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飛ぶ鳥と歌う鳥 — 植草甚一『バードとかれの仲間たち』を読む [音楽]

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植草甚一 (1908−1979) はもともとは映画畑の人だということだが、いろいろなジャンルへのエッセイや評論があって、少しアヴァンギャルドなものへの興味とユニークな視点がその特徴である。彼のチャーリー・パーカーに関する文章を集めた本を読んでみた。『バードとかれの仲間たち』というタイトルで植草甚一スクラップブックの第13巻である。
読んでみるとわかるのだが、このパーカーに関しての諸作は、ほとんどが海外雑誌にその当時掲載されていた記事を翻訳したものなのだが、きちんとした翻訳というよりはやや自由でルーズな紹介風であり、地の文章の前後に彼の感想がつながっていたりして、それがときとして渾然一体となっているのが一種の 「めくらまし」 というのか、独特の味となっていて妙に引き込まれる。今だったら翻訳権の問題もあるし、こういうのはちょっと反則ワザなのかもしれないと思いながら読んでいた。

まず基本的な知識として、本のタイトルにある 「バード」 であるが、バードとはチャーリー・パーカー (1920−1955) の愛称である。テナーサックスのレスター・ヤングは 「プレス」 と呼ばれるが、そしてそれ以外のジャズメンにも愛称/あだ名がないわけではないのだけれど、顕著に使われるようなのは滅多にない。バードとプレス、この2人は特別なのである。

この本の末尾にある久保田二郎の解説を先に読んでしまうと、パーカーと植草甚一の関係性がわかる。まず植草は前述したように映画関係の仕事をしていた人であり、パーカーの存命中にはその音楽を聴いたことがなかったのだという。植草がジャズに興味を持ち始めたのは1956年からであり、その頃から闇雲にジャズを聴きだしたのだという。
そして何よりも重要なのは、植草はパーカーが嫌いだったということである。嫌いというよりわからなかった、だから好きになれなかったのだと久保田との会話の中で述懐している。
したがって、この本の中の第2章である 「バードとかれの仲間たち」 としてまとめられている部分は、パーカーの死後15年も経ってから書かれたものであり、内容もダイアル・レコードのロス・ラッセルがその当時のことについて語った内容の翻訳ということになったのである。パーカーに対する植草の共感というものは希薄である、というより無いといってもよい。「此処には彼のパーカーへの 「聴きざま」 はない」 と久保田は書いている (p.246)。つまり植草の興味はパーカー自身ではなく、その時代背景と周囲の人々への関心にあったのだといえる。

パーカーはその存命中、確かに人気はあったのかもしれないが、どちらかというとごく一部のマニアックな人々の間での人気であり、彼のビ・バップというコンセプトあるいは音楽形式の真価が理解され始めたのは死後からであるように感じられる。だがやがてそれは逆にジャズの高踏的な権威としてまつりあげられてしまったと理解することもできる。そして植草甚一という人はそうしたメインストリームなもの、権威づけとなるものが嫌いなのではないかというふうに推察できる。だがビ・バップはもともとはアヴァンギャルドなムーヴメントであり、植草が同時代的にパーカーを聴いていたならば、彼のビ・パップに対する印象は違っていたかもしれない、とも思うのである。

この本の第2章の最初の小タイトルは 「混乱の大傑作ジャズ・アット・マッセイ・ホールの実況盤について」 とあり、次の小タイトルから始まるロス・ラッセルの記事とは別な内容なのだが、この有名なマッセイ・ホールというアルバムは、ビ・バップというジャンルの一種の権威として作用しているといってもよい。久保田二郎の解説の中で植草は、みんなからパーカーを聴かなくちゃだめと言われて一生懸命聴いたのだがわからなかったという言葉が頷けることのひとつとしてこのマッセイ・ホールのライヴがあげられると私は思う。というのは私がまだ高校生くらいの頃、パーカーといえばこれ、といわれて貸してもらったレコードがマッセイ・ホールだったからである。しかもそのLPは表記がチャーリー・チャンとなっていて、なぜ名前が違うのかと思ったものだったのだが、この本の第1章 「アイ・リメンバー・バード」 の中に、

 ファンタシー盤で再発売されたものに、一九五九年五月十五日にカナダ
 のトロントで演奏した 「ジャズ・アット・マッセイ・ホール」 Jazz at
 Massey Hall があるが、このときのバードはチャーリー・チャン名儀
 になっている。(p.31)

とあるのでたぶんその再発盤なのだと思う。現在流通しているCDとはジャケットデザインも異なる。
一般的にはこのアルバムはオールスターによる超名盤とされているが、全体が混沌としているし、すでに凋落の始まっているパーカーであるし、なによりも観客の反応が、ただ騒ぎたいだけというふうに私には聞こえてしまう。それが最初の出会いであったので、パーカーに対する印象はあまりよくなかった。正確にいえばこのライヴの欠点はガレスピーにあって、ガレスピー主導の音楽の展開のしかたが好きではなかったのである。そしてそうした印象は現在になってもそんなに変わらない。たぶんそれは私の性格が、お祭り騒ぎ的なものを嫌うところにあるからなのだと自己分析してしまうのである。
ちなみに第1章のタイトル 「アイ・リメンバー・バード」 は、もちろんアイ・リメンバー・クリフォードのパロディであるが、その語感がよくなくて、なんとなくのやる気のなさがパーカーに対する植草のスタンスをあらわしているように私には感じられた。

というか、そんなことはどうでもいいことに属するのであって、重要なのはロス・ラッセルの回想なのであるが、それは次回につづけて書くことにしよう、と植草甚一の文章を真似てみるのである。


Jazz at Massey Hall (ユニバーサルミュージック)
ジャズ・アット・マッセイ・ホール




All The Things You Are/Jazz at Massey Hall
https://www.youtube.com/watch?v=ziJ1ideCOuA
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リス太郎

印刷中です。「バード」(チャーリー・パーカー)は音楽といい生き様といい、私が最も尊敬するジャズミュージシャンです。
by リス太郎 (2020-08-04 10:06) 

末尾ルコ(アルベール)

植草甚一は、名前こそもちろん知っておりますが、その作品を読んだ記憶はないのですね、わたし映画ファンの割には(笑)。ただ、記憶はないけど読んでいる可能性はあります。映画雑誌や映画ムック的本は濫読しておりましたから、その中に植草甚一の文章が少なからずあった可能性は十分で、まるでないと考える方が不自然ではないかとも考えられます。
淀川長治さんが死去された時に蓮実重彦と金井美恵子の対談があったのですが、かつては映画評論家としてファンが多かったのは淀川さん以外に何人かいて、淀川さんは必ずしもそうした範疇ではなかったという話でした。金井美恵子によれば淀川さんは「映画の妖精」という存在だということで、むべなるかなと思ったものです。
話しは横道に逸れましたが、植草甚一を含めかつて「重要だ」と見做されていた何人かの映画評論家に対して、読んでいるかもしれないけれど・・・くらいの無頓着さだったと、今回のお記事を拝読しながらあらためて思い至った次第です。
それこそ世代はまったく違いますが、淀川さんはわたしにとっても「映画の妖精」であって、その後は蓮実重彦や山田宏一らの文章を好んで読むようになってきた感じです。

チャーリー・パーカーについては通り一遍の知識と、通り一遍の鑑賞経験しかありませんので何とも言い難いですが、今回のお記事によって新たな視点をいただいたのは間違いありません。
いやホント、GLIM SPANKYにしてもUruにしても池田エライザにしても、lequiche様のお記事を目にしなければいまだ気づいてなかったかもしれません。本当にいつも感謝しております。

・・・

わたし、マスク本当に慣れなくて、付けてるといまだ心身ともに消耗します。つい鼻を出してしまいますが、これはまずいですよね(笑)。
でもいまだマスクをせずにいろんな施設へ平気で入って来る人がいると、もちろん自粛警察やマスク警察になるつもりはありませんが、(いい気なもんだ)と思いますね。

> 身体の弱い人&高齢者は少し死んでもらったほうがいい

こういう意識があからさまに見える人たちがいるから、「経済、経済」という掛け声に不快感を持つのです。
それにしてもこうした考えの人たちの中には、かなり高齢の政治家や「識者」もいますけれど、(自分はコロナにも感染しないし、死なない)と思っているのでしょうね。

『マイ・ブックショップ』という「本屋」をテーマとしたイザベル・コイシェ監督の映画を観たのですが、けっこうおもしろかったです。
コイシェ監督の作品はやや苦手なものが多かったけれど、これはよかった。
1959年と特定されたイギリスの地方のお話しなんですが、ある女性が夢だった書店を開業するのですけれど、「女性の開業」自体まず白い目で見られるのです。
さらにこの町の有力者であり、芸術を政治利用しようと企む夫人を中心とした勢力に書店経営を妨害される。
この辺りはまったく昨今の「政治・ビジネスー文化芸術」の対立と同様の構図のように感じられます。もっとも歴史的に見れば、かつてのイタリアのように政治家が偉大な芸術を育てたという事例も多くあるのですが。
『マイ・ブックショップ』の一つのハイライトが、「書店に『ロリータ』を置くか否か」という問題であり、もちろん置くことになるのですが、静かに進行しながらとてもスリリングでした。同時に当時『ロリータ』がいかに社会的インパクトを与えていたか、映画の描写がどれだけ正確かは分かりませんが、何となく思いを馳せることができました。             RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-08-04 17:57) 

lequiche

>> リス太郎様

こんな戯れ駄文にいつもありがとうございます。
バード、そうでしたか。
ただ彼について書くことはかなり地雷踏み的な面があります。
でも怖いもの知らずなので書いてしまうんですが。(^^)
by lequiche (2020-08-07 03:40) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

植草甚一は一時期、非常にブームになったとのことですが、
それはまさに一過性のもので、
それがどこまで彼の書くことを理解してのブームだったのか
と考えると非常に曖昧な面が透けて見えます。
つまりその語り口に惹かれて表面的なものだけで評価し
結局捨てられてしまうというふうに感じます。
映画については私は寡聞にしてよくわかりませんが、
この本の解説で久保田二郎が書いているように
ジャズに関して植草さんはスーパーアマチュアであって、
その視点のユニークさが新鮮だったというように
説明されています。
これは憶測ですが映画に関してもおそらく
蓮實重彦のような視点とは正反対だったのではないか
というふうに思えます。
ユニークさというのは言葉をかえればトリッキーであって
意外な視点というのが彼の持ち味です。

パーカーはひとことでいってむずかしいです。
詳細なアナリゼまでありますが、
それが彼の本質をとらえているとは言い難いです。
そこにジャズという音楽の不確定性的な特徴が存在します。
そこに踏み込まないために植草甚一は
翻訳という手法で 「逃げた」 というふうにも考えられます。

現宰相の言葉の端々には優生思想的な意識が垣間見られます。
ごまかしていますがこれはナチスの思想に近接した見方です。
こんな杜撰な方法論がずっとまかり通っているのは
卑怯な裏工作が張り巡らされているからだと思います。

イザベル・コイシェという監督は知りませんでしたが、
本がテーマになっているのは面白いですね。
いままでと違ったコンセプトで古書店をやろうとする人も
ときどき話に聞きますが、今は本のような固定したメディアを
撲滅する方向で社会が動いているような気がします。
なぜ電子化/ペーパーレス化を進めるのかというと
固定されたものがなくなればいくらでも改竄できますし
証拠として残らないからです。
そのためにも電子化/オンライン化といったものに
全てを委ねることに私は疑問を感じています。
だまされて取り返しがつかなくなってからでは遅いのです。
by lequiche (2020-08-07 03:41) 

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