスタイルの映画思い浮かびますが、確かに『旅芸人の記録』は凄かったです。
また観たくなりました。
よく思い出すのが、『旅芸人の記録』が公開された年はエルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』も公開され、年末のランキングでは前者が1位、後者が2位というパターンとなりまして、つまりこの2本が公開されたこと自体、文化的事件という感がありました。

> まずスマホを捨てることですね。(笑)

ですね~。
これまた「識者」の中には「今の減少」に擦り寄る人たちも多く、彼らはスマホによってどれだけのものが破壊・消滅させられているか分からないのだなあと情けなくなります。
「エヴィデンス」などなくても明らかなことって多いですよね。

> お行儀という言葉は昨今は死語です。

本当にそうですね。
このままだといずれ日本全体が後悔する日が来るでしょうね。
いや、後悔するだけの洞察力も無くなっているかもしれませんね(笑)。                  RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-02-23 16:39) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

ひとりの人をずっと持続して追っていくというのは
エネルギーがいりますし、好みは変わるものですから、
興味があったりなかったりという繰り返しで良いと思います。

映画監督は必ずしも誰でもというわけではないですが、
往々にしてパッショネイトな人生だったりすることが
多く存在するので、そんな中でタルコフスキーというのは
とてもシンパシィを持ってしまいます。
タルコフスキーとか、あとファスビンダーもそうですね。
ソラリスのとき、色彩がアグファカラーと言われましたが、
実際にアグファだったかどうかは別として
独特の色彩感覚はそれまでの西欧映画とは異なっていました。
ソラリスの原作はスタニスワフ・レムですが、
そしてレムはタルコフスキーの脚色を嫌ったそうですが、
私はタルコフスキーはソラリスの基本をよくおさえている
と思います。決してレムが非難するような作りかたではないです。
但し、両者に共通するのは 「暗い色」 ですが、
恐怖感においては映画より原作のほうが怖いです。

ノスタルジアはいわゆる様式美というのが
少し勝ちすぎているという感じもありますが、
トータルでみればとても美しい映画だと思います。
武満/蓮實の対談は読んでいませんが、
このお2人ならそのような結論になるだろうと理解できます。

岩波ホールの記録を見てみますと、
《木靴の樹》そして《旅芸人の記録》の公開が1979年ですが、
78年末から79年にかけてかかっていたのが
大ヒットになったヴィスコンティの《家族の肖像》です。
このあたりの畳みかけるような岩波の連続性はすごいですね。
《ソラリス》は77年公開ですが、78年の《ピロスマニ》
そして《木靴…》《旅芸人…》という3本が
非西欧的な意識に貫かれている作品だと思います。

単なる偶然は決して非科学的ではないのです。
まだ科学がそこまで解析できていないだけのことで、
何らかの関連性は当然ありますね。
でもまだ解明されていないので不思議という言葉で
かたづけられたりしているだけなのでしょう。

歌の巧拙は、ミュージカルで朗々と歌い上げるような
声を張った歌唱が一般的にうまいと認識されます。
それはハリウッドの潤沢な予算で製作された映画も同様です。
でもそれは経済的視点からだけ考えられた
一面的な見方に過ぎません。
鑑賞眼の低下というよりもマジョリティな価値観は
昔からそんなものだと私は諦めています。

ヴェンチャーズの演奏したNuttyのほうが
ELPのNut Rockerよりも早いです。
ただこれについて少し検索したのですが、
この元となったのは (厳密にいうといろいろあるのですが)、
B・バンブル・アンド・ザ・スティンガース
というバンドの演奏らしいです。
リズムのノリがヴェンチャーズもELPも同じです。

https://www.youtube.com/watch?v=Op2U-qGUDkg

美空ひばりのAIは単なる実験の一端であって、
話題にするにも値しないと私は思っています。
初音ミクと山下達郎を同列に論じられないことと同等です。

スマホについては宮崎駿も嫌っていました。
画面を触る手つきが性的ななにかを連想させると。(大笑)
もっと直接的な単語を使用していましたが、
あえて書きません。(^^;)
これはここだけの話ですが、
レストランで出てきた食べ物を写真に撮るという行為が
すでに私の礼儀としての感覚から逸脱しています。
でも、もうどうでもいいんです。
by lequiche (2020-02-24 01:51) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。