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戸田山和久『教養の書』を読む・1.10 [本]

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いきものがかり

いきものがかりの〈Yell〉は合唱コンクールや卒業式で歌われたり、今ではスタンダードになりつつあるけれど、この歌詞は結構ヤバいと思う。それはここです。

 サヨナラは悲しい言葉じゃない
 それぞれの夢へと僕らを繋ぐ Yell
 ともに過ごした日々を胸に抱いて
 飛び立つよ 独りで
 未来 [つぎ] の空へ

ここから私が連想してしまうのはトマス・M・ディッシュの『歌の翼に』なのだが (そのことについてはすでに書いた→2014年02月01日ブログ)、最近、ミンストレル・ショーというのを遅まきながら知ったこともあって、時代風俗なるものが歴史とか人の記憶などにいかに残りにくいかということを知ったのだが、それはともかく、今この曲が煩雑に流れてくるのは、この世界情勢に対して元気づけのつもりで 「エールを送ろう」 という意味での〈Yell〉なんだろうけれど、それはちょっとなぁと思うわけです。まさに前記事で書いたようなダブル・ミーニングを読み取らないと。そういう意味でこれは悲しく暗い歌です。そして私にとってとても大切な歌でもある。

この本 (『教養の書』のこと) を読んでいて、その本筋とは少し外れるのだけれど面白いと思った部分をピックアップ。つまり脱線なのでそんなにマトモに読んでいただかなくていいのですが、それはパターナリズムを解説している部分です。

  聖職者、官僚、政治家、法律家、学者 (ひっくるめて専門家と呼ぼう)
 は、しばしばパターナリスティックな姿勢をとりがちで、人々もそれを
 よしとしてきた。「専門家の分業」 は近代が生み出した効率的な問題解
 決の方法だった。専門家がいいように考えてくれるってんだから、何も
 言わずにお任せしておこう。信じてついていこう。
  ……これでうまくいっているうちはよかったんだが、ここにきて綻び
 が目立ってきた。使用済み核燃料の処分をどうするか見当もつかないう
 ちに日本中が原発だらけになった。若者の人口が減り相対的に高齢者人
 口が増えることはとっくにわかっていたのに、年金が破綻寸前になるま
 で放っておいた……。こういうことを目の当たりにすると、「えっ。考
 えてくれてたんじゃなかったの」 と言いたくなる。専門家は集団になる
 と、ときに恐ろしいほどの無能さをさらけ出し、そしてそのことに責任
 をとろうとしないことが明らかになってきた。(p.151)

この部分は別に今、タイムリーに書かれたものではなくて数年前に書かれている内容なのだが、それが今の情勢にぴったり当てはまってしまうのは、そうしたパターナリズムの腐敗は顕在しているし、各分野で起こりつつあり、現在も起こっているということをあらわしているのだと思う。
それとこれは抽象的に言うのだけれど、たとえば無能な店主とかおバカなご主人様がいたとしても、それを補佐する有能な番頭さんとか名執事みたいなのがいてバランスがとれていたことは昔はよくあった。愚鈍な国王とか領主に対してそれをうまくコントロールして諌言する黒子、つまりブレーンがいたはずなのだ。それが世界の全き均衡なのだとすれば、ル・グィン的な言い方をすると現代はその均衡が崩れてきつつあるのだろう。愚鈍な王と悪辣な宦官のペアだったら国は滅んでしまうのである。

AIに関する次の解説も面白くて笑ってしまった。

 第二に、ある職業が無くなるかどうかは、スキルの機械化可能性だけで
 決まるわけではない。人工知能にとって代わられる可能性の最も高いも
 のは事務仕事だが、事務の権化である官僚の仕事はちょっとやそっとで
 はなくなりそうにない。というのも、官僚の仕事の主な目的は、彼らの
 仕事を維持することなんじゃないかと思わせるところがあるから。
 (p.121)

マイナンバーが機能しないのは、機能しないのではなくて機能させないようにしているのに他ならない。上記の戸田山のような視点で見ればその目的とするものが明瞭になる。そもそもマイナンバーを通知してきた書類のケシ粒のように小さい文字を見れば、そうした書式を通してしまった機構がいかに無能なのかがわかるはずだ。

で、だからといってそうして専門家に丸投げしたままだったり、あるいは文句を言っているだけではだめで、ではまっとうな市民は 「私も一緒に考えさせろ」 と言うべきなのだと戸田山は書いている。ここで使われている 「市民」 という単語はつまりシトワイヤンの意味であると思う。
他人任せにするのではなくて少しでも自分で考えようとする姿勢が必要で、古い言葉でいうのならばサルトルのアンガジュマンの思想をもう一度振り返ってみることがいいのかもしれないとも思う。

いきものがかりに戻ると、エールはつまりエールでなく悲嘆のように私には聞こえてしまうし、そして 「今だけは悲しい歌 聞きたくないよ」 と思ってしまうのも事実なのだ。
ん〜、軽く書こうと思っていたのにカタいなぁ。さっきTVで王林ちゃんのグアム・リポートを観ていて、これいいなぁと見入ってしまったわけです。グアムがいいんじゃなくて、王林ちゃんがいいんですね、その津軽弁が。そしてもちろんそのやわらかさが。でもアキュアのりんごジュースでは、私は 「王林」 じゃなくて 「トキ」 が好きです。


戸田山和久/教養の書 (筑摩書房)
教養の書 (単行本)




いきものがかり/Yell
https://www.youtube.com/watch?v=OPV9DK0lfNw
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末尾ルコ(アルベール)

いきものがかりはやや敬遠していたのですが、今後また偏見なく聴いてみます。
いきものがかり自体がどうこうと言うよりも、メディアの取り上げ方にどうこう関いていたのですが、それは彼女らの音楽とは関係ないですよね。

パターナリズムに関してはわたしも常々同じような感覚を持っておりました。
(専門家様がやってるんだから、素人は黙ってろ!専門家様の与えるものを有難く頂戴してろ!)という態度、既に破綻しておりますよね。
もちろん(知ろう)という努力をしない人間が何でもかんでも口を挟もうとするのは「モンスター~」に繋がりかねませんが、しかし「専門家にお任せ」という意識が日本人は強過ぎる敵視的・文化的背景があり過ぎました。

> 専門家は集団になる と、ときに恐ろしいほどの無能さをさらけ出し、そしてそのことに責任をとろうとしないことが明らかになってきた。

まったくその通りだと思います。
こうした意識や態度は多く醜悪な様相さえ呈しておりますね。
もう変わるべき時だと思います。

> サルトルのアンガジュマンの思想をもう一度振り返って

これまた実はわたしもこのところアンガジュマンについて調べてみたいと思っていたところなのです。
かつてサルトルら実存主義者は一種のモードでもあったわけですが、そしてもちろんわたしはリアルタイムでは知りませんが(←若さを強調 笑)、実存主義が歴史の1ページのような位置になっている今こそ、その新たな価値が見えてきそうな気がしてます。
ぜんぜん話は違いますが、ラジオでプリプリの奥居香がキルケゴールの名前も聞いたことない的なことを言ってまして、彼女は53歳ですがまったく聞こえて来なかったものかなあと、やや怪訝に感じました。

最近フルーツはチリ産のブドウをよく食べてます。

・・・

> セリフはとても聞き取れませんので

ニュースの英語やフランス語は比較的容易に聞き取れますが、映画は難しいですね。
一般の米国人がベラベラ早口でまくし立てる英語よりは聞き取りやすいでしょうが、入念に練られた外国語の台詞を瞬時に聞き取って理解するのは至難の業です。
でもそれはネイティブにも言えるでしょうね。
「教養」という言葉が相応しいかどうかは分かりませんが、あるものを理解出来るためのベースの有無や多い少ないは極めて個人差があります。
常にベースを広めたり深めたりという努力をしていないと、文化芸術に対する理解力は浅く狭いままになりますね。

字幕の問題は根深いですね。
わたしは基本字幕派ですが、吹き替えを好まれる方も多く、その理由もよく理解できます。
何よりも画をじっくり観ることができますからね。
わたしもたまに吹き替えを愉しみますが、どうしても「吹き替え調」の言葉遣いになってしまうし、本物の俳優の声とはかけ離れたイメージの声の声優がやることも多いですし、その点はどうなのかなあと。

大貫妙子の『地下鉄のザジ』、久々に聴きました。
とてもプリティですね。
ふと思い出したのですが、加藤和彦のタイトルは忘れましたがある歌の歌詞の中に「ドミニク・サンダ」という名がでてくるものがあり、初めて聴いた時は(気取っちゃって~)と思たのですが、今となっては「ドミニク・サンダ」が共通言語である空間は羨ましいなと感じてます。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-04-19 09:47) 

NO14Ruggerman

いきものがかり<Yell>・・よく耳にするメロデイですが
改めて歌詞を読み込むと意味深ですねw
なぜかユーミンの<ひこうき雲>を連想してしまいました。
(こちらはストレートな歌詞なんでしょうが)
by NO14Ruggerman (2020-04-19 12:58) 

にゃごにゃご

なんとかなってるように、他のものに目を向けさせて、
だまくらかしてきましたからね。
今回も、喉元過ぎれば熱さ忘れる。になるんでしょうか。
by にゃごにゃご (2020-04-19 13:35) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

戸田山先生は認知心理学の説明で 「認知バイアス」
という言葉を使っていますが、バイアスはつまり偏見のことで、
人間は必ずしも正確にものを見ることができない
というようなことを語っています。
これと共通する認識だと私は思っているのですが、
先日の木村拓哉の写真のときにも
他のかたへのコメに書いたのですが、
「ジャニーズだからダメ」 というふうに脊髄反射して
最初からカテゴライズしてバイアスをかけてしまうと
それ以上に視点が開けません。むしろ視野狭窄します。
でもそういう偏見は多いです。
私は世間一般の評価は単なる参考だとしか考えていません。
自分の判断力しか信じませんし、
それはいきものがかりへの認識でも同じです。
バイアスをかけてしまうのは
最初から受賞者が決まっているコンクールの審査のようで、
でもそういうバイアスがまかり通っているのは
そのほうが考えずに済むので楽だからなのだと思います。
それがパターナリズムにも同様に当てはまります。
政治家や学者って、ある意味、そんなに頭が良くないのです。

実存主義から構造主義へ、みたいな流れとかありますが、
それは一種のモードというかトレンドですね。
思想というより 「もの」 のとらえかたとして考えてみますと
何々主義というカテゴライズを標榜するよりも、
その本質が何かということのほうが重要だと思います。
日本の政治の本質は、特に地方においては
隣組の領域をいまだに出ていなくて、原始的であり、
シトワイヤンにすら達していないのです。
なぜなら村落共同体でcité以前だからです。(笑)
隣組は相互に見張らせるという狡猾な方法論であり、
戦前の隣組信奉な帝国主義の亡霊はまだ顕在なのです。
極端な言い方かもしれませんが。

これも戸田山先生の言い方から敷衍すれば
プラトンのイドラなのですが、
つまりイドラは居心地がよくて物を見る目を失ってしまう
というのが昨今の日本の政治的状況だと思います。
専門家にすべてお任せして自己判断を放棄している状態が
小選挙区制の最大利点で為政者の愚民政策であり
思うツボなので、すべてが停滞したままなのです。
停滞しているだけでなく流れがないので腐敗しつつあります。

奥居香とキルケゴール…………それは……、
失礼かもしれませんが無理というものです。

「教養」 というのはいわゆる一般常識を基にしていますが、
その一般常識のレベルがどんどん下がってきています。
その責任の一端として大学の教養課程が無くなってしまい
大学が単なる経済活動のための専門学校化してしまったこと
というふうに戸田山先生は分析しています。
キルケゴールどころか夏目漱石だってアブナイものです。
漱石はむずかしい言葉が多くて
そのままではよくわからないらしいですから、
そのうち現代語訳が必要になってくるのかもしれません。
{もう存在していたりして}

映画は基本的にはエンターテインメントですから、
なるべく負担を感じないで鑑賞できるほうがよいのでしょう。
それについては仕方がないと思います。
娯楽であり、わかりやすいこと、それがすべてです。
村落共同体ですから。(コラコラ ^^;)

加藤和彦のドミニク・サンダの曲は〈女優志願〉です。
安井かずみの作詞で、
《あの頃、マリー・ローランサン》というアルバムの収録曲です。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm26095243

これは1983年のアルバムですが、
1981年の《ベル・エキセントリック》の次のアルバムです。
加藤和彦が最もすぐれたアルバムを連発していた頃ですね。
ちなみには1981年に大貫妙子の《Aventure》
というアルバムがリリースされていますが、
この中の〈ブリーカー・ストリートの青春〉の編曲は
加藤和彦です。名曲です。

ブリーカー・ストリートの青春 31:55〜
(画面下のバーで、当該時刻あたりをクリックしてください)
https://www.dailymotion.com/video/x4lf2t0
by lequiche (2020-04-20 04:21) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

〈ひこうき雲〉もそうですが、
この曲の場合はもっと巧妙で
ほとんどがダブル・ミーニングになっています。

 たとえ違う空へ飛び立とうとも
 途絶えはしない想いよ 今も胸に

という部分も 「違う空」 って何ですか?
と突っ込むことができます。
つまりsuicide songというふうにとらえることが
可能だといえます。
by lequiche (2020-04-20 04:22) 

lequiche

>> にゃごにゃご様

災禍の原因はオリンピック開催を死守しようとしたことです。
国民なんか死んでもいいからオリンピックのほうが大事!
なぜならそれが為政者を最も経済的に潤すはずだったからです。
でも失敗しました。
オリンピックは次のロンドン開催ができたらいいね、
という状態ではないでしょうか。
つまり災禍終息まで、あと4〜5年はかかるはずです。
この際、金の亡者の群がるオリンピックは
その精神性が滅びてしまったので、廃止するべきだと思います。
by lequiche (2020-04-20 04:22) 

U3

lequicheさんこんにちは。
>マイナンバーが機能しないのは、機能しないのではなくて機能させないようにしているのに他ならない。
 まさにその通りで、例えば、一律10万円給付においてドイツや英国のように一週間もしないうちに速やかに現金が個人口座に振り込まれないのは、そういう理由だったのかと納得させられる内容だ。
 5月中に振り込むと高市早苗総務相は発表したが、またぞろ「アベノマスク」のように一週間もしないうちに全品回収を余儀なくされるような不具合が生じて、遅々として給付が遅れるのは今から眼に見えている。所詮バカを(選挙で)選ぶ、バカ(有権者)がいる以上、世の中はいつまでも理知的かつ合理的には機能しないし、まともにもならないのだと思う。すべてが合理的でなければならないとはいわないが、今の安倍政権のように、すべてが恣意的では何を頼りにしたら良いのか誰も分からなくなってしまうだろう。
 思うに、小生が今の日本人を称して『共馬鹿相互依存症候群』という、他人に長きにわたって判断を委ねる状態が続くと、脳機能自体が鈍化していずれ何も考えない状態になる「無思考脳機能弛緩状態」に陥ってしまう、という説を裏付けている様に思われる。そうなれば今の日本人は、やがて世界の趨勢から取り残されるだけだろう。
 まあそれも自業自得だが。
by U3 (2020-04-24 15:23) 

lequiche

>> U3 様

コメントありがとうございます。
日本の官庁がいかに国民のことを考えていないかの例として、
たとえば毎年末に提出する年末調整書類があります。
あの一番上の欄に自分の名前や住所などを書くのですが、
記入欄が小さ過ぎませんか?
それが毎年毎年繰り返されているのに誰も文句を言わない、
とても不思議な我慢強い国民だと思います。
こうした公共的書類はもっと書きやすいように
デザインされていなければなりません。
でもそれを検証する機関も人も、どこにも無いのです。

一方で免許更新の際に、必ずパンフレット類を渡されます。
総カラーページの上質な用紙の本が2〜3冊、
でもほとんどはすぐに捨てられます。
あんなに立派な本を配布する必要は無いと思います。
でもやめない。それは利権がつきまとっているからです。
もっとも免許更新所そのものが天下りの利権ですが。

マスクも同じです。
実際に手にとっていませんが、あれだけ大量のマスクが
1枚200円って大暴利ではないでしょうか?
そのことに誰も突っ込みません。不思議です。
たぶんマスクにも利権がつきまとっていますし、
しかも任意の数社に何の相見積もなく発注されています。
こうしたとき、だいたい考えられるのは 「バック」 ですね。
口をきいてやったんだから何パーセントかバックしろ、
というあれです。
腐った為政者にとっては国難でもなんでもなくて、
コロナで一儲けということしか考えていないのです。
by lequiche (2020-04-26 01:40) 

うりくま

Yellは曲調も悲壮感が漂う短調だし、最初に聞いた時
旅立ちを祝うようには聞こえず、何の決意を固める気
なのかと不吉な感じがしてゾッとした覚えがあります。
やはりそういう意味にもとれますよね(^^;)。

相変わらずNHKの回し者みたいで恐縮ですが、現在の
朝ドラ「エール」も、古関裕而が結果的に戦争に協力
してしまう辺りをどう描く事になるか興味があります。

「日本人のおなまえ」という番組でもエールには本来
「応援する」という意味なはく、「叫ぶ」などのネガ
ティブな意味で使われたみたいな事(不確かです)を
言っていました。まあ青春歌謡のいきものがかりが
(嫌いじゃないです)そこまで考えていたというのは
穿ち過ぎのような気もしますがw。

ところで応援ソングといえば、米津玄師の「カイト」
もなんだかオリンピックを応援する気があるように
聞こえないのは私だけでしょうか。 東京2020は
夏は快適だとか復興五輪だとか大嘘ついて招致した
所から間違っていましたが、そうまでして呼びたい
旨味がある方達が大勢いたということでしょう。
オリンピッックが経済成長に繋がったのは過去の話で
規模が巨大すぎる今では破綻する国が増えるだけ。
競技別で充分だと思います。
by うりくま (2020-04-26 02:26) 

lequiche

>> うりくま様

不吉な感じがしますね。
卒業式などで歌われるという話をはじめて聞いた時、
えっ? っと絶句しました。

yellのという言葉がどのあたりから来たものなのか
語源がよくわかりません。
アルファベットのX、Y、Zは本来の英語には無い文字で
英語の辞書を見ればわかりますけど、
X、Y、Zの項目はページ数が少ないはずです。
フランス語の辞書ではもっと少なくてほんの数ページです。
Yはフランス語ではイグレックと言って
イー+グレックでグレックとはグリークのことですので
ギリシャの 「イー (iのこと)」 という意味です。
つまり英語から見てもフランス語から見ても
Yは外来種の文字ということです。
KやWも外来種なので、本来のアルファベットって
20文字くらいしかないのです。

いきものがかりの作品はリーダーの水野良樹が
作詞作曲しているのがほとんどですが、
この人、そんなに簡単には書いていません。
ダブルミーニングな仕掛けは松任谷由実よりもあります。
YELLの歌詞の問題点は下記の箇所だと指摘しましたが、

 飛び立つよ 独りで
 未来 [つぎ] の空へ

〈さよなら青春〉という曲にも次のようなフレーズがあります。

 今だけを生きて
 今だけを生きて
 それぞれの未来は もう違う空

これ、同じ意味ですよね。
次の空、違う空というのは別の土地で別々に暮らす
という意味にもとれますが、
この世とあの世というふうにもとれます。
このようにさりげなくダブルミーニングがあるのは
最近のJ-popの歌詞の常で、いきものがかりに限りません。
というようなことが日曜夜の音楽番組《関ジャム》では
よく問題にされています。
いきものがかりはそこまで考えて書いていると思います。
ヒットした〈SAKURA〉にも死のイメージがあります。
米津玄師の〈カイト〉も応援歌とオーダーされたのでしょうが、
そのようにも聞こえますし、そうでないようにも聞こえます。
これも一種の〈目くらまし〉です。

こうしたダブルミーニングの総帥は
次のブログ記事にも書いたショスタコーヴィチです。
ショスタコーヴィチの音楽は退嬰的・資本主義的と
当時の政府から糾弾されましたが、それをくぐり抜けるために
どちらにもとれるような音楽の作り方をしました。

オリンピックはあるときからその精神性が失われました。
ドーピングしてまで記録を出そうとしたジョイナーは
その結果、亡くなりました。
命よりお金のほうが優先していたからです。
冬季オリンピックの表彰台では選手は必ずスキー板を
メーカー名がわかるように揃えていますし、
髙梨沙羅のメイクが抜群になったのも資生堂がついたからです。
商標ベタベタのF1とたいして変わりません。
一種の商業イヴェントなのですから、
国家や都市でなく大企業が主催するべきなのだと思います。
by lequiche (2020-04-26 14:52) 

うりくま

>そこまで・・というのは、この曲に叫ぶ・怒鳴る
等の意味があるとは思えない、というつもりで書い
たのですが言葉が足りずすみません。(カレッジ
エール=自らを応援するという意味があるとか。)
いきものがかりをはじめとするJ-POPを侮っては
いけませんね。今後は裏の意味を考えつつCDを
聞いてみます。勉強になりました(m^^m)。

サラちゃんの変貌ぶり、そうだったのですか!
いろいろな事をよくご存じですね(゚o゚;)。
オリンピックは大企業が主催すべきというのも
納得しました。そうすればシューズや水着も
規制されることなく開発・お披露目できて、
売上もアップ。CM契約で選手は生活や遠征費用の
心配をせず練習に打ち込めて、F1と同じと思えば
腹も立たず。リスクを恐れて立候補する都市も更
に減るだろうし継続するならそれが現実的ですね。
by うりくま (2020-04-26 23:00) 

lequiche

>> うりくま様

あ、それは失礼しました。
確かに英語本来の 「エール」 の意味ではなくて、あくまで日本的な意味での 「エール」 だと思います。

2016年に水野良樹が戸谷洋志と対談している記事が Raal Sound というサイトで読めるのですが、水野はその中で、

 「YELL」についても、14歳と15歳の子は、この曲の本当
 の意味を理解しないで歌っていると思うんです。ただ、こ
 れが5年経って、場合によっては身近な人が亡くなったり、
 まったく違うような人間になったりして、別れをより意識
 する経験がどんどん増えていくなかで「ああそういうこと
 だったのか」と思うような歌なんだと思っているんですよ
 ね。

と言っています。YELLは合唱曲として委嘱されて書かれた曲なのですが、中学生相手だからこのくらい、というふうに手加減していないんです。人生の中で親しい人と別れる悲しみは卒業してバラバラになってしまったりということに限らず、必ず起ってくるし、そして人生というのはそういうものだということが年齢を重ねることによってだんだんとわかってくるはずだ、という前提でこの歌詞を書いたのだというふうに私は受け取りました。
その水野の発言に対して戸谷は 「水野さんの作詞に対する思いはハイデガーに似ている」 と言っていますが、これは〈YELL〉の歌詞の冒頭にある

 「“わたし” は今 どこに在るの」 と
 踏みしめた足跡を 何度も見つめ返す

というこの部分のことだと思います。
「“わたし” は今 どこに在るの」 というのはハイデガーのダーザインという概念のように考えられます。

対談の全文はこれです。
https://realsound.jp/2016/12/post-10710.html

《関ジャム》ではJ-popの歌詞の中での注目すべき曲として、たとえばスピッツの〈ロビンソン〉が取り上げられていました。あらかじめ注意して聴くと、かなり意味深な歌詞です。

オリンピックでもうひとつ、よく言われているのが、オリンピックといいうものは本来、個人のものであり、国威高揚の場ではないということです。でも現実には、国別対抗戦になってしまっています。
チケットの価格も、見たいという人が多くて競争率が高いからそうなってしまったのでしょうが、あまりにも高額だったのでそれを知ってびっくりしました。私の感覚がおかしいのでしょうか。
そういったことも含めて、オリンピックは一度解体したほうがいいのではないかと思います。
by lequiche (2020-04-27 05:24)