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『赤江瀑の世界』を読む [本]

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かつて紀田順一郎と荒俣宏が編集をしていた『幻想と怪奇』という雑誌があった。1973年から1974年頃に出版されていた雑誌で、タイトル通り幻想文学や怪奇小説を掲載していたとのことである (細かいことだが幻想小説とか怪奇文学という表現はあまり使わなくて、幻想文学・怪奇小説が一般的である。不思議だ)。かなり昔の雑誌であるので実物を見たことはない。その雑誌が復刊されたとの記事をどこかで読んで書店に出かけたら第1号と第2号が並んでいたのだが、その並びに 「え?」 と思わず目を引くタイトルの本があって、一緒に買ってきてしまった。それが『赤江瀑の世界』である。内容としては別冊文藝の作家別の特集のような印象もあるのだが、カバー装されていてやや豪華だ。赤江瀑の作品幾つかと、彼に対する評論やエッセイなどで構成されている本である。

赤江瀑って久しぶりに見た名前のような気がする。パラパラと読んでみる。山尾悠子の短いエッセイがある。まだ彼女が駆け出しの頃、赤江瀑の文庫版の解説を書いたことがあるとのこと。そして赤江瀑本人に会ったことなど。でも、それより山尾が赤江瀑との出会いとして書いている部分がある。

 赤江作品との個人的な出会いは学生時代の京都の地でのこと。今はなき
 京都書院イシズミ店は河原町通りに面し、歩道から段を下った地階にあ
 った。その売り場へと降りていきながら、真正面にある新刊平台の『罪
 喰い』表紙へと視線が向いたときの鮮やかな光景を忘れることはない。
 そのとき背後にあった河原町の喧騒も忘れない。(p.138)

それは予感であり発見である。本が自分を呼んでいる気配がするときが、滅多にはないが確実に存在するのだ。山尾悠子が書いているのもまさにそのようなことであるはずだ。それは一種の小さな神秘である。

そしてその後のページにある鼎談が面白い (p.140)。皆川博子、森真沙子、篠田節子という3人の女性作家によるわいわいがやがやした赤江瀑に関する話題。『幻想文学』第57号 (2000年発行) の再録とのことなので20年も前なのだが、時を超えて楽しく読んでしまう。3人とも赤江瀑フリークであり、そのミーハーともいえる噂話っぽいのが心地よい。
篠田は、

 私は日本の近代文学は嫌いなんですよ。すごく偏った趣味で、鏡花、谷
 崎という流れのものしか読まなかったんです。大衆小説はこれまた文章
 が好きじゃないんで全然読まない。読むのはごく一部の翻訳の幻想小説
 に、日本のそういう流れのごく一部のものだけという、すごく貧しい読
 書体験しかして来なかったということがあって……。

と語っている。とても納得しながら読んでしまう。
皆川博子の発言で、赤江が夢野久作を脚本化した演劇があったことを知った。それは 「あやかしの鼓」 であり、1981年に西武劇場にて上演されたのだとのことである (p.251からの略年譜による)。石澤秀二演出で、主演はピーター。「あやかしの鼓」 は最も好きな夢野作品であり、私にとっては 「ドグラ・マグラ」 なんかより 「あやかしの鼓」 のほうが偏愛度数は断然高い (あえてドグラ・マグラなんか、と書いてしまうのだが)。

赤江の書き方は、最初はすごいのだが、それがそのまま持続しないで尻すぼみになってしまったり、謎が解明されなかったりがあるというようなことの話題で盛り上がる。

 篠田 赤江さんの作品は展開を必要としない傾向があるんですね。
 森  展開はないけどダイナミズムはある。それは謎の作り方だと思う
    んですけど、謎の深さっていうか、そのぶちあげがすごい。

最初に提示された謎がすご過ぎて収拾がつかなくなる場合もあるというのを肯定的にとらえているのに笑ってしまって、う〜ん、でもそういうのいいよね。贔屓の引き倒しかもしれないけど。それに最初のフリがすご過ぎて尻すぼみなのって、ディクスン・カーの手口に似てるじゃん。
これについては収録されている中井英夫の評でも同じようなことが述べられている。中井は赤江を評価しながらも、かなり辛辣にその書法を批判していたのだともいう。

 考えてみると氏の作品は、処女作 「ニジンスキーの手」 以来、つねにこ
 うした終り方をしていることに気づく。話としては一応終わったことに
 なっているときでも、読者にしてみれば何かふに落ちず納得できず、す
 っきりとのみこむわけにはゆかぬ筋立てに戸惑い、短い悪夢を見たあと
 のように胸につかえを覚えるだろう。
 そう、それはおそらく氏も初めのうちは意図しないで書き、そして徐々
 に意識的に構成され出した手法ではないだろうか。(p.156)

これは赤江の新作 「冬のジャガー」 に対して『週間読書人』の1975年2月3日号に掲載された中井の批評であるが、あまりにも辛辣で手厳しい (当該文は中井の全集に収録されなかった作品を集めた『ハネギウス一世の生活と意見』の中にあるとのことだが、この拾遺集のことについてはすでに書いた→2015年05月08日ブログ)。

東雅夫は赤江に対する中井の態度は愛憎入り混じっていたように書いているが (p.210)、中井は三島由紀夫に対してもコンプレックスとペシミスティックな感情を持っていたはずであり、それは多分にホモセクシュアルな内容を持っている同族嫌悪と見られなくもない。
このあたりの事情を解説している千街晶之の批評には、中島梓や竹宮惠子による雑誌『JUNE』までを含めてBL系の変遷についての説明があり、その時代背景がわかってとても興味深い。そして三島由紀夫や中井英夫に連なる作家として皆川博子や山尾悠子がいることをあらためて知るのである。(p.204)

突然のような印象を受けたこの本は、赤江瀑の復権のしるしであるのかもしれないと思うのだが、鼎談でも、その頃からすでに赤江作品の本は入手しにくいことがいわれている。これを機会に全集とまではいわないが、赤江瀑のまとまった作品集でも出てくれることを望むものである。


赤江瀑の世界: 花の呪縛を修羅と舞い (河出書房新社)
赤江瀑の世界: 花の呪縛を修羅と舞い

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向日葵

ピーター主演の「あやかしの鼓」、見てみたいです。

赤江獏作品には中学生の頃、少し嵌まりました。。
by 向日葵 (2020-07-11 06:04) 

末尾ルコ(アルベール)

かつては幻想文学的な作品ばかり読んでいる時期がありました。『幻想と怪奇』も何度か買ったことがあり、今でも本棚にあると思います。
幻想文学関連では『澁澤龍彦訳 幻想怪奇短篇集』や澁澤龍彦がらみの創元推理文庫『怪奇小説傑作集4』は何度も何度も読みました。おそらく今後も何度となく読むと思います。
しかしこうしたフランス系の幻想文学は英米系が好きな人にはしっくり来ないことが多かったようですね。
わたしはフランス系、それとロシアや東欧系の幻想文学が好きでした。
東欧と言えば、ミルチャ・エリアーデの小説はとても大好きです。

などと書きながら、赤江瀑はあまり読んだことないんですよね(笑)。
なぜかしら、あまり意識したこともなかったです。何でだろう。
プロフィールをチェックしてみるとやはりおもしろそうですね。その内読んでみよおっと(←積極的に人生に挑む姿勢 笑)。

> 本が自分を呼んでいる気配

それはありますね。
書店の本棚の中でどうにもその本だけが輝いて見えて、ス~ッと引き寄せられること。
最近では蔦屋書店の2階でぜんぜん別の作家の本を探していたのですが、ス~ッと、まだ買ってなかったミシェル・ウエルベックの『服従』に吸い寄せられて即決購入。
好きな作家のまだ買ってなかった作品なので、未知の作品に呼び寄せられる場合とはちょっと違うのでしょうが、でも買ったこと自体にとても充足感があります。

> 大衆小説はこれまた文章が好きじゃない

わたしも基本的にそうなんです。
文章そのものがおもしろくない作品が多いので、時間がもったいない気がするんです。
一文一文読み応えがある作品がいいですね。

> 「あやかしの鼓」

夢野久作はほとんど読んでいるはずなのですが、この作品ははっきりと記憶してません。また久作引っ張り出してみようかな。
タイトルとしては、「少女地獄」とか「瓶詰の地獄」(笑)とか「悪魔祈祷書」とか、この手のものが記憶に残ります。

あ、それと、「本との出会い」と「場所」の関係はとても重要ですよね。
わたしが夢野久作の作品を買っていた時期は、高知の中心街の小さなビルの地下に本屋があって、そこでいろんな本を買いました。わたしの好みに合う本が多かったですし、久作や中井英夫の本を手に取った瞬間の記憶も鮮明です。
地下の本屋さんって、幻想文学との出会いには最適でした。

> 最初に提示された謎がすご過ぎて収拾がつかなくなる

わたしもそんなの好きです。
割とけっこうな本好きの人でもすぐに「伏線が回収されてない!」とか「伏線の回収が見事!」とかいう書評見かけますが、わたしそういうのあまり気にならないんです。
どちらかと言えば、「いかにもな伏線」がラストで「いかにもな回収」に至るのが空々しくて気に入らない場合が多いです。

赤江瀑、今後の愉しみにしていきたいと思います。

・・・

> 人間にはわからない部分がまだたくさん存在するというふうに考えるほうが自然です。

本当にそうですね。
そして歴史を遡れば、どの時代の科学者も自らの学説が最先端だと信じていたと思いますが、そのほとんどはことごとく覆されてきた。
よほどのことでない限り、どのような学説も暫定的なものであるはずなのに、当事者は認識できないんですね。
もちろん心理に対して謙虚な科学者もいるのでしょうが、昨今のコンピュータやAI関係の人たちを見ていると、「マッドサイエンティスト」という言葉が頭に浮かびます。

> ニール・ヤングの幻のアルバムだった

わたしも聴きました。
いいですね~。
そして英米ではこうした超ベテランがセールスにおいても上位を占めることがさほど珍しくはなく、ここは以前から日本との大きな違いを感じる部分です。
要するに英米には「本当に音楽を聴いている人」が多く、日本は「音楽以外のものを聴いている人が多い」とわたしは感じています。

GO TOって、感染者数が激増してきてもそのまま強行しそうな様相ですね。
「感染者数」の解釈についてもいろんな意見がありますが、医療体制にしてもどうも現場の苦しさをまるで理解せずに「数字」だけで「十分である」とか言っている感は否めません。
しかもこの雨・・・とんでもない夏にならねばいいのですが。 RUKO


by 末尾ルコ(アルベール) (2020-07-11 10:06) 

青山実花

私も赤江瀑さん、
いっときハマりました^^
「花曝れ首」「鬼恋童」「オイディプスの刃」など
読み始めると夢中になりますね^^;

by 青山実花 (2020-07-11 12:23) 

NO14Ruggerman

赤江瀑作品は存じ上げませんがディクスン・カーに
反応しました。
小学校高学年のころ推理小説にハマった挙句、カーの作品
「夜歩く」のタイトルに魅せられて「夜走る」を文芸部に
所属して執筆したのを思い出しました笑。
by NO14Ruggerman (2020-07-11 13:22) 

lequiche

>> 向日葵様

「あやかしの鼓」 は
ピーターというイメージではないような気もしますが、
でもどんなお芝居だったのか興味があります。
演劇は映画と違ってそのときに観ておかないと
永遠に観られないですからむずかしいですね。

赤江瀑、ご存知でしたか。さすがです。
by lequiche (2020-07-12 22:57) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

『幻想と怪奇』、それはすごいです。
今ではかなり入手しにくい雑誌なのではないかと思います。
私は全く知りませんでしたので書影だけでも見たいです。(^^)

幻想文学はその定義として曖昧な部分があるため、
どのへんまで含めるのかが微妙です。
音楽におけるニューミュージックの定義などと似ていて、
これだってあれだって幻想文学といえば幻想文学、
というようなことになる可能性があります。
エリアーデはほとんど知りません。でも、
『ムントゥリャサ通りで』を読んだような記憶がありますが、
どんな話だったのかも忘れてしまいました。

赤江瀑は、ルコさんなら、まず 「ニジンスキーの手」 ですね。
なんといってもニジンスキーですから。

本が呼んでいるという話を私は繰り返し書きますが、
本に限らずそういうことはあるような気がします。
服でもそうです。瞬間的に買いたい服はわかります。
もしかすると単純に潜在意識がそうさせているのかもしれないです。

「あやかしの鼓」 はそのタイトル通り、鼓がキーワードですが、
夢野久作にしてはあまり土俗的ではなく都会的なテイストです。
発表されたのは1926年 (大正15年) で
全集第1巻に収録されていますが、青空文庫にもデータがあります。

ニール・ヤング、良いですね。
今日はリアム・ギャラガーでしたが先週に続き、とても良いです。
ただ、今日はサンデーソングブックがあまりに衝撃的でしたので、
それに霞んでしまいましたが。(笑)

東京はこんな状態なのにもかかわらず、街は大賑わいで、
国も都も信用できませんから自分のことは自分で守る、
これしかないです。
by lequiche (2020-07-12 23:02) 

lequiche

>> 青山実花様

そうなんですか。
「いっとき」 というのが、まさにその通りです。
いっときはハマるんですけどそのうちに
なんか同じだなぁ〜、と感じだすと飽きてしまって、
というのが正直なところです。(^^;)
by lequiche (2020-07-12 23:03) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

It Walks by Nightはバンコランものですね。
魔夜峰央はバンコランという名前を
このディクスン・カーからとって付けたのですが、
いまではパタリロのバンコランのほうが有名なので、
とほほ、です。
その力作 「夜走る」、是非拝読したいです。
by lequiche (2020-07-12 23:03) 

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