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戸田山和久『教養の書』を読む [本]

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Die Hard 3

戸田山和久は現在、名古屋大学大学院情報学研究科教授で専攻は科学哲学とある。肩書きだけ見ると厳しいのだが、この本は高校生から大学生あたりの読者を対象とした 「教養とは何か」 ということについて書かれたいわば入門書のようなもので、語り口がとてもくだけていて読みやすい。まぁつまり私のようなおバカな読者にちょうど適切なやさしい内容なのだとも言えるのだが。

まず具体例 (教材ということです) として提示されるのが映画なのである。しかも作品は《ダイ・ハード3》(1995)。監督ジョン・マクティアナン、ブルース・ウィルス主演のアクション映画だ。
マンハッタンでデパートが爆破された後、サイモン [ジェレミー・アイアンズ] というテロリストから次の犯行予告の電話がかかってくる。マクレーン刑事 [ブルース・ウィルス] へのご指名で、これをやらないと次の爆破をするぞという脅迫である。マクレーンが何をやらされたかというと、ハーレムの路上で 「I hate niggers」 という看板を身体に着けて立っていろ、というのだ。
そんなことをすればもちろんとんでもないことになるのは当然で、案の定、怖い人たちがゾロゾロとやってきてマクレーンは取り囲まれる。ところがそれを見ていたアフリカ系の男・ズースに助けられ、間一髪のところでタクシーに乗り込みその場を脱出するのだが、そのタクシーの中での会話が問題なのだ。
日本語字幕による二人の会話はこうである。

 「悪かったよ」 「ジュースと呼んだな?」 「違うのか?」 「ジュースじゃない。
 俺の名はズース (ゼウス) だ。ギリシャ神話に出てくる。ゼウスはたたり
 の怖い神だぞ。文句あるか」 (p.39)

これに対して、

 変だ。命からがら逃げおおせた直後なのに、何で名前の呼び間違いにつ
 いて議論しているんだ。緊迫感そがれること甚だしい。

という疑問が提示される。このシーンの正確な訳は次のようなのだという。

 「オーケー、ヘズース。巻き込んでしまって悪かったな」 「どうしてさっ
 きから俺のことをヘズースって呼ぶんだ。プエルト・リコ系に見えるか
 ?」 「さっきの奴がヘズースって呼んでたじゃないか」 「そうじゃない。
 あいつは 「ヘイ。ズース」 って言ってたんだ。俺の名前はズースだ」 「ズ
 ース?」 「ズース。オリンポス山の。アポロンの親父と同じ。俺を怒ら
 せるとケツの穴に雷落とすぞ、のズース (ゼウス) だ。文句あるか」
 (p.40)

ヘズースというのはJesusのスペイン語読みなので、だからプエルト・リコ系に見えるか、という言葉が出てくるのだというが、どうみてもズース (ゼウス) [サミュエル・L・ジャクソン] がプエルト・リコ系に見えるわけがない。でも、だからなに? なのは変らない。
さらにシーンが進むとわかりやすい答えがあらわれる。警察署に逃げ込んだ二人に再びテロリスト・サイモンから電話がかかってくる。二人でタクシーで逃げ出したのを物陰かどこかで見ていたサイモンは、マクレーンを助けた黒人を電話に出せと要求し、そして電話に出たズースに言う。「黒いサマリア人 [エボニーサマリアン] だな」。ズースが 「黒で悪いか」 と答えると電話は切れてしまう。

この部分は聖書の 「ルカによる福音書第10章」 の 「よきサマリア人の譬え話」 を指しているのだという。
正統派ユダヤ教に批判的で 「汝の隣人を愛せ」 と説いていたイエスに対して、イエスに間違ったことを言わせて、とっちめようとしていた正統派ユダヤ教の律法学者が 「私の隣人とは誰のことか」 とイエスに訊ねた。するとイエスは譬え話をした。
強盗に襲われ死にそうになっていた人がいた。通りかかった人が二人いたがどちらも 「死人を忌避する清浄の掟」 によって見て見ぬふりをして通り過ぎてしまった。ところがひとりのサマリア人が通りがかってその人を助けて介抱した。
そしてイエスは律法学者に対して 「だれが襲われた人の隣人になったと思うか?」 と問うた。律法学者はサマリア人としか答えるすべがなかった。するとイエスは 「あなたも行って同じようにしなさい」 と諭したのだという。
戸田山は次のように解説している。

 ヨルダン川西岸地区に住むサマリア人は、ユダヤ系ではあるが移民と混
 血しているため、汚れた者として正統派のユダヤ教共同体から排除され
 ていた。いわば異端だ。にもかかわらず旅人を助けた。イエスの譬え話
 は、「隣人と非隣人をあらかじめ区別しておいて、前者を助け後者を助け
 ないつもりですが、どこまでがわれわれの隣人でしょう」 という律法学
 者の問いが前提している線引きそのものを無効にしようとしている。隣
 人とそうでないものとがあらかじめ決まっているのではない。人は、助
 けることによって隣人になるのである。イエスは 「だれが強盗に襲われ
 た人の隣人だと思うか」 とは聞いていない。「隣人になったと思うか」 と
 聞いている。(p.42)

だが映画のその前のシーンで、ズースは子どもたちに説教している。ズースは白人が嫌いなので、黒人が助けるのは黒人、白人とは関わるなと言っていたのだ。これが伏線である。ところがそんなズースが結果としてマクレーンを助けることになってしまった。実は白人なんか助ける気はなかった。だが、ズースがマクレーンを助けたことによって二人は隣人となってしまった、という意味なのだというのである。
このように 「ウェルメイドな作品はたいてい二重構造になっている」 と戸田山はいう。エンターテインメントのアクション映画だからといって見くびってはならないのだ。
たとえばジャームズ・キャメロンは映画《ターミネーター》について、このように言っているのだという。

 まずは、12歳の子が、こんなイケてる映画見たことがないって思うよう
 な、結末目指してまっしぐらのアクションとして。そして、スタンフォ
 ードの45歳の英文学教授には、ある種の社会的政治的 [ソシオポリティ
 カル] な意味合いが隠されていると思っているようなSF映画として。
 (p.44)

ということからすると、

 二人が同じ映画を見て 「おもしろかったねー」 と語りあっているとして
 も、知識量が異なれば、同じレベルで楽しんでいた保証はない。(p.45)

というのだ。
つまりある程度の常識 (共通の知識基盤) が無いと理解ができないことがある。その常識の基本となるものが古典であるのだという。聖書の知識というのもその一端であるし、映画に例をとっても、《ライオン・キング》はハムレットがベースであるし、黒澤明の《乱》はリア王が、《蜘蛛巣城》はマクベスであり、《ブリジット・ジョーンズの日記》はオースティンの高慢と偏見であり、ミルトンの失楽園を元としてメアリー・シェリーのフランケンシュタインがあり、さらにそれを元としたのが《ブレードランナー》であるという (黒澤の映画が海外で評価が高いのは、そのベースとする作品に対して日本人より身近に感じるからなのかもしれない)。

そして戸田山は古典とは何かについて次のように定義している。

 「当然知ってるよね、だからこっちも知っていることを前提として進め
 させてもらいますよ」 という態度が独り善がりにならない程度の大きさ
 の集団に対して (できれば国境を越えて、長期にわたって) 通用する作
 品なら何でも 「古典」 なんである。(p.46)

だが映画の字幕は文字数が制限されているだけでなく、「これくらいなら当然知っているはず」 という知識がもはや観客に期待できなくなってしまったので、もとのセリフにある複雑さを削ってしまわざるを得ない、といっている字幕製作者の言葉も紹介されている。なかなかきびしいお言葉です。

《ダイ・ハード3》に戻ると、テロリスト・サイモンの仕掛けたゲームは、つまり 「Simon says」 という子どものゲームから来ていること。だからテロリストの名前がサイモンなのだ。ちなみに1910 フルーツガム・カンパニーというグループの〈Simon Says〉という1967年のヒット曲がある。


戸田山和久/教養の書 (筑摩書房)
教養の書 (単行本)




Die Hard 3:I hate niggersのシーン
https://www.youtube.com/watch?v=t8DJGw3rIwI

Die Hard 3:タクシーのシーン
https://www.youtube.com/watch?v=owUwqwyZw80

1910 Fruitgum Company/Simon Says
https://www.youtube.com/watch?v=SU1kpIAq0GA
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末尾ルコ(アルベール)

最近極小のテレビからどうにか大きめのテレビを買えたおかげで、前にも書きましたけれど、自宅での映画鑑賞のおもしろさが格段に増しております。
映画館での鑑賞が至上であるのは当然ですが、一度の映画館鑑賞ではいかに映画を観慣れていても、その画面の大きさに圧倒されて、その内容のディテールを把握するのは困難ですよね。
その点ある程度以上の大きさのテレビで、特に映画館で鑑賞済みの作品を観直すと、(ああ、ここはこうだったんだ)という発見が無数に出てきます。

> 「ウェルメイドな作品はたいてい二重構造になっている」

そうですね。
さらに優秀な監督の作品となれば、三重、四重、五重・・・それ以上になっていることもあるのでしょうね。
だからこそクオリティの高い映画は何度観てもおもしろい。
ハリウッドアクション映画にしても、そこへは世界から才能が集まっているわけですから、日本を含め他国の追随を許さない部分は、その莫大な予算だけでなくクオリティにおいて常に感じています。
それと米英、そしてフランスなどではまだまだ批評が力を持っているという状況があって、批評は間違う場合もありますが、結果的には作品を鍛え、磨く効果も成していると思います。
社会の中で批評が生きているということは鑑賞者の批評眼も磨かれているということですから、この辺りの事情も日本とは大きく違っています。
もちろんわたしが『ダイ・ハード3』の、挙げておられる会話に関して十全に理解していたわけではありませんが(笑)。
それと日本の場合はどうしても「あうんの呼吸」とか「背中を見て分かれえ!」とかいう文化が長く続いてましたから、「台詞を磨く」という点においては、もちろん素敵な台詞も存在しますけれど、基本的に欧米のようには行かないですよね。
今後は分かって行かねばならないと思いますが。

> 知識量が異なれば、同じレベルで楽しんでいた保証はない

これはもう、映画だけでなく、あらゆる芸術について語り、語り合ううえで常に念頭に置いておかねばなりませんよね。
ここを理解できてなければ、コミュニケーションが成り立たないだけでなく、下手すれば大恥をかいてしまいます。
そして欧米の文化を少しでも深く理解しようとするならば、最低限『聖書』とギリシャ神話はある程度以上知っておくべきだといつも思います。

・・・

> 本は雑多に買ってしまうので読書が追いつきません。

ですよね~。
わたしの場合、古本屋にもどんどん手を出すし、ついつい図書館でも借りてしまいますので、読了した本よりも未読のものが増えるばかり。
でもこの辺でピッチを上げたいなとは思ってます。

> なんでもクリアできれいで無傷でなくてはならない、という切迫感には病的な意図を感じます。

ですよね~。
それとテレビなどで「クリアだぞ、クリアだぞ」と言って売って行く必要があるので、
「クリアこそ最上価値」のように企業やメディアが洗脳しようとしているような意図も感じます。

『地下鉄のザジ』、わたしも大好きです。
残念ながら映画館で全編鑑賞したことはないのですが、一部スクリーンで観た時にその立体感に驚きました。
空間の表現が凄いな、と。

> 「いいえ」 が内包されているのです。

へえ~。
でもきっと、lequiche様のお記事にもわたしの気づかない素敵なカラクリが無数に籠められているのだろうと想像してしまいます。
さらに入念に拝読させていただこうっと♪

高知も少し前に知事から「緊急事態宣言一歩手前」という言葉がでましたが、ここ2日ほどはやや落ち着いています。
ただ高知でさえも、人々がお互いを警戒し合いながら行動し始めた感があって、雰囲気は重いです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-04-15 09:45) 

英ちゃん

ブルース・ウィルスは、今ソフトバンクのCMでドラえもん役をやってるね(゚□゚)
by 英ちゃん (2020-04-15 15:57) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

大きいテレビ、ご購入おめでとうございます。(^^)
家でDVDなどで観るのでしたら何度も繰り返し可能ですから
気になる部分を観るのには便利ですね。

戸田山先生によれば、
映画で何か気になる箇所があったとしたら、
それが偶然ということはありえないので
何かしらの意味がある、ということです。
もっとも教材の《ダイ・ハード3》の場合、
セリフはとても聞き取れませんので、ああそうなのか、
と納得するしかないのですが。
ただ、脳ミソ空っぽ映画みたいに見えるダイ・ハードでさえ、
これだけの仕掛けがあるという指摘なのです。
でも字幕の字数が多過ぎると読み切れませんから
どうしても短縮して、その際、むずかしい表現は落ちてしまう
ということがあるようです。
ウディ・アレンの映画で字幕が3行のがありましたが
私の感覚では3行だと無理です。2行までですね。
3行あると肝心の画面が見られなくなってしまいます。

批評の強さに関してはその通りだと思います。
日本はもはやあまりきびしいことを言わず
ちょうちん記事でしかないのがほとんどですから。
それは映画だけでなく他のジャンルにもいえます。
骨のある批評が少ないのは文化の衰退であると思います。

欧米の作品の場合には聖書は必須ですが、
やはり一般的日本人には苦手な部分ですね。
経験値が少ないですから。
ジャズのアドリブには、
アドリブラインの中にチラッと他の曲のテーマを混ぜたり、
さらには有名な他のプレーヤーのフレーズを入れたり
という手法があります。「これ、わかるかな?」
というプレーヤーからリスナーへの挑戦です。

本をいわば資料として買っておいて、
でも何かのとき必要になることは必ずあります。
そういうとき、図書館はほとんど何の役にもたたないのです。

もちろん、ぼんやりとしているよりは
くっきりしているほうがいいとは言えますが、
だからといって不自然さが出てしまうのはどうかと思います。
写真でもあまりにも青過ぎる空とか、
最近のデジカメの画質にはそういう傾向があります。
コントラストが強過ぎるんですね。
塩をいっぱい使ってメリハリをつけている料理に似ています。

大貫妙子に〈地下鉄のザジ〉という曲がありますね。
https://www.youtube.com/watch?v=pVQ-KAYvV4M
ルイ・マルは紀伊国屋書店から出たDVD-BOXを持っています。
全3巻で代表作は大体入っていますので。

今回の記事はからくりというほどではありませんが、
前回のハンク・ジョーンズの記事の中にある
negroとniggerの対比についての部分でつながっています。
つまり前回の記事を書いた時に、次にこのI hate niggersを
書くことをあらかじめ想定していました。(笑)
by lequiche (2020-04-16 01:47) 

lequiche

>> 英ちゃん様

トヨタのCMではジャン・レノでしたね。
ドラえもんは格が高いのかもしれません。(^-^)/
by lequiche (2020-04-16 01:47) 

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