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原雅明『音楽から解き放たれるために』を読む・1 [本]

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Miles Davis (1973)

マイルス・デイヴィスの《Live in Tokyo 1973》というCDが発売された。当初、9月18日発売 (店によっては9月4日発売) ということになっていたが、実際に配送されてきたのは半月ほど後の10月6日であった。
同様にやや遅れてリリースされて来たのが阿部薫の《完全版東北セッションズ1971》である。マイルスのライヴより1年半ほど前の1971年、東北大学、秋田大学に於けるライヴと、一関・ベイシーのライヴをまとめたもので、ごく短いインプロヴィゼーションやMCも含めて収録されているのだが、発売元は先日話題にした巖本眞理と同じキング・インターナショナルの輸入盤仕様であり、このキング・インターナショナルの役割がわかってきたような気がする。
この時期の阿部の演奏の中でベイシーでのライヴはひとつのハイライトであり、今、ベイシーの映画が公開されているのと一緒になってしまったのはたまたまなのだろうが、偶然だけではない何かを感じてしまう。

さて、原雅明の本書は2009年の上梓であり、今、2020年の時点でこれを読むと、ひとつ前の時代という印象もあるけれど、その音楽に対する見方というものはそんなに変化していなくて、むしろ11年経って、時代はますます狭隘な袋小路に入りつつあることが明白になってくる。
なぜ今この本? と問われるのならば、たまたま書架から見つけたまだ読んでない本だったというのでしかないのだが、かっちりとした本で本文のOKL書体が快い。

最近、マイルスについて語られるときに気になっているのが《In a Silent Way》というアルバムに対する評価で、これまでは《Bitches Brew》の前哨として位置づけられることが多かったのだが、ピーター・バラカンは『Taking Stock』のリストで、マイルスの代表作として《Kind of Blue》と《In a Silent Way》を選んでいたし (→2020年08月16日ブログ参照)、『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド』でも、その選択に特殊性はあるとしても、同様に《In a Silent Way》が重要な作品として見られていた (→2020年09月13日ブログ参照)。《In a Silent Way》は発売された頃には酷評され、その後の《Bitches Brew》で何とかその存在意義を認められたような経緯がある。もっともパブロ・ピカソにせよジェイムズ・ジョイスにせよ、その当時には正当に理解されていたとはとても言えず、つまり同時代の評価というものがいかにあてにならないかという証左ともなる。
原雅昭が語るヒップホップやラップ的な音楽については知識がないので、深く読み込むことができない。そこで入って行くための手がかりとして、マイルスに関する部分から読み始めてみた。

マイルス・デイヴィスに関しては 「マイルス・デイヴィス・イン・’70 —— エレクトリック・マイルスとモダン・メソッド」 という記事がある。書かれた時期は《In a Silent Way》、そして《Bitches Brew》のリリースされた1969年から30年を経た1999年。そしてそれからさらに20年が経っているのだ。そのことをあらかじめ記憶しておかなければならない。

原雅明は《In a Silent Way》における3人のキーボーディストの弾くエレクトリック・ピアノが 「マイルスがエレクトロニクスに見いだしていたものを正確に伝えている」 と言う。

 主題となるメロディを反復するオルガン [ジョー・ザヴィヌル] 以外は、
 コードすらなぞることのないエレクトリック・ピアノの持続音は、さま
 ざまな音域で鳴らされることで、空間的な響きを獲得し、曲の全体を支
 配する音のテクスチャーを特徴づけていった。(p.115)

伝統的なジャズのルーティンはテーマとインプロヴィゼーションで構成されていて、テーマとして提示されるメロディのコード・プログレッションと小節数をワンコーラスと呼び、テーマに費やされる小節数とインプロヴィゼーション時のワンコーラスの小節数は原則として同じである。インプロヴィゼーションはそのコーラス数で循環するヴァリエーションであり、その積み重ねに過ぎない。コーラスという概念を外してしまうと、それは途端にフリーに近づくが、「コードすらなぞることのない」 のなら、それは原理的には完全にフリーである。ただリズムが一定にキープされていることにより、混沌にまで至っていないだけである。オルガンの反復とは一種のオスティナートであり、パッサカリア的手法ともいえるが、小節数の縛りこそないものの、戻るべきテーマ、つまりルートとして作用している。しかしあくまでメロディという旋律線であり、コード・プログレッションではない。
これは方法論的には、原雅昭も取り上げているように、オーネット・コールマンの志向に似る。すなわち、

 オーネットの理想としたのは、ドラムとベースが自由に組み立てていく
 ビートの上に、リード楽器の調性の束縛のないソロを展開していくこと
 だった。(p.117)

コード・プログレッションの束縛こそないものの、キープされたのはそのリズムである。オーネットの場合、「コード進行やモードからの解放ということよりも、ダイナミックなビートの組立の方にどうしても耳がいく」 (p.116) ということになるのである。
同様にマイルスも、途切れることなく続くエレクトリック期の演奏の中で、全体がメドレーとして構成されていることにより、曲毎にリズムの速度やパターンに変化はあるにせよ、一定のリズムがキープされることは変わりない。

オーネット・コールマンに対する分析と評価は少し後ろのページに収録されている 「オーネット・コールマン再考 —— 「もうひとつのジャズ」 の辿り着いた場所」 によって、より明らかになる。
原雅昭はオーネット・コールマンと対比してよく語られるジョン・コルトレーンをとりあげ、同じ集団的インプロヴィゼーションのアルバムであるコルトレーンの《Assension》と、オーネットの《Free Jazz》の違いについて述べている。
《Assension》は 「各楽器が層を成して鳴り響く、密度の濃い」 演奏であるのに対し、《Free Jazz》は 「リード楽器はユニゾンを基本にして、緻密なリズムパターンの隙間を埋めていくかのように、薄く鳴り響いている」 と書く (p.136)。
そして二人のコンセプトの違いが《Assension》は内省的であるのに対し、オーネットの同時期のライヴである《At the “Golden Circle” Stockholm》をとり上げ、「拡散していくソロをダイナミックなビートが支えるように、外へと向かった演奏」 と形容している (p.137)。

コルトレーンは《Giant Steps》でその萌芽が感じられるように、楽曲の方向性はコードの細分化であり、極端に煩雑に切り替わるコード・プログレッションの果てにフリーになっていった、と考えることができる。たとえばラシッド・アリのパルスのようなドラミングは、コードが瞬時に変化して行くことのメタファーとして指示されていたのではないかとも思えてしまう。
このリズムに対する方法論に於いて、コルトレーンとオーネットは対立的であり、マイルスの志向はオーネットに近い。そのマイルスについて原雅昭は次のように解説している。

 ここで重要なのは、スケール (音階) やコード (和声) と対比させて、楽
 理的に厳密にモードを理解することではない。それより、マイルスが、
 自らの音楽を 「厚ぼったくなってしまった」 と感じ、伝統的なコード進
 行を排して、ハーモニーよりもメロディックなヴァリエーションを見い
 だす方向へと直観的に向かっていったという事実の方に、見るべきもの
 がある。(p.120)

しかし、言葉通りにとらえるならば、楽音を 「厚ぼったく」 するのは和音の出る楽器、つまりキーボードやギターである。マイルスがそのエレクトリック期に、厚ぼったくしたくないはずなのにキーボーディストやギタリストを、それも複数人採用している点に、不思議なアイロニーが存在している。
パーカーによって複雑化されたテンション・ノートを多用するコード・プログレッションが、結果として音楽そのものを閉塞させてしまったといえる。といってもパーカー自身が複雑化に対して意識的だったわけではないが、理論は後からその現象面を整備してきたのである。

ここで先に結論を書いてしまうと、マイルスやオーネットがリズム、というかそのビートに固執したのは、まさに次の点にあると思われる。

 ジャズ全体の問題として、一部であれ60年代までのジャズには残ってい
 たダンス・ミュージックとしての役割は、70年代には、ソウル、R&B、
 ファンクへと完全にシフトしていってしまったのである。この事実に、
 多くの急進的フリージャズは全く頓着しなかった。しかし、オーネット
 とマイルスはそれぞれ異なる視点でありながらも、ソウルやファンクへ
 と接近する必要性を直観的に感じていたのである。(p.140)

ただ、オーネットの《Golden Circle》の演奏は、私には少し異なって聞こえる。これは以前にも書いたことだが、ワンホーンによるトリオというごくシンプルなフォーマットで、オーネットから聞こえる音は、伝統的ジャズからの発展形のように思える。コーラスの束縛がなく、リズムのみでコード楽器の存在しないトリオでありながら、このライヴから聞こえる音は、伝統的ジャズへの、いわばリスペクトである。すべては本来のジャズからはみ出しているが、それでいてアヴァンギャルドではない。軽快にスウィングしている。それはオーネットに備わっているジャズの教養が滲み出しているからであり、同様にエリック・ドルフィーの一部の演奏にもアヴァンギャルドの背面に見える伝統を感じとることができる。
《Golden Circle》は、映画《Chapaca Suit》の後の演奏であり、一種のエンターテインメントである映画音楽を作ったというオーネットの自信が、この奔放でありながら同時にトラディショナルさのある音につながっているのだろう。

そもそもジャズとは何かという定義に戻ってみる必要がある。原雅昭は次のように書いている。

 19世紀末、ジャズは、トーナルな西欧音楽の伝統と、無調性のアフリカ
 音楽の記憶を折衷するようにして登場してきた。ジャズは、異端ではあ
 っても、あらかじめ否応なしに西欧のトーナルな音楽の末裔に位置づけ
 られる存在だったのである。(p.119)

デューク・エリントンもカウント・ベイシーも元々はダンス音楽であった。それが時代とともにどのように変容しても、音楽が本来持っているエンターテインメント性というものをなかなか消し去ることはできない。そうした伝統あるいは因襲から抜け出そうとして現代音楽というジャンルが生成されたというように見ることもできる。
(つづく→2020年11月14日ブログ)


原 雅明/音楽から解き放たれるために (フィルムアート社)
音楽から解き放たれるために
 ──21世紀のサウンド・リサイクル




Miles Davis Septet/Live in Tokyo 1973 (Hi Hat)
Live In Tokyo 1973




Miles Davis/In a Silent Way (COLUM)
IN A SILENT WAY




映画・ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)
https://www.uplink.co.jp/Basie/

Miles Davis 1973.06.20 Tokyo
https://www.youtube.com/watch?v=lPOwQvk3C9c

Ornette Coleman/At the Golden Circle vol.1
https://www.youtube.com/watch?v=AkwrpJxJQ5s
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TBM

「1973」はまだ聴いていないので聴いてみたいです。
この頃のマイルスのアルバムでは「1969Miles」をよく聴きます。
エレクトリック期の作品はどれも興味深いのでよく聴きますが。
オーネットでよく聴くのは「Broken Shadows」です。
by TBM (2020-11-08 09:04) 

NO14Ruggerman

In a Silent Wayの3人のキーボーデーィストたちがそれぞれ70年代に大ヒットを飛ばしブレイクする訳ですね。
原雅明氏もピーター・バラカン氏も独自の着眼点を持ち得ている
のでしょうね。
ピーター・バラカン氏については先だってのlequicheさん記事で
知ることとなった直後に行きけつけのジャズバーでたまたま
隣に座った若いカップルが同氏のトークライブにその日参加して
きたと興奮気味に語っていて不思議な縁を感じてしまいました。
by NO14Ruggerman (2020-11-08 19:00) 

末尾ルコ(アルベール)

あらためてマイルスのディスコグラフィをチェックしてみると、まだ聴いてないアルバムがけっこうありました。
これで愉しみが増えたなあ~っと(←強がり 笑)。
聴いている中で自分の好きなアルバムを挙げてみますと、『Kind of Blue』『 Sketches of Spain』『Nefertiti』『In a Silent Way 』『Bitches Brew 』『Agharta 』『TUTU』といったところです。メジャーなアルバムばかりで何なのですが。
『In a Silent Way 』は最も好きなアルバムの一つで、初めて聴いた時から違和感なく好きでして。これは思うに、わたしがマイルス以前のジャズをその頃はほとんど聴かずに、ジャズはいきなりマイルスから入ったことにも原因があるのではと今気づきました。しかもマイルスも発表順ではなくて、わけも分からず手あたり次第聴き始めましたから。
どうしてそんなことになったかと言いますと、わたしはそもそもロック(特にブリティッシュ)まっしぐらの少年(笑)で、ジャズはまったく興味の外だったのですが、ある時マイルスが何かのロックフェスに参加していて、それをテレビで放送したのです。するとある年上のロックファンが、「マイルス見た?」とか話してるんです。はっきり覚えてます、その時初めて(マイルス・デイヴィスって、ジャンルを超えて特別なんだな)と知ったのは。
その後「マイルス前」のジャズは一切聴かずに、マイルスだけをどんどん聴いて、それでも先に書いたように未聴のアルバムがけっこうありますけど、ジャズの何たるかをまるでシラス、『In a Silent Way 』『Bitches Brew 』などをカッコいいなあと感じてましたですね。
『 Sketches of Spain』もインパクトありました、(あの曲をこんな風にして作品化できるのか・・・)という衝撃です。
それと映画です。『死刑台のエレベーター』はもちろん、『シエスタ』というエレン・バーキンやジョディ・フォスターの出ていたちょっとおおしろい映画のサントラもマイルスで、印象的でした。
なので音楽に限らずどの作品をどう感じるかは、個人史によることも多いのだなあと、お記事を拝読しながら感じたものです。

「同時代の評価」というものがアテにならないのは、どのジャンルでも頻繁に見られますね。いつもlequiche様がおっしゃっているように、「信じるに足る自らの鑑賞力を磨く」ことに努めていきたいところです。同時に、なかなか評価されない表現者たちも、「諦めてはならない」ということでもありますね。「評価自体アテにならない。どう変わるか分からない」わけですから。

・・・

> たとえば学園祭の展示物に対するアンケート

確かに。
そして学園祭のアンケートであれば、ごくごくローカルでことは済んでしまいますが、ネットは場合によってはかなり多数の目に触れることになる。ここが問題でもありますね。そして何かを貶めたコメントに対して、「そうだ、そうだ」と衆愚が集まる羽目になるという。
> アイドル論というのは一種のフェティシズム

そうですよね~。そのような世界もあっていいのでしょうが、それが文化シーンの中心にいては困ります。

トランプ政権が終わりましたね。
日本にも根強いトランプ支持者が残念がっていますけれど(笑)、あの大統領のやったことで最も世界に悪影響を与えた一つは、「相手を貶めるためにどんな醜悪な言葉を使ってもいい」と多くの人が信じてしまったことだと思ってます。
バイデンがどのくらいのことができるか分かりませんが、トランプ時代に地に堕ちた「言葉の価値」が少しでも復興していように願います。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-11-09 02:19) 

lequiche

>> TBM 様

1969 Milesは良いですね。
いわゆるLost Quintetと言われるユニットですが、
私はジャック・ディジョネットが好きなので。
まだウェイン・ショーターがいるので
アコースティク・クインテットの香りがします。
逆にいえば十分にスウィング・ジャズですね。
時期的にはサイレント・ウェイの後、
ビッチェズ・ブリューの前にあたりますが、
そういう時期にこういう演奏をしていたというのが面白いです。
ひょっとしてマイルス的には気分転換だったのか、
という印象さえあります。

1969 Milesはアンティーブ・ジャズフェスのライヴですが、
これを含めたロスト・クインテットのライヴを集めたのが
The Bootleg Series vol.2のLive in Europe 1969です。
ブートレグ・シリーズは現在vol.6まで出ていますが
特にvol.1とvol.2は必聴だと思います。
尚、昨年リリースされたRsk盤のLost Quintetは初出音源で
Bootleg vol.2とは被らないようです。

Broken Shadows→Complete Science Fictionですね?
このアルバムはまだ未聴です。
そのうち聴いてみたいと思います。
by lequiche (2020-11-12 05:51) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

そうなんですよね。
彼らはまだそんなに有名ではなかったはずで、
それをピックアップしたマイルスは慧眼だと思うのです。
ただ、これはつづきの記事に書くつもりなのですが、
新進気鋭の彼らのピアノも今聴くとちょっと古いというか、
まだマイルスのコンセプトがわかっていなかった、
というふうに私は感じています。

今、この時期にトークライヴなんてやってるんですか?
それはすごいですね。
そうした偶然は、完全な偶然ではなくて、
何かしらのつながりがあるのかもしれないと思うのです。
by lequiche (2020-11-12 05:51) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

メジャーなアルバムばかりなのは良いと思います。
誰もが良いと思うのでメジャーになっているのですから。
順不同で聴くのも別に構わないと思います。
私の好きなのは何だろう? と考えるのですが、
プレスティッジの4部作だったりするのかもしれないです。
Steamin’とか。
あと、もっと古いのだと25cm盤の復刻ボックスの
vol.1だけ持っているんですが、これも好きです。

常に満遍なく聴くのではなくて
一点集中主義で聴くというのも方法論としては正解です。
必要になればそれ以外のものを聴く機会が出てきます。
そうでなければ偏った聴き方だったとしても
別にかまわないのではないかと思うのです。

Sketches of Spainは美しいアルバムですね。
ギル・エヴァンスの力が大きいと思いますが、
後半曲のSaeta、Soleaあたりでの
エルヴィン・ジョーンズに単純さの中の構築性を感じます。

マイルスはこの1973のライヴでも、
その他のライヴでもそうですが、
そこでスタジオで録音した曲をどのように演奏するか、
どういうふうにアプローチしていくかということで
常に意外性があります。
エレクトリック期が最近、また別の角度から注目されてきた
というふうに私は感じています。
マイルスがやりたかったこと、あるいは
やりたかったけれどできなかったこと、というのが
次第にわかってきたからなのではないかと考えます。
マイルスはメンバーたちに勝手にやらせているようにみえて、
でもその統率力は強いと思うのです。
ですがそういうコンセプトは後からわかってきたことで
その当時は、たぶん誰にもわかっていなかったのではないか
と思います。

トランプ支持者っているんですね。
もっともどんな人にでも支持者はいるのですから当然ですが、
mixiというSNSでは時代錯誤な人たちが書き込んでいて
こんなところに書き込んでも何の意味もないのに、
と笑ってしまいました。
往生際が悪いというのか、つまり下品な人でしたね。
すでに過去形で書くしかありません。

今回のドナルド・トランプを見ていて連想したのは、
筒井康隆の 「火星のツァラトゥストラ」 という作品です。
ある日、突然のように出現した男が旋風を巻き起こすけれど
結局元の鞘に戻ってしまって何もなかったと同じ、
という意味においてですが。
彼もまた、不動産屋に戻るのでしょう。
by lequiche (2020-11-12 05:51) 

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