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『ポラリスが降り注ぐ夜』— 李琴峰を読む [本]

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wikipediaでポラリスと入力して検索すると 「こぐま座α星」、そして 「現在の北極星」 という解説が表示される。昔だったら単に 「北極星」 だったはずだ。なぜなら、恒星は恒星なのだからずっと不動の位置にあるはずだと思っていたらそうではなくて、長い時間が経つとそれは動くからである。したがって 「2102年の前後数世紀間は北極星」 と説明されている。
だがこのタイトルにはもちろん2つの意味がある。ポラリスのもうひとつの意味は 「アメリカ海軍の潜水艦発射弾道ミサイル」 である。かつて存在したミサイルの名称だが、北極星という美しい星というビジュアルに並列して、降り注ぐミサイルというキナ臭いイメージをも喚起させる。その二重星、いや二重性がこの小説のテーマを提示している。

すでに単行本が発売されているが、私が読んだのは掲載誌 (早稲田文学2020年春号) である。よって、引用箇所はこの雑誌におけるページ数である。
李琴峰 (り・ことみ、Li Qinfeng, 1989−) は台湾生まれの作家であるが、日本語で小説を書いている。そしてこの小説は新宿2丁目にあるポラリスというレズビアン・バーを中心として描かれるレズビアンに関する小説である。レズビアンというと語弊があるかもしれない。正確にいうと、いわゆるLGBTのさまざまなかたちの変奏といってもよく、だがゲイだけはオミットされている。そうした意味からするとフェミニズム小説であるともいえる。だからレズの話だからという興味本位で読んだのなら、きっと空振りするだろう。だがそうした人にこそ読んで欲しい本でもあるのだが。
7つの章で構成されていて、それぞれに主人公が異なり視点が変わるのは、ほしおさなえの三日月堂に似たテイストがある。そうしたなかで繰り返し出てくる舞台がポラリスという2丁目の店である。そして章が7つに別れていることだが、7つとは北斗七星をあらわしていて、それが指し示す方向が北極星、すなわちポラリスという意味なのだと私は理解した。

LGBTのヴァリエーションという点から見ても、それぞれが丁寧に書き込まれていて、ジェンダーあるいはセクシュアリティに関する諸相を知ることになる。純粋にレズビアンでなければならないとして、バイセクの者を攻撃したりする行為も、その人の持っているコンプレックスからの発露であり、また極端なセクショナリズムでもあることがわかる。それはマイノリティなセクションの者同士が、相手との些細な違いにこだわって、より孤立を深めて行くという構造のメタファーでもある。

ポラリスの店主は北星夏子という名前である。彼女はずっとポラリスを営業してきて、その歴史を回想する場面がある。

 早いもので、ポラリスで過ごした夜はとっくに四千を超えている。四千
 もの夜の中で、一人もお客さんの来なかった夜もあれば、開店から閉店
 までずっと満員だった夜もあった。記憶に全く残らないような夜もたく
 さんあるが、一生忘れられないような夜も数多くあった。(p.52上)

四千の夜という言葉から連想するのは、田村隆一の詩 「四千の日と夜」 である。四千の夜はシャーラザッドの夜の4倍もの長さの時間である。しかしそれは1日1日の矮小な日々の積み重ねに過ぎない。そしてそれは宇宙の歴史からすれば須臾のことに過ぎない。

夏子の過去の回想は、かつて存在したレズビアン・バーの話から始まる。その店に通うようになったいきさつ。そして仕事を辞めてシドニーに行ったこと。そこで天文台に勤務する女性・雪奈と知り合ったこと。そしてその中にあるプラネタリウムで (そういえば三日月堂にもプラネタリウムの話があったけれど) ふたりは南のクロス (南十字星) を見る。そして雪奈は言う。「北のクロス」。南半球のシドニーでは、はくちょう座は 「冬の今しか見えない」。

 「冬にしか現れない白鳥ね」 と夏子が言った。
 「今は冬」 と雪奈が言った。「あなたは現れた」 (p.69下)

だが話はそうした同性の愛の話だけではない。台湾のひまわり学生運動の話。それはトランスジェンダーの蔡暁虹 (ツァイシャウホン) の人生を核として語られる。
そして、中国の天安門事件の話。それは中国人・楊欣 (ようきん) の過去。彼女はある日、中学校の教師に教室に閉じ込められ、すべての窓のカーテンを閉められ、ドアに鍵をかけられる。楊欣は教師に性的な暴行を受けるのではないかと怖れるが、彼が話してくれたのは今まで知らなかった父親の真実だった。学校の歴史の授業では出てこなかった天安門事件のことを教師から告げられる。失踪したといわれていた父親がその天安門事件でおそらく亡くなったことを知る。
こうした政治的なことがらを記述する李琴峰の筆致は冷静で明晰だ。そして十分に重い。台湾と中国。そうした歴史を経てきた国の作家らしく骨太で強い印象を残す。

その楊欣の恋人である香凛 (かりん) は、いつも楊欣に浮気を疑われている。バイセクなんて信じない、と楊欣は言う。香凛は新宿伊勢丹横にいる人生相談の男にそのことを相談する (この人物はおそらく新宿の母のパロディだ)。男の手帳に書いてあったアメリカの神学者の言葉。

 ——神よ、お与えください。変えられるものを変えていく勇気を。変え
 られないものを受け入れる冷静さを。そしてその両者を識別する知恵を。
 (p.90上)

このラインホルド・ニーバーの言葉も、有名なシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉も、出典が明かされることはない。そんなの知っていて当然ということなのだろう。

私が特に強い感銘を受けたのはAセクあるいはノンセクに関する蘇雪 (スーシュエ) と野川利穂の話で、これは単なるセクシュアリティに対する無理解ということだけでなく、一般的な世間の無理解という現象にまで敷衍でき共感できる。そしてそれは小説の最後のほうで暁 (あきら) が言う 「私はほんとはパンセクかもしれないんです」 (p.110下) へとつながっていくように見える。

小説の後に続くフェミニズムに関する田中東子の短い評論のなかに次のような言葉を見つけた。

 つまり、メディア文化やポピュラー文化やエンターテインメントの中に
 示される今日のポピュラーフェミニズムは、ポピュラリティを得るため
 に、白人中産階級の若くて美しい女性たちによる、シスジェンダー的な
 異性愛を規範とする、より多数の賛同を得やすいフェミニズムにスポッ
 トライトを浴びせがちであるというのだ。(p.120下)

つまり今だに南軍の旗など持ち出すようなアナクロニズムが歴史のどす黒さを語っていることと根は同じだ。そして思想というものは常に劣化するということをあらかじめ覚悟しておかなければならない。

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李琴峰


李琴峰/ポラリスが降り注ぐ夜 (筑摩書房)
ポラリスが降り注ぐ夜

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コメント 2

末尾ルコ(アルベール)

「ポラリス」と言えば、MISIAに「僕はペガサス 君はポラリス」という歌がありまして、割と好きです。
李琴峰という作家は知りませんでした。
早稲田文学もお読みなんですね。
LGBTという存在ですが、ある時期高知の音楽、芸術好きが中心として集まる音楽バーへ、酒も飲まないのに毎晩通っていたことがあって、そこにはLGBTの人たちが普通に来てました。
ただ高知の「昼の世界」ではなかなか表立って見かけることはないです。
いまだ大っぴらに自らのアイデンティティを表明できる社会ではない、特に地方都市ではそれが難しいのだと思います。
芸術に親しんでおれば、LGBTの方たちはまったく「普通」であって、そのような意味においても芸術の意義は深いものだと思います。

『ポラリスが降り注ぐ夜』、重層的な内容の作品のようですね。
人間のアイデンティティに関する問題から歴史や政治に関しても深く掘り込んでいるという印象を受けます。

お話は逸れますが、「シャーラザッド」は原語の発音に近いのでしょうか。
ちょっとざらついた発音に、より砂漠を連想してしまいます。

現在の世界、とりわけ米国と中国の2大国関連の、高度に醜悪な状況をも含んでいるような、そんな小説ではないかと想像しております。

・・・

オリンピックの1年前イベント、やるんですね~。
そして競技の具体的日程も発表になりましたね。
この状況でスゴイ神経ですね~。
米国なんて1日に7万人感染ですよ。
ホント、冗談悪夢のような世界です。

> この当時はフォントが明朝とゴシックしかないの

選択肢が僅かな中でできる限りの表現をしたということですね。
「選択肢」って、「多ければ多いほどいい」とは限らないですよね。
多い中で最適なチョイスができればいいのですが、選択肢が多いだけにただただ曖昧に、薄く薄くなっていく傾向もよく見られます。

> 「役人とはなるべく自分の仕事を減らさないような方向性で仕事をする」 のだそうです。

なるほどです。そのような観点でものごとを見るのも大事ですね。
この観点を持っておれば、(何でこうなんだ)と常日頃思っていることもけっこう説明がつきそうです。

> そうした需要はおそらくまだ無かった

結局、クオリティの高い芸術やエンターテイメントに対しての需要が少ないという状況は現在も続いているかと思いますが、表現者としては苦しい社会状況ですよね。
本当にやりたいことができない、やっても評価されない、あるいは支持を得られない、お金を稼げないと。
メディアの責任は大きいと思うのですが、メディアの側もよく「自分たちのやりたいことは他にあるけれど、それではまったく注目されないから」と言い訳するのですが、それはちょっと違うと思うのです。
特に日本のメディアで我慢ならないのが、「一番売れた作品=その人の代表作」という図式が「当然」化していることです。
「一番売れた作品」は「一番売れた作品」でしかないわけで(人口に膾炙した事実はあるにしても)、少なくとも「=代表作」ではないですね。
もちろん、「何を持って代表作とするか」という問題は簡単ではないですが、それにしても「一番売れた作品=その人の代表作」という図式は成り立たない。
批評が成り立っている国であれば、「一番売れたのはこの作品だけど、代表作はこれ」ということになるのが当然なのだと思うのですが。

> 同じタレントでもケースバイケースで良かったり悪かったりする。

確かにそうですね。
誰かを好きになると、その人の作品すべてを盲目的に「素晴らしい」と言ってしまう人も多いですが、それは客観性皆無という困った状態ですよね。
それと、ご本人だけでそう思っているのはある意味勝手ですが、そうした人に「好きなタレント」の批判をすると、一も二もなく逆ギレするとか、そういうのはまあ知性だけでなく人間性の問題でもあるのでしょうね。

> そうした虚勢をはるのはやめてほどほどに暮らしていこう

日本が欧米と比べて広な患者が少ないことを持ち出して、「今こそ日本が世界のリーダーシップを!」とか言い出す人がいますからね(笑)。
気色悪いと言いますか、何と言いますか(笑)。RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-07-19 05:32) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

李琴峰の母国語は中国語であり、日本語は後から習得したものです。
本来の言語でない第2番目の言語で書いていることと、
セクマイな作風であることが特徴だといえます。
まだ作品は多くないのですが、明晰な日本語で
こうした内容を小説として書くのは難易度が高いと思いますが、
大変読みやすく、そしてそのなかに詩情があります。
ただ、今の平均的日本人作家の作品からすると
少しヘヴィーかもしれません。それが国情の違いです。

LGBTという言葉もやや認知度が上がってきていますが、
どうしても興味本位というか、性的な関心だけで
そうしたものを見がちです。
なぜならたとえばトランスジェンダーと、
オネエとか男の娘とは、同じようにみえて差異があります。
逆にそうした傾向を見越してLGBTという言葉を利用する
似非LGBT (と言っていいのでしょうか) みたいな存在も
現実にはあるように思います。
でもそれはどういうジャンルにも発生するものなので
仕方がないのかもしれません。
セクシュアリティというものは二分法ではなくて
グラデーションの中に存在するような気がします。

李琴峰のひまわり学生運動、そして天安門事件から連想するのは
どうしても今の香港の情勢です。
ですが、中国の体制側の人間にとって、
香港に対する変化はそんなに関心度が高くなくて
むしろ台湾などのほうが関心度は高いのではないかと思います。
中国に限らず、今、強権的な政治姿勢が多発しています。
アメリカも中国もロシアも、そして日本も。

シャーラザッドはwikiではシェヘラザードになっていますね。
昔はシェラザードというのが一般的でしたが、
私が最初に馴染んだ読み方がシャーラザッドなだけで、
まぁ何でもいいんです。

オリンピックはIOCという組織が集金装置としてしか
機能しなくなってしまいましたので、もうやめるべきです。
オリンピックに抱いていた幻想は崩壊したことを
はやく知るべきです。
政治体制においても長く居座る政権は必ず腐敗します。
するとそれを利用しようとする宦官が跋扈します。
今、まさに日本は暗愚な為政者と宦官の世界ですね。(笑)

売れるものと優れたものは必ずしも一致しません。
逆説的にいえば、売れない本こそ良い本なのです。
価値判断の基準が 「それ、おいくら?」 で決まるのは
なんでも鑑定団に過ぎませんし、拝金主義です。
でも自分の価値判断に自信がないので
どうしても値付け屋のいうことに左右されるのでしょうね。

一度好きになると何でもOKになってしまうのは
判断停止状態で、そのほうが思考的には楽なのかもしれません。
好きな人のものなら鼻紙でも欲しいみたいな盲目状態を
ボリス・ヴィアンは日々の泡の中で書いていたように思います。
現代は、シニカルで冷静な目は嫌われる傾向にあります。
狂熱的な思い込みはかえって贔屓の引き倒しなのですが、
でも贔屓の引き倒しという概念がすでに存在していません。
勘違いばかりの国は滅びるばかりです。
by lequiche (2020-07-21 01:17) 

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