皆川博子インタビュー集を読む [本]
皆川博子長編推理コレクションの第4巻にはインタビュー集があって、これが面白い。皆川の主張は常に一貫していて、現実に即した私小説的なものでなく、荒唐無稽なもの、想像力を刺激するものにこそ興味があり、そうした世界を描きたいという思いがあるようだ。そして子どもの頃にすでに大人向けの本を読んでいて、それが彼女の創作のベースとなっていることが感じられる。
家が開業医だったので、その待合室に多種多様な本があって、また書斎にも本があって、それらは大人のための本だから子どもは読んではいけないといわれていたが、隠れて読んでいたのだとのこと。昔の本は総ルビなので、子どもでも読もうと思えば読めてしまったのだということだが、単に漢字が読める読めないということだけではないはずで、理解力がなければ読み進むことはできない。
日本文学全集、世界文学全集だけでなく、日本大衆文学全集、世界大衆文学全集といった全集ものがあったのだそうで (これは叔父の部屋にあったという発言がある)、ユーゴーとかディケンズは大衆文学に入っていたのだという。その頃のエンターテインメントというものに対する評価がどういうものであったのかがよくわかる。日本の大衆小説で印象に残ったものとして皆川は、吉川英治『神変麝香猫』『鳴門秘帖』、三上於菟吉『敵討日月草紙』、そして国枝史郎、小酒井不木などをあげている。
子どもの頃は何を読んでも面白かったと皆川は言うのだが、でも冒険小説的なものはあまり興味がなく、ハウプトマンの戯曲『沈鐘』とかピランデルロの戯曲『作者を探す六人の登場人物』、ジュリアン・グリーンの『閉ざされた庭』(アドリエンヌ・ムジュラ) といった本が好きだったという述懐がすでに尋常ではない。
日本の場合も江戸の戯作的な世界にその興味があって、山東京伝の『櫻姫全伝曙草紙』が『妖櫻記』の中に反映されているのだという。半村良の 「およね平吉時穴道行」 では山東京伝が重要なファクターで、それを読んで山東京伝という名前を識っていたので、あぁここにも山東京伝、とあらためて思ってしまった。
ミステリとの出会いは、小学校に上がる前、大人の雑誌の付録に再録さ
れた江戸川亂歩の「人間椅子」を読んだのが最初だと思います。(p.346)
もちろんこれも隠れて読んでいたのだろうが、幼稚園児で人間椅子ってどうよ、と思ってしまう。だがホームズやルコックのようなミステリよりも、デュマ、ユーゴー、ポーといった作家のほうを好んでいたのだという (この箇所、「亂歩」 と正字で組まれているところに皆川のこだわりと敬愛を感じる)。
『赤江瀑の世界』という本の中の鼎談で、皆川博子が赤江ファンであることが書かれていたが (→2020年07月11日ブログ参照)、赤江瀑の短編集『獣林寺妖変』を読んで、こういうのが掲載されるのなら私も書けるかな、と赤江の作風が皆川の創作活動のきっかけになったことを語っている。
けれど実際には、次々と書かせてはくれるのだけれど編集者からのいろいろなオーダー (縛り) があってなかなか思うような作品が書けないジレンマがあったのだともいう。
作家となって旺盛な執筆量をこなしながらもさらに読書欲がおさまることはなくて、ラテン・アメリカ文学のブームからの影響もあったのだという。『薔薇密室』はボアゴベィのテイストがあるといいながら、実はドノソの『夜のみだらな鳥』の雰囲気の影響があるともいう。
海外ミステリに関しても、クイーンやクリスティのような正統的ミステリを読むといいながらも、好きなのはボアロー=ナルスジャックで、その雰囲気のダークさが良いのだという。ディクスン・カーは文章が読みにくかったというのだが新訳の『曲がった蝶番』は読みやすかったとも語っている。さりげなく『曲がった蝶番』をとりあげるところがさすがである。
佐々木定綱のインタビューによる詩歌に対する言及が大変に面白い。小学生の頃、『少女の友』と『少女倶楽部』という雑誌が出ていたのだが、『少女の友』は頽廃的だといわれていて (中原淳一の絵で有名)、家で買ってくれないのでいとこの家に行って読んだとか、女学校1年 (12歳) のとき、斎藤茂吉の『万葉秀歌』を読んで面白かったので万葉集も読んだとのこと。そして佐々木定綱と塚本邦雄の話題で盛り上がる。二人とも初期の歌が好きだとのことだが、万葉集でも塚本邦雄でも次々にすらすらと引用できるのがすごい。現代詩では多田智満子を評価している。
と、インタビューの話ばかりになってしまったが、この第4巻におさめられている『花の旅 夜の旅』『聖女の島』もそれぞれ楽しみながら読んだ。『花の旅 夜の旅』は凝ったつくりの小説で、入れ子細工の複雑さで最後まで持って行ってしまうような印象。『聖女の島』はそれに較べてずっと読みやすいが、軍艦島をその舞台のイメージにしていて、いわゆる閉ざされた環境という点でミステリーのひとつのパターンを踏襲している。語り手をかえてストーリーを持続させながら最後に幻想小説として変化するところが 「してやったり感」 がして、なるほどと納得する。その廃墟のイメージに私はなぜか深緑野分を連想してしまった。
あとがきによれば『聖女の島』を書いた当時、軍艦島は立ち入り禁止だったのだそうで、その写真集を見て衝撃を受けたのだという。廃墟のイメージはマルグリット・ユルスナールの『ピラネージの黒い脳髄』に掲載されていた版画に重なると述べている。そしてこのユルスナールの本の訳者は多田智満子である。
ユルスナールとピラネージという連想にとても共感してしまう。私の中でユルスナールは須賀敦子に、ピラネージはジュリアン・グラックへとつながってゆく。さらにいえばグラックはシュルレアリスムとしてよりも幻想小説として解釈したほうが妥当なのではないかという思いがある (『アルゴールの城にて』はあきらかにそうだし『シルトの岸辺』だって幻想がその根底に存在している)。このブログのごく初期に私は須賀敦子のことを書いたが (→2012年01月30日ブログ)、ひとりの人間の求めるテーマはそんなに変化しないのかもしれない。
皆川博子長篇推理コレクション 4 (柏書房)
皆川博子長篇推理コレクション 3 (柏書房)
皆川博子長篇推理コレクション 2 (柏書房)
皆川博子長篇推理コレクション 1 (柏書房)
おもしろいですね。自分自身の幼少期からの読書体験を思い出すきっかけとさせていただきました。
わたしはこのところはどちらかと言えば、人間のリアルな感情を中心として描かれた小説を好んで読んでますが、もちろん「荒唐無稽なもの、想像力を刺激するもの」も大好きです。
子どもの頃はリアリズムな小説はまず読まなかったです。家に日本文学全集的な書籍、あるいは一部外国文学書もありましたが、読み漁ったのはまず子ども向けの江戸川乱歩、そしてシャーロック・ホームズなどでした。
『人間椅子』は小学校3~4年生くらいでした。幼稚園児の頃は読んでません(笑)。
幼稚園児の頃は小説よりも図鑑とか、それと「世界の不思議な出来事」的な話題を集めた本がありますよね。そういうのが大好きでした。「セントエルモの灯」とか「サルガッソー海の謎」とか「ツタンカーメンの謎」とかいった類のやつです。愉しかったです、その手の本って。
> 待合室に多種多様な本があって
そういう環境って、決定的ですよね。幸い我が家にも多くの本がありました。それと何がきっかけかは覚えてませんが、月に一度移動図書館が近所に来まして、その際に限界まで本を借りてました。借りた日はもうずーっと寝床で(笑)読書三昧です。その当時の幸福感は、何物にも代えがたいほどのものでした。やはり荒唐無稽な推理小説やSFが多かったです。
本屋で買って読むようになるのはやはり少学3年くらいです。まず大人むきの乱歩を読破しまくりましたし、『渚にて』やアシモフなんかも買ってもらいました。外国文学で読み始めたのは、『人形の家』とかツルゲーネフとかでした。これらはけっこう分かりやすかったです。フランス文学は中学以降だったと思います。
> ユーゴーとかディケンズは大衆文学に入っていた
ディケンズは分かりますが、ユーゴーってどうなんでしょう。彼は詩人として偉大ですよね。でもフランスで『レ・ミゼラブル』が大衆小説的だったのは分かります。
日本の時代小説は大人になってから読み始めました。10代では、山田風太郎は読んでましたが、他の時代小説は読んでませんでした。
> 述懐がすでに尋常ではない。
尋常じゃないですね(笑)。
わたし、子どもの頃はそうした作家たち、知りませんでした。
半村良も一時読んでましたよ。この方の作品、読みだすと次々読みたくなりますよね。
最近はあまり語られませんが、日本の推理小説では高木彬光もよく読んでいた時期がありました。
まあ、ポーに関しては、子どもの頃から「ともに人生を歩んでくださっている」と、口幅ったいですが(笑)、そういう存在です。今も紐解くことしょっちゅうです。
ボアロー=ナルスジャックはいいですよね。あまり書きこんではないですが、雰囲気がとてもいい。
最近のフランス作家では日本でも人気のピエール・ルメートルをよく読んでます。この人、ミステリだけでなく、ゴンクール賞も獲っているようです。
・・・
> パンクというよりもプリミティヴなロック
これ、すごく分かります。
そこにパティ・スミスの普遍性があるのではと。
そして情動性と明晰性ですが、わたしの場合明晰性にはまるっきりかけておりまして、その意味でもローリー・アンダーソン、もっと注目していきたいと思ってます。 RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2021-02-28 19:17)
>> 末尾ルコ(アルベール)様
子どもの頃から読書が大好きというのはよくあることですが、
皆川博子の場合はあまりに早熟過ぎて、
でも総ルビだから読もうと思えば読めてしまう、
といわれると、なるほどそうなのか、と納得できてしまいます。
ルコさんの場合も皆川先生と同じように、
家に読むための本があったというのは良い環境でしたね。
私の場合は、読書環境というのに恵まれていなくて、
つまり家に書籍は無かったといっていいです。
ごくつまらない雑誌かグラフ誌程度しかありませんでした。
ですから読んだのはほとんどは図書館の本か、
または教科書です。(笑)
ゼロから始めたので最初は何を読んでよいのかわからず、
でもだんだんと自分で構築して本を選択して
次第に本を増やしていきました。
ですから今ある蔵書はほとんど全て自分で買ったものです。
子どものときに持っていた唯一の大人向けの本は
誠文堂新光社の『全天恒星図』でした。
星座の地図です。
私が今、図書館を全く利用しないのは、
もう一生分、図書館は利用してしまったからです。(笑)
本は自分の手元に永続的に存在しなければ意味がないことを
子どもの頃に嫌というほど思い知らされてきたので、
意地でも図書館は使いたくないんです。
皆川先生の場合はいわゆる中間小説という言い方で
ご自分のジャンルを語っていますが、
そうした大衆文学的なたくましさというのは
純文学的な純粋培養の傾向の作家とは異なりますが、
それは重要ですし時代をあらわす作品であると捉えています。
皆川博子が最も敬愛しているのは同時代的には赤江瀑、
そして最も尊敬している作家は山田風太郎です。
戯曲を読んでいたというのが半端じゃないような気がして、
小栗虫太郎もストリンドベリの戯曲を好んでいた
と皆川先生は言っていますが本当かどうかは不明です。
戯曲というのは脚本とか台本なわけですから、
実は俗な内容なのですね。それはシェイクスピアも同じです。
音楽の場合でも、トマス・ディッシュが
なぜ《軍艦ピナフォア》みたいなオペラの題材を
SF作品の中で取り上げたのかというと、
そうした通俗な大衆的作品のほうがその時代が映せるからです。
でもギルバート&サリヴァンは
音楽史的にはほとんど無視されています。
それは例えば宝塚歌劇が芸能としては語られるけれど
音楽史の中ではたぶん冷遇されてしまうのと似ています。
半村良は一種の流行の時期があったように思います。、
今はあまり顧みられませんが初期の作品のほうが好きです。
ローリー・アンダーソンの最も有名な曲は〈O Superman〉です。
歌詞を和訳しているブログがありますので
(うまく訳すのはむずかしいですが)、
大体の意味はこれでとれると思います。
https://blog.goo.ne.jp/tama-4649/e/42ea5388673270417b79441d2f3b3bce
by lequiche (2021-03-01 02:06)
>ハウプトマンの戯曲『沈鐘』とかピランデルロの戯曲『作者を探す六人の登場人物』、ジュリアン・グリーンの『閉ざされた庭』(アドリエンヌ・ムジュラ) といった本が好きだったという述懐がすでに尋常ではない。
す、すごい… 皆川博子の読書歴、さすがですね。
幼稚園の頃私は絵本みたいなものしか読んでおりません。小学校2年ぐらいからは、兄の本父の本を読み漁るようになっていきましたけど。面白く感じたのはふつうに正統的なものですね~子供の頃は。
「人間椅子」は子供の頃は読んでいないんじゃないかと。
私は今図書館をガンガン利用してますが~気に入るかどうかわからない本を読んでみるにはいいですよ。何度も借りたりして、ついに買ったり。そんなに買うお金もないけれど、置く場所はもっとないんです…
良い睡眠をとるための指南書に、寝室には本を置かない、というのがあったんですが、私の寝室には本棚が7つあり動かしようがありません(笑)
ミステリや独特な雰囲気の物にはまっていったのは10代かしら。
ポーとデュマは好きな作家に挙げていました。
ディケンズ、ユーゴーは大衆文学、確かに当時だとそうだったんでしょうね。19世紀の文化に興味があり、小説はドラマチックなのが好きで読んでます。ユーゴーは色々な面を持った作家ですが、今となっては文豪と敬しつつ読む人も少ないでしょう。読んでいると言うとびっくりされます。
「レ・ミゼラブル」の原作を読んでいるのが珍しいこととして伊坂幸太郎だったか?作品中のモチーフになってました(笑)
「獣林寺妖変」がきっかけとは。
強烈なインパクトありましたね。出版される作品を次々に読んでいたものです。
あ、山田風太郎、そんなに読んでいるわけじゃないですが、読むと面白いですよね!
皆川博子作品は、前々から惹かれてはいたのですが、何か硬質で噛んでも消化吸収できないような感覚がありました。ベースにあるものが難しかったってことなのか…? 近年の物の方がややこなれてきたような…読みやすく理解できるようになった気がしています。
by sana (2021-03-05 19:13)
>> sana 様
家にたくさん本があって読み放題だったといっても
皆川先生、やっぱりフツーじゃないです。
でも戯曲っていうのは晦渋に思えますが実はそうでなくて
つまり脚本だと考えればいいのかもしれません。
ああ、確かに。
お試しで図書館で借りてみるという手もありますね。
私は小学校の頃はほとんど本のない生活でした。
教科書以外の本など読むのはまともな人間じゃ無い、
というような家庭環境だったのです。
それで本には飢えていて、中学校の図書館で
夏目漱石はほとんど全部読んでしまいましたが、
全然覚えていません。中学生では早過ぎたのかも。(笑)
ミステリというのも読書のきっかけになりやすいですね。
私の場合はそれに加えてSFなどもありましたが、
エンターテインメントな本ばかりで、
まともな本はあまり読んでいなかったかもしれません。
中学生の頃から文庫本で少しずつ読んでいました。
ミステリで好きなのはエラリー・クリーンでしたね。
ディケンズやユーゴー、デュマなどお読みになっているのは
すごいと思います。唯一、ポーは少し読みました。
本棚が7つって、それ、寝室じゃなくて
書庫なんじゃないですか?(^^)
最初に読んだ赤江瀑は『オイディプスの刃』でした。
しばらく熱病のように次々に読みましたけど、
ちょっとワンパターンかなという感じもして。
松本俊夫の《薔薇の葬列》という映画も
エディプス・コンプレックスがテーマでしたが
ギリシャの昔からエディプス・コンプレックスは
人間の根源的な問題のひとつのような気がします。
そうした傾向の作家ですと
中井英夫、塚本邦雄、須永朝彦などは
ある程度まとめて読みました。
皆川博子は実はまだあまり知りません。
山尾悠子の延長線上で読み始めたところです。
若い頃はトリッキーなことをやろうとして
編集者に止められていた面もあったみたいです。(笑)
山尾悠子に較べれば全然読みやすいです。
by lequiche (2021-03-08 05:02)
『聖女の島』(講談社 1988)皆川 博子
救いを求める手紙を読んだ修道女(マ・スール)が廃墟の島にある更生施設(軍艦島がモデル)を訪れる。桟橋で彼女の到着を待っていたのは差出人の園長(矢野藍子)だった。放火されて焼失したホームの救援に来たのだが、奇妙なことに3人死亡して28人になったはずの不良少女たちが31人いる?‥‥修道女(わたし)と藍子(私)の2人による一人称の叙述トリック、登場人物A=Bが同一人物という仕掛け、プロローグとエピローグが円環するウロボロス構造。文庫版(1994)の解説の中で、綾辻行人は皆川博子の作品を「鳥肌が立つほどに、凄まじい」、ノベルス復刻版(2007)で恩田陸は「トリッキーであり、技巧的であり、面白すぎて禍々しくて美しく、なおかつ知的で人間への洞察に溢れている」と評している。「綾辻・有栖川復刊セレクション」 の表紙は矢野藍子なのか、修道女なのか、朝妻梗子なのか、蓮見マリなのか?‥‥サイコ・ミステリにはミス・マッチなイラストではないかしら。
『花の旅 夜の旅』(扶桑社 2001)皆川 博子
売れない作家・鏡直弘(小生)は花と旅をテーマにした女性向けの隔月刊誌「ウィークエンド」の編集者・那智克人から「花の旅」の連載を依頼される。季節折々の花の名所とモデルのグラビア(4頁)に、花をモチーフにした短篇(平戸、網走、能登)を掲載するという企画だった。ところが能登への取材中にカメラマン・新藤圭太の妻・真弓(マネージャー)が海に墜ちて死亡し、鏡直弘も睡眠薬の過剰摂取で死んでしまう。4年前に新人賞を同時受賞した針ケ尾奈美子が皆川博子(鏡直弘のペンネーム!)の連載の4話以降(京都・北鎌倉・東京)を引き継ぐことになる。月刊誌 「デリカ」(千趣会 1978-79)に1年間連載された「花の旅 夜の旅」は作中短篇と「鏡直弘と針ケ尾奈美子のノート」を交互に挿み込んだ構成で、最後にフィクションとストーリ(現実)が融合するメタ・ミステリ。サイコ・ミステリ長編『聖女の島』(1988)と合本した「昭和ミステリ秘宝シリーズ」の1冊。初文庫化した際に『奪われた死の物語』(講談社 1986)に改題されたが、元のタイトルに戻された。
by sknys (2024-03-02 00:47)