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100分de名著『伊勢物語』を読む [本]

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伊勢物語・天福本 (NHK・100分de名著サイトより)

100分de名著は月毎に1冊の本を取り上げて解説するNHK・Eテレの番組であるが、私はテキストは買うのだけれどTV放送を観たことがほとんどない。なぜなら何度かトライしているうちにだんだんわかってきたことなのだが、テキストを予習してから番組を観るといかにも冗長で情報量も少なくてあまり満足度が得られないからだ。ということで、ついテキストを読むだけで済ませてしまうのである。これはたとえば語学番組などでも同様で、番組自体の情報量はテキストに較べて少ないことがほとんどで、語学の場合は発音などを聞けるという利点があるけれど、100分de名著のような場合は読むという行為にたよってしまうのだ。そのほうが私には理解できやすいということにほかならない。

さて、ということで11月にとりあげられたのは『伊勢物語』、講師は高樹のぶ子であったが放送は一度も観ていなくて申し訳ございません。でもテキストはよく書かれていて大変面白かった。

このテキストの中で最も明快に認識できたのは 「みやび」 という概念である。テキスト表紙のキャッチには 「未知を謙虚に畏れることが、真の 「みやび」 をもたらす」 とあるが、テキストの中でも 「解らないことに耐える力が 「みやび」」 だと丁寧に解説されている。

 みやびとは何か。これは単に、華やかであるとか、高貴な人たちが身に
 付けていたふるまいを指す言葉ではありません。みやびの本質とは、解
 らないことは解らないものとして残しておく、という余裕のある態度の
 ことだと私は思います。全部を明らかにして身も蓋もないかたちにする
 のではなく、解らないものを 「そういうものもあるだろう、あっても良
 いだろう」 という態度で残しておくのです。(p.30)

もっとも平安時代には怨霊とか祟りとか死の穢れといったことが信じられていた時代であって、現代よりも人間の力の及ぶ範囲が限られていたことは確かなので、そうした慣習が存在していたのだろう。だがそうした認識ではない人もいた。それが権勢のただ中にいた藤原氏である。

 これと対極にあるのが、自らの権力欲を満たそうとがむしゃらになった
 藤原道長の詠んだ 「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもな
 しと思へば」 の歌です。(p.31)

そして、

 がむしゃらにならないということは、言い換えれば、自分が解明できな
 いことや叶わぬことに耐えることなのです。私は、それこそがみやびで
 はないかと思います。未知のものを謙虚に畏れ、突き詰めていかない態
 度やふるまいです。(p.31)

と書いている。「みやび」 という言葉の解釈がとても明快で、そしてそれは現代に通じる問題でもある。権力に執着して 「この世をばわが世とぞ思ふ」 ようになってしまった人間の醜悪さを指摘しているといってもよい。

もうひとつの重要な指摘は、在原業平は当時の貴族社会では異端の人だったということである。当時の貴族社会では漢文・漢詩が男性の、多分に政治的な意味あいを含めた教養として必須の条件であったが、業平はそれが苦手であった。和歌は女性の扱うものであるということで一段下に見られていた。しかし、異端であったが、彼は 「権力を脅かさない異端」 であり、つまり権力争いから外されてしまった境遇になっていたので、その異端は許容され、その能力に対して役割が与えられたのだ、とある。それが和歌の才能であった。
そして、そうしたヒエラルキー構造はその後どうなったのかというと、

 それから千百年経った現在、藤原氏の権力などもう何も残っていません
 ね。残っているのは業平の歌です。つまり、文化こそが残っていくもの
 であり、永遠の命を持っているのです。そして、業平はそのことが解っ
 ていたのではないでしょうか。今だけしか見えていない人には無常観も
 何もありません。無常観を持つことは、時間を過去から未来に向かって
 長いスパンで考えることです。(p.99)

と、しめくくるのである。権勢欲などというものは平安の昔も現代もそんなに変わっていないのに呆れてしまうのだが、つまり人間とは進歩が無いものなのかもしれなくて、そしてそうした強欲な思考は強そうに見えて脆いものであるというふうにも思える。

歌の解説の丁寧さにとても納得しながら読んでいた。そのひとつとして、

  またの年の睦月に、梅 [むめ] の花ざかりに、去年 [こぞ] を恋ひて行
 きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣き
 て、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひでてよめ
 る、
   月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身一つはもとの身にして
 とよみて、夜 [よ] のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり。(p.46)

高樹はこの歌を業平の絶唱ととらえている。上の句の 「や」 という助詞が2つ出てくることに対しての解釈の論争についても触れているが、高樹はそれに対して、「業平の思いがあふれ出てしまったゆえの表現」 という。
これは後のページであらためて言及されている箇所でもあって、

  「月や」 「春や」、「あらぬ」 「ならぬ」 と、音を重ねているのも非常に業
 平らしい。(p.86)

と指摘している。このような音の連鎖、対句的手法というのは現代の歌詞の書き方にまで影響を与えていると考えてもよい。41ページでとりあげられている

 いでて来 [こ] しあとだにいまだかはらじを
   誰 [た] が通ひ路 [ぢ] と今はなるらむ

にしても、「いでて」 「いまだ」 「今は」 という 「い音」 の連鎖、「でて」 「だに」 「いまだ」 「誰が」 「路と」 という 「た行」 の連鎖があり、しかも 「かはらじを」 に対する 「通ひ路と」、「いまだ」 に対する 「今は」 という近似音の繰り返しがあり、全体が非常に技巧的でありながら技巧だけに終わっていない秀逸さである。

業平に影響を与えた女性として、藤原高子、斎宮であった恬子 [やすこ] 内親王を、そして男性として紀有常、源融 [みなもとのとおる]、惟喬 [これたか] 親王の3人を 「エロス的親愛で結ばれた男たち」 としてまとめているのもわかりやすい。
藤原高子も恬子内親王も能動的で自我のある女性であった、と高樹は書いている。女性の自我は本来、存在していたのかもしれないが当時の物語の中ではそうしたものはないものとして無視されてきた、とも書く。そうした状況の中で、彼女たちの性格はある意味特異であり、それに業平は惹かれたのかもしれないのであるという。
斎宮恬子が深夜に業平のもとに来てしまう箇所は美しい。

 二日といふ夜、男、[われて、あはむ] と言ふ。女もはた、いとあはじと
 も思へらず。されど、人目しげければ、えあはず。使 [つかひ] ざねと
 ある人なれば、遠くも宿さず、女のねや近くありければ、女、人をしづ
 めて、子 [ね] 一つばかりに、男のもとに来たりけり。男はた、寝られ
 ざりければ、外 [と] の方 [かた] を見いだしてふせるに、月のおぼろな
 るに、小さき童 [わらは] をさきに立てて、人立てり。男、いとうれし
 くて、わが寝 [ぬ] るところに率 [ゐ] て入りて、子一つより丑 [うし]
 三つまであるに、まだなにごとも語らはぬに帰りにけり。(p.51)

ふたりは語り合ったのであるがでも語りきれなくて、しかもそれだけで帰らせてしまったという (業平、何という失態。でも相手は斎宮だからなぁ)、この部分の情景とそのもどかしさがとてもリアルである。

エロス的親愛とは、別にエロティックなわけではなく 「身体的な感覚で相手とつながりを持つ」 「直観的な身体感覚」 のことだと高樹はいうが (p.58)、それぞれが結局権勢とは外れた位置にあり、そして無常観をただよわせた貌がうかがいしれる。それはエロスという言葉と対にして連想されるタナトスに通じる。
そして惟喬親王と恬子内親王は兄妹であり、この時代の近親的関係性が多かったということだけにとどまらない何か運命的なものを感じ取ることができる。

と書いていくとこの本の内容を全部書いてしまいそうできりがないのでこのへんで止めることにするが、『伊勢物語』は私にとってはややわかりにくい構造をしている物語であった。それは高樹のいう、伊勢物語はプレ源氏物語であるため、その主体が和歌にあり、物語の構築性としては未完成だったということにあるのかもしれないが、そもそも歌の解釈そのものがいまひとつピンと来なかった。そうした疑問を解き明かしてくれたのがこの解説である。


100分de名著『伊勢物語』(NHK出版)
NHK 100分 de 名著 『伊勢物語』 2020年 11月 [雑誌] (NHKテキスト)




高樹のぶ子/小説伊勢物語 業平 (日本経済新聞出版)
小説伊勢物語 業平

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JUNKO

この番組は見たような見ないようなあいまいな記憶しかありません。
「伊勢物語。は好きな本で業平の和歌もとても懐かしく読ませていただきました。他にどんなのがあるのか見てみます。
by JUNKO (2020-11-28 20:53) 

lequiche

>> JUNKO 様

古典のスタンダードですから懐かしい感触はありますね。
伊勢物語というと最も有名なのは 「かきつばた」 の東下りですが、
私にとっての業平は伊勢から派生した能の 「井筒」 です。
伊勢物語はむずかしいという先入観が私にはずっとあって、
むしろ定家の頃の技巧的な歌のほうがわかりやすい、
という思い込みもありました。
今回の高樹のぶ子先生の解説によって、
あぁこういうふうに感じてしまっていいんだ、
という箇所がいくつもあって、とても安心しました。
by lequiche (2020-11-28 21:30) 

うりくま

今回は野村萬斎の朗読も楽しめたのでTVも良かった
です。が、私はぼ~っと見ていて内容もすぐ忘れて
しまうので、自分のペースで気になる所をじっくり
読めるテキストもほしくなってしまいます。。
番組で紹介されると原本や解説本が書店の売上ラン
キングの上位に入ったりして、結構ファンが多いの
だなあと心強く?思います。
by うりくま (2020-11-28 23:42) 

lequiche

>> うりくま様

野村萬斎さん良いですね。アクが強いですけど。(^^)
NHKの100分のサイトにある動画でちょっとだけ観ました。
ただ、萬斎さんは以前、TVドラマでアクロイド殺人事件を
やったときのイメージが強く残っていて、
私の記憶にこびりついてしまってるのかも、です。

100分de名著ってもう103冊めなんですね。
大きな書店に行くとテキストのバックナンバーがありますので、
気になった回のを買ったりしてます。
今回の伊勢物語だと系図などのデータが掲載されているので
576円ですし、便利にしてます。
ファンはかなりいらっしゃるんじゃないかと思います。
by lequiche (2020-11-29 00:54) 

末尾ルコ(アルベール)

父が高校の古文教師でした。
ところがその息子はなかなか古典には興味を持たず、特に高校時代の古文授業が無味乾燥でつまらなくて、ようやくある程度大人になったから興味を持ち始めた有様です。教師の責任ばかり言い挙げるべきではないですが、古典文学いくらでもおもしろい授業ができるはずですが、わたしが通った進学校の授業は実につまらなかったです。
で、大人になってから読んできた古典文学は、しかし『方丈記』、『徒然草』、『平家物語』、新しものでは『奥の細道』あたりです。あ、武士道関係で、宮本武蔵の『五輪書』、そして『葉隠』なんかも読みました。でもすらすらは読めません。解説はあった方がいいです。

『伊勢物語』についてはほとんど記憶がないです。でも今回のお記事で俄然興味が湧いてきました。高樹のぶ子がこんな素晴らしい解説をするのですね。こうなると彼女の著作ももっと読みたくなってきます。

最近はNHKの講座、わたしも観てないです。以前はよく観てたんです、特に語学。フランス語、英語はもちろん、身につきもしないのに、ロシア語、ドイツ語、スペイン語なども録画して観ている時期がありました。それだけおもしろかったです。
ところがおっしゃる通り、近年はフランス語講座だけをとっても、番組自体は「講座」の体をなしてませんよね。まるで軽い紀行番組のような感じ。ライト層ににじり寄り過ぎというところなのでしょうかね。

> 「解らないことに耐える力が 「みやび」」 だと丁寧に解説されている。

これは素晴らしい解説ですね~。実に共感できます。
なにせ世の中、「分かったつもり」の人たちが多過ぎますからね。
根本的なことを述べさせていただきますと、「人間ごときが森羅万象を理解できるわけがない」というのがわたしのスタンスなのですが、「宇宙のすべてが分かった」とか「人間の脳についてほとんど分かった」とか、それに近いこと言う学者や識者など、多いですよね。
まあわたしの場合は学者でも識者でもありませんから、「分からない」のは当然なのですが、少なくとも「学者や識者らの多くは分かってない」ことは分かっています(笑)。
いつも思うんですが、例えば歴史学にしても、いかに文献を精読しようが、所詮は人間が書いたごくごく小さな情報であって、「実際の状態」など分かろうはずもないのに、「これこそ真実だ」とかすぐそんな言い方で「新説」が発表されます。
それはそれで意味のあることなのでしょうけれど、せめて「こうだ!」ではなく「こうかもしれない」という謙虚なスタンスでいてほしいものです。まあ学者の方々にそれを望んでも無理でしょうが。

あと、クラシック音楽に関して、「現代よりも死が身近だった時代だからこその創作」という文脈でお話しさせていただいたことがありますが、古典文学を読むおもしろさはそうした時代の生の雰囲気が感じられることだとも思います。

> 文化こそが残っていくものであり、永遠の命を持っているのです。
> 無常観を持つことは、時間を過去から未来に向かって長いスパンで考えることです。

これはもう感動的とさえ言える言葉で、大同感ですし、勇気が湧いてきます。
ちょっと曖昧な記憶で正確かどうか分かりませんが、ある本に「砂漠の民が最も恐れたのは詩人である。それは詩人の言葉が時を超えて残るからだ」と、そんな意味のことが書かれていました。
「永遠の命」という言葉から思い出しました。
そして「無常観」という概念は、時にニヒリズムを想起させるのですが、上記の言葉はそれとはまったく違いますね。
実に興味深いです。

・・・

昨日の『ウィ―クエンドサンシャイン』。プリンスの特集でしたが、めちゃめちゃおもしろかったです。まさに天才の成せる業。バラカンの選曲もまたいいですし。

> 明るいアメリカンという選択肢

10代のわたしはそれが苦手だったんです。
アメリカ音楽の奥深さが理解できてませんでした。アメリカという国の猛烈な光は、当然ながら猛烈な影と表裏一体なんですよね。

RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-11-29 01:05) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

あぁ、身近過ぎてかえって意識して苦手になってしまう、
ということがあったのかもしれませんね。
古典を学ぶ方法のひとつとしてとりあえず覚えてしまう
というのがあります。つまり暗記です。
高校生の頃ですと、百人一首を覚えてしまう
という課題もありましたし、枕草子でも方丈記でも
ある程度の量の文章を丸暗記することによって
文章のリズムがわかってくるという利点があります。
助動詞の活用なんかでも同じです。
私は記憶することがそんなに苦手ではなかったので。
昨今の語学番組はもはや紀行番組、そんな感じですね。
それでやった気になってしまうのかもしれません。
地道な努力というのは嫌われてしまうのでしょうが、
フランス語だったらいかに不規則変化を覚えるかです。
ともかく記憶することだと私は思います。

 思ふこと言はでぞただにやみぬべき
   われとひとしき人しなければ

「思っていることは言わずにおこう。
なぜなら私と同じ人はいないのだから」
高樹のぶ子は第124段の歌を引用して、こう言っています。
これは死を間近にして吐露した業平の一種の諦念であり、
和歌に託して心を言葉で表現してきたはずの業平が、
結局、それは無駄だったのかもしれないと嘆いてしまう——
このことを高樹は 「創作者の心に宿る虚無」 だと言い、
創作する者は皆、この虚無を抱えていると説明しています。
「みやび」 についての解説で、
すべてを白日の下にさらけ出す必要はない、としたことと、
「言葉によって心を伝えることは、結局、できない」
という意味のこの虚無の指摘とは共通する部分があります。
つまり人間の力ではどうすることもできないことがある、
という、いわば自然への畏怖です。
でもそれでありながら、なお、言葉を残していく。
それが千年経ってから、どこかで伝わることがあるかもしれない、
とする希望です。
高樹はそのようにして業平からの言葉を受け取った、
というのです。

金銭欲だけの権力者は歴史に汚点すら残せません。
残るのは文化で、それは金銭とは無関係なものだからです。

ウィ―クエンドサンシャイン、今、ネットで聴きました。
バラカンさんもサイン・オブ・ザ・タイムズを
重要な作品ととらえているようです。

光のそばには影がある、というのは
アーシュラ・K・ル・グィンのゲド戦記のテーマです。
まさにそれはアメリカという国の体質をも
あらわしているのかもしれないです。
by lequiche (2020-11-29 05:13) 

英ちゃん

NHK・Eテレは見た事ないな(^▽^;)
by 英ちゃん (2020-11-30 00:47) 

lequiche

>> 英ちゃん様

みてください。おベンキョーになりますよ。(笑)
by lequiche (2020-11-30 11:19) 

Rchoose19

この番組は欠かさずみています♪
テキストは買ったことがないです^^;
英ちゃんさんと逆で、NHK・Eテレ以外は
あまり見ません^^;
鉄腕ダッシュは観るけどね!

by Rchoose19 (2020-12-04 08:37) 

lequiche

>> Rchoose19 様

おぉ、そうですか。素晴らしいです。(^^)
テキスト読んで番組を観るのが理想なんでしょうけど。

私がほとんど欠かさず観るのは
次のブログに書いている《関ジャム》です。
最近、演奏が無いのが’ちょっと残念ですけど。
by lequiche (2020-12-05 23:05) 

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