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XTC、Doves、そして金原ひとみへ [音楽]

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レコードショップにXTCの《Oranges & Lemons》が飾ってあったので思わず買ってしまった。レコードジャケットはCDよりもずっと面積が大きいので目を引く。ジャケ買いという言葉があるけれど、納得できてしまう。重量盤2枚組 (スーパー・ヘヴィーウェイト・ヴィニルと表記) でずっしり感がある。そしてこのイラストは昔のサイケデリック・ムーヴメントの名残のような雰囲気が感じられて、XTCの中で一番好きなジャケットだ。
ついでに中古盤のとても安いレコードがあって5〜6枚買ったら、レコードってとても重くて笑ってしまった。かたちにこだわるわけではないのだけれど、レコードに較べるとCDって所詮、仮のメディアに思えてしまう。実体としての存在感に乏しいし、そもそもCDだとジャケ買いしたいというような意欲が湧かない。

日曜日の夕方、FMを聴いていたら渋谷陽一がダヴズをかけていた。11年ぶりのニューアルバム。この新しいんだか古いんだかよくわからないようなテイストがいい。それは多分にメチャメチャしゃしゃり出て来ているギターにあるんだと思う。
その後の Night Fishing Radio では、サカナクションの山口一郎がずっとコールドプレイをかける。ゲスト・佐藤吉春とのトークの中でのコールドプレイへの言及、「ある時期はあんなに聴いていたのに聴かなくなってしまった。それはなぜなのか?」 みたいな話になる。それはレディオヘッドでも同じ、という。なぜなのかわからないが、言いたいことはなんとなくわかる。

配信ライヴっていいな、という言葉も聞くけれど、それは無理して言ってるように感じてしまう。本物のライヴができないので窮余の一策としての配信なのだからそれはあくまでも仮のものだ、文字通りのヴァーチャルに過ぎない、と私は思う。画面で観ているのだからTV番組やDVDとかわらない。それは単なる映像であってライヴ会場で感じる空気感が存在していない。もちろん、ファンはライヴに 「飢えて」 いて、だから配信でも何でもとりあえず聴ければいい、という気持ちがあるから 「配信ライヴっていいな」 って発言になるんだと思う。でも、配信ライヴのほうがラクチンだから、今後ウチのバンドは配信ライヴだけにします、とはならないはずだ。なったら困る。これは極端な言い方かもしれないが、プロのバンドのライヴ映像よりシロートバンドの生演奏のほうが感動することはある。だからライヴは重要なのだ。この宿痾の世界が、早く元通りの世界に戻ることを祈るばかりである。
「新しい生活様式」 などという偽善に惑わされてはならない。そんな欺瞞の言葉に納得していると、より不自由さを強いる統制がやってくるはずだ。「新しい生活様式」 と 「素晴らしき新世界」 という言葉は同じニュアンスを持つ。オルダス・ハクスリーのタイトルの意味はもちろん揶揄なのだから。

書店で、金原ひとみの『fishy』を買おうと見ていたら、その隣に『パリの砂漠、東京の蜃気楼』があったので、それも買ってしまった。レコードと同じようなジャケ買いである。赤と黒の色合い、押された文字、カヴァーの写真、帯の文字レイアウトのアヴァンギャルドさ、見返しの色など、美しく完璧な装丁で、金原ひとみの本らしい。この本は画面で見ただけではわからない。そのインクの色合いと用紙との融合が、質感が大切なのだ。だから実際に手にとってみないとわからない。もしかすると、手にとってもわからない人もいるかもしれないが。

本の内容は著者のこれまでの暮らし、パリと東京での暮らしを各12ずつ書き連ねた私小説のようでいて、でもそれが本当にプライヴェートそのものなのかそれとも創作が入っているのかあるいは全く架空の話なのか、よくわからないところがいい。自身をカリカチュアするのは小説家の常套手段であり、それが自身に近ければ近いほどさりげなく嘘が書ける。
金原は書く。フランスに住み始めた頃、最初に知っていたフランス語の言葉はボンジュールとメルシーとミスティフィカシオン (mystification)、この3つだった。ミスティフィカシオンとは 「欺瞞」 のことである。
私が最初に知ったフランス語はなんだろう。たぶん、エギュイユだ。L’Aiguille creuseは小学校の3年生か4年生の頃に読んだモーリス・ルブランの『奇巌城』の原タイトルだからだ。それは今考えると多分にロマンであり、aiguille creuse —— 空洞の針という設定が幻想小説の意味合いも持っていたように思える。
と思いながら読んでいたら、「ミスティフィカシオン」 の次の短編は 「エグイユ」 だった。だがその 「針」 は象徴ではなくて、具体的な、ピアスのための針のことだった。「蛇にピアス」 と違って 「耳にピアス」 だったらそれは普通のように思えるが、金原の無数に思える左耳のピアスはピアスという概念から外れつつある。それはなにかそれ自体で命を持つオブジェのようなものにも見える。

この頃、日本の小説にはやりきれなさを描いた暗い小説がよくあるように感じる。読んでいて暗くてやりきれなくて、でもそれは日本の現代の世相を反映しているのに過ぎないのかもしれなくて、だが金原の書くことは同じように暗くて破滅的な様相を帯びながら少しだけ違う。私にとっての金原は共感することが多くて、いや、共感でなくて何かの共有のようなもの、納得してしまえる感触があってここちよい。それは彼女の持つ通俗性と下品さが私の心情にきっとフィットするからなのだ。
ということで前半のパリ編を読んだ。コロナ禍の前に書かれたものなのにすでに鬱陶しい穢れた空気を感じてしまうのはなぜなのだろう。これから後半の東京編に入る。


XTC/Oranges & Lemons (Panegyric)
Oranges & Lemons [Analog]




Doves/The Universal Want (Universal Music)
ザ・ユニバーサル・ウォント




金原ひとみ/パリの砂漠、東京の蜃気楼 (ホーム社)
パリの砂漠、東京の蜃気楼




XTC/King For A Day
(Late Night with David Letterman, June 30, 1989)
https://www.youtube.com/watch?v=Amx5CK7vdoc

Doves/Prisoners
https://www.youtube.com/watch?v=Q02PXRTMus4&feature=emb_title
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末尾ルコ(アルベール)

XTCはよく聴いてました。PVもよかったですよね。最近は聴いてなかったので、またいろいろ試してみたいと思います。
ジャケットについてはまったくおっしゃる通りで、あの買った時の、そして部屋へ迎え入れた時の重量感、存在感が本当に(やるべきことをやった)という充実感がありました。
ジャケットを作る側も、あのサイズならではの創作意欲というものがあったでしょうし、CDサイズが市場を完全に支配してからは、日常生活の中の大きな芸術体験の一つが失われたと言っていいですね。ジャケットの持つ存在感はポスターやピンナップとも違ってまして、購入した自分のプライドも含んだ存在と化していたと思います。そうしたプライドは時に歪んだ方向に発揮されてしまう場合もありますが、同時にそうしたプライド、誇りといったものは、人生において必要なものだとも思います。

「実体のないもの」を「ありがたがれ」という風潮はどんどん強まってますね。「配信ライブ」は本物のライブができない時期の代用品であるというのが原則だと思いますし、例えばテニスのグランドスラムでさえ、観客がいないとわたしなどは観る気が大きく減退しています。人間同士の対話、会話もネットを利用して行うのはあくまで代用品、実際に会って話をする以上の体験はありません。
だからというわけではないですが、今、手書きの手紙がおもしろいなと思っています。

金原ひろみは最近読んでませんでした。買っていてまだ読んでない本もありますので、また引っ張り出してみたいと思います。
わたしは今は日本の女性作家では、川上未映子の再ブームです。とても分かりやすく詳細に心の動きを描いている作品がありますね。

・・・

「ドルチェ&ガッバーナ」の歌はわたしもダメです。あのフレーズが歌われるときの、(どうだ!)という雰囲気がどうにもいけません。例えばディオールやサン・ローランだったらパロディ的おもしろさが出ていたのかもしれませんが、「ドルチェ&ガッバーナ」っつーのがねえ(笑)。

> CDでも本でも買い込んでおいたので

確かに買い込んでおくと後々家の中で意外な発刊がありますね。
特に本は、三島由紀夫の言葉だったかどうか記憶曖昧ですが、「書棚で読まれる時を待っている」と言われますよね。
まあそれを言うなら映画でも音楽でも同じかもしれないですが、本の場合は特に「置いているだけで頼もしい」し、ある時期買ったのに読む気にならなかったものをふと手に取って開いてみると、驚くほど心に届く内容だったりもします。

プリンスはわたしもキワモノ的だと感じてました。
でも例えば初期のデヴィッド・ボウイなんかが英米の一般大衆にどのように観られていたかも興味あります。
当所のボウイのヴィジュアルは、現在の目で見てもかなりのものでしたよね。
あの当時は大衆レベルまで浸透してなかったのかな・・・「過激」なんていうもんじゃなかったですよね。
そう言えば、デヴィッド・シルビアンのジャパンなんかもキワモノかなと思ってました。
ただボウイと違って、「媚びている」印象がありました。
もちろんその後、音楽性の高さを理解できるようになるのですが。

原田知世の『ガーデン』、聴きましたよ。
これは凄いですね。
1992年でこの内容ですか。
安田成美のアルバムも含め、じっくり聴かせていただきます。

RUKO


by 末尾ルコ(アルベール) (2020-10-08 19:30) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

XTCもある意味、
コールドプレイとかレディオヘッドと同じだと思うのです。
いわゆるマイブームというのが誰にでもあって、
世間の流行とは関係ないけどそれに入れ込んだりして、
でもある期間が過ぎると何らかのきっかけで、
あるいはきっかけがなくてもなんとなく醒めてしまう。
でもそれで終わりではなくて、ある程度の時間が過ぎると
また聴いてみたくなったりするということの
繰り返しなのではないかと思うのです。
それが音楽の聴き方かなぁとも思います。

レコードジャケットはプライドも含んだ存在!
素晴らしいですね。そういうことを言いたかったのです。
大きな写真が欲しくて飾るのなら
レコードでなくポスターでもいいんですけど、
でもポスターとレコードジャケットは全然違います。
最近のCDで、CDサイズとLPサイズの間をとって
7インチジャケット、つまりシングル盤サイズの大きさの
CDジャケットというのがありますが、すごく中途半端です。
もちろんそれがもともとのシングル盤だったら
何の問題もないのですが、元がLPなのに無理矢理に7インチ、
というのがなんだか気持ち悪いです。
30cm角というのは見慣れていて刷り込まれているのか、
その存在感がしっくりくるんですね。

代用品はあくまで代用品であるべきで、
それと似たものに合成皮革がありますが、
最近はレザーといいながら
実は合成皮革をさしていたりすることがあって、
合皮はあくまでイミテーションであるということが
ないがしろにされつつあります。

川上未映子は最近になっていまさらなんですが
『わたくし率 イン 歯ー、または世界』を読みました。
これ、アヴァンギャルドですね。
ただ歯のこととか、生理的にキモチワルイ部分はあります。
気持ち悪さ率からいったら金原ひとみのほうが
気持ち悪い部分は多いのかもしれないのですが、
私は金原ひとみのほうが感覚的に合うみたいです。

本とレコードは似た存在感があります。
CDのほうがサーフェスノイズも出ないし、
という利点はあるのですが物体として見た場合、
レコードと較べると価値がないように見えます。
別に大きい小さいというサイズの問題ではないのですが、
ひとつにはあのプラスチックケースの構造が
価値を低めているような気がします。

デヴッド・ボウイとジャパンは同じ系列ですね。
プリンスはそのR&B版といってもいいですが、
やはり音楽性が違いますし露悪的な点において
よりアグレッシヴです。
それと楽器の演奏技術が飛び抜けています。

原田知世と鈴木慶一、そして高橋幸宏あたりが
今、私のマイブームです。
YMOでも坂本龍一は大体なぞっているのですが、
細野&高橋ラインはまだ未知の部分です。
原田知世のアルバムは出来不出来があって、
最近のも聴いてみたのですがあまりピンと来ませんでした。
若い頃の衣裳などYouTubeでみると
とんでもないものがあって、そういう時代だったのか、
と驚くことがあります。
by lequiche (2020-10-10 18:31) 

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