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坂本龍一『ピアノへの旅』を読む [本]

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Márta and György Kurtág

コモンズ:スコラの第18巻は『ピアノへの旅』というタイトルで、ピアノが成立するまでの歴史とピアノを巡る話題が鼎談、対談によって展開される読みやすい本である。「ピアノへの旅」 と聞くとやや抽象的だが英語タイトルは 「A Journey Tracing the Roots of the Piano」 とあって明快だ。この第18巻からCD附属ではなくなってQRコードによるプレイリストになったのは小松亮太の本などと同様だが、価格を抑えるための合理的選択ではある。プレイリストの音源が永遠に存在するかどうかは不明だが。

前半の鍵盤楽器の歴史を辿る部分には国立 [くにたち] 音楽大学の楽器学資料館の写真が掲載されていて、本文と併せて読むとよく分かる。多弦の楽器にはダルシマー、ツィンバロン、サントゥール、揚琴、プサルテリウム、カーヌーンなど多種あるが、張ってある弦を叩いたり弾くだけでまだ鍵盤アクションは存在しない。
多弦で、かつ鍵盤を備えた楽器がチェンバロやクラヴィコードであり、弦をはじくアクションがチェンバロ、そしてタンジェント (金属片) を弦に当てるのがクラヴィコードである。写真でも紹介されているスピネットは小型のチェンバロであり、クラヴィコードと同じような小型の楽器でありながら、ここに違いがある (ということが初めてはっきり理解できた)。

見た目が同じような鍵盤楽器にオルガンがあるが、オルガンは弦ではなく筒に空気を送り込んで鳴らす構造なので、気鳴 [きめい] 楽器というのだそうである。オルガンの機構自体は大変古く紀元前までさかのぼるとのことだが、その音を出すために鍵盤を使用することになったのがいつなのかはよくわからず、たぶん14〜15世紀頃と推測できると説明されているが、とするとチェンバロやクラヴィコードと同じ頃であり、つまりひとつの音にひとつの鍵盤を割り当てるという発明がその頃だったように考えられる。

ただ、チェンバロやクラヴィコードがピアノへと変わるまでには、ピアノの前身であるハンマークラヴィーアの名称の通り、ハンマー・アクションの発明があり、現代ピアノまでの道のりは長く複雑だ。坂本龍一が弾いている写真で見ることのできるセバスチャン・エラール製のグランド・ピアノは木部の仕上げや手のこんだ譜面台など大変美しく工芸品のようでもある。
またチェンバロの頃の鍵盤は白黒が反転したカラーだといわれるが、この写真を見ているとクラヴィコードやスピネットには半音部が黒鍵、全音部が木製の色そのままの茶色の鍵盤もあり、一律に反転カラーともいえないようだ。

前半部の鼎談 (坂本龍一×上尾信也×伊東信宏) の中で注目したのは、フクバルトゥス (840頃〜930) の音楽理論書に半音階と全音階という概念が存在していたとのことで 「ですから、どんなに遅くても9世紀には、12音は生まれていました」 (上尾:p.41) というのだ。しかし 「といっても12音の鍵盤までできたわけではなくて、あくまで音階としてですね」 (上尾:同頁) と補足されている。以前、別の本で 「鍵盤は最初全音階だけがあり、黒鍵としてまずB♭キーが加わった」 というようなことを読んだ記憶があるが、そのような変遷までは言及されていない。ルネサンス期の音楽は坂本も語っているように、まずモードであり12音は概念としてはあったが、黒鍵の音はあくまで旋法のヴァリエーションの結果で出現してくる音に過ぎない。全ての音がクロマティックに出現してくるのは16世紀末から17世紀にかけてであるのだそうだ。

もうひとつ面白かったのはグレン・グールドの奏法について、あの弾き方はクラヴィコードなのではないか、という指摘である。「そもそも肘が鍵盤より下にあって、腕の重さなんて全然使わないっていうのはクラヴィコードの弾き方ですね」 (伊東:p.65)。「グールドがクラヴィコードを所有していた、あるいは演奏したことがあるという事実は確認できないが、知識はあり、自分が演奏したときのイメージも持っていた」 と宮澤淳一が書いているのだという (p.65脚注)。

後半部の対談 (坂本龍一×伊東信宏) は 「静かで弱い音楽へ —— 近現代のピアノ曲を語る」 と題されているが、その核となっているのはマールタ&ジェルジ・クルターグによるピアノ演奏である。プレイリストにはバッハのカンタータ《神の時こそいと良き時 BWV106》(Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit) の1曲目〈ソナティナ〉が選ばれているが、その演奏は 「超弱音器付きな上に、ものすごくソフトに弾いていて、ほとんど鳴るか鳴らないか、ぎりぎりのタッチで弾いてる」 (坂本:p.95) のだという。
巻末の音源ガイドにはその演奏について 「ほとんど聞こえないような弱音。きわめて微妙なテンポの揺れ」 があり、「さらに強力な弱音器をつけて、いっそう小さな音、ほとんど雑音に消えいるような音を聴かせることもあった」 と伊東は解説している (p.179)。

ジェルジ・クルターグ (1926−) はハンガリー生まれ (現在はルーマニア領) の作曲家でジェルジ・リゲティの3歳年下で親友だったという。マールタはジェルジ・クルターグの妻で、夫妻で弱音による録音やコンサートを催していたのだそうだ。

これは坂本が、ピアノをどんどん鳴らないようにしていって 「サウンドを抑えることで、ノイズがより出てくるように」 (坂本:p.93) していること。そして 「どんどんSN比が悪くなって、環境ノイズの中に溶け込んでいるくらいの音楽が良いなぁ、と思っています」 (坂本:p.95) と重なる。
坂本のアルバム《async》(2017) にはそのように弱音にリファインされたアップライトのスタインウェイで録音された曲があるとのこと。「〈Life, Life〉という曲でデヴィッド・シルヴィアンが朗読したあとに弾いているピアノがそれです」 (坂本:p.93)。音が小さくなることにより、周囲の環境音が同時に録音されてしまうのをそのまま受け入れるとする姿勢が坂本の現在なのだろう。デヴィッド・シルヴィアンには環境音をそのままフィールドワークした《Naoshima》(2007) があるが、それはリュク・フェラーリの技法の模倣としてのオマージュであり、同じ環境音とノイズという同一面を見せながらそのコンセプトは全く異なるものである。

YouTubeにあるクルターグ夫妻の連弾は、プリミティヴでもミニマルでもない、音への異なるアプローチのひとつの姿だ。


坂本龍一/コモンズ:スコラ 第18巻 ピアノへの旅
(アルテスパブリッシング)
vol.18 ピアノへの旅 (commmons: schola〈音楽の学校〉)




Márta and György Kurtág/
Bach: Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit (Sonatina)
https://www.youtube.com/watch?v=O85lwrca-_c

Márta and György Kurtág/Bach-transcriptions by Kurtág
https://www.youtube.com/watch?v=Z8lTh58jhA8

Ryuichi Sakamoto/Life, Life (from “async”)
https://www.youtube.com/watch?v=FpR3VJwYHZY

Ryuichi Sakamoto/async
https://www.youtube.com/watch?v=emSold2PCvw
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英ちゃん

国立音楽大学附属高等学校ピアノ科に天地真理さんが通ってたんだよね(^∇^;)
でも途中で声楽科へ転科したんだけどね。
by 英ちゃん (2021-10-17 01:16) 

末尾ルコ(アルベール)

『コモンズスコラ』のサイトを見てみましたが、凄いですね~。驚いてしまいます。価格的にわたくし容易には手が出せませんが、坂本龍一の選曲を知るだけでもワクワクしてしまいます。
クラシックではバッハやベートーベンは当然のことながら、ドビュッシーとラベルが両社とも一回分として取り上げられているのが嬉しいです。クラシック音楽には明るくないわたしながら、二人とも好きで、とても親近感があるんです。
Drums&Bassの回は高橋幸宏と細野晴臣の選曲なんですね。いわゆる「ドラムンベース」のことかと思ったら、ぜんぜん違ってますね。馴染みのミュージシャンも多いですが、選びに選んだだけに、あらためて聴き直そうと思います。
そしてわたしとしてはとても気になるのが坂本龍一によるFilmMusic。これは本当に興味深い選挙区で、『ナポレオン』が選ばれてますし、『ジェーン・エア』とか『欲望という名の電車』、音楽覚えてませんし(笑)。でも『エデンの東』とか、音楽聴いただけで目頭熱くなります、わたし。そして浅田彰が執筆しているではありませんか!坂本龍一と浅田彰となれば、ゴダールが入っているのは当然ですが、『冒険者』とか『1900年』が入ってるのも嬉しいですね。いや~、素晴らしい!!(←興奮冷めやらぬ様子 笑)
そう言えば少し前の『クラシックTV』のゲストが小曾根真でして、清塚信也とともにピアノ、鍵盤楽器の歴史について触れてました。ちょっと細かい部分は忘れてしまいましたが(笑)、ピアノというのは鍵盤楽器、弦楽器などの要素が複合した完璧な楽器であること、小曽根が音の響きをとても重要視していることなどが語られたと思います。わたし自身、最近まで「楽器の歴史」的なことには無頓でしたので、今回のお記事も、興味深く背徳させていただきました。



国書刊行会のサイトも久々に見ましたが、時間を忘れてしまいますね。十代の終わりくらいにユイスマンスの『ルルドの群衆』を読んでとても感銘を受けたのですが、図書館で借りたやつだったんです。『ルルドの群衆』はいずれ手に入れたいと思いますし、他にも欲しい本が満杯で眩暈がしてしまいますね(笑)。
国書刊行会はオカルト関係にも力入れているようですが、こうした思想についてはどのようにお考えでしょうか。まあアレスター・クロウリーとなるとちと極端ですが、わたしのスタンスを最もシンプルに申しますと、「全行程はしなけれど、全否定もしない」でありまして、オカルトと言いますか、神秘主義的世界への憧憬は常に持っています。もちろんファナティックには絶対ならないという前提ですけれど。

maladie foudroyanteは何かの説明で、急性の癌などの場合に使われるとありましたが、この説明が正しいかどうか、わたしには判断できません。
でも日本って本当に、亡くなった人への追悼もまともにしない国になってしまいましたね。最近ジャン・ポール・ベルモンドが亡くなった時のフランスとは大違いです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2021-10-17 04:44) 

末尾ルコ(アルベール)

はわわわ、「両社」ではなく、「両者」でございました。失礼いたしました。
                        RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2021-10-17 04:50) 

kome

チェンバロの演奏は目の前で見たことありますが、弦の張力の具合いで音程が狂いやすいらしく、奏者の方がぎりぎりまで調律してました。
by kome (2021-10-17 20:12) 

lequiche

>> 英ちゃん様

国立音大附属の声楽科だったんですか。
だとしたら立派な歌唱力の歌手だったはずですね〜。
う〜ん……。(笑)
by lequiche (2021-10-18 04:01) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

コモンズ:スコラは企画としては面白いのですが、
価格設定が高くなり過ぎてしまったので
今号から書籍のみのかたちに変えて価格をおさえたようです。
サイトにある特別講義という動画を観るのだけでも
内容がどんなものなのか参考になると思います。

坂本龍一はドビュッシーの人ですし
フランス系の音楽の影響が強いですから
(ベートーヴェンもあまりお好きではないようですし)、
ある程度の偏向はやむを得ないですね。(笑)
第18巻でも、もともとクラシック畑なので
ポピュラー音楽はあまり知らなくて
特に黒人系の音楽はプロになってから
必要性があったので学んだ、
というようなニュアンスで語っています。

映画音楽は、武満徹などもそうですが、
クラシック系の作曲家が当然通る道のようです。
これもある程度、仕事のための学習という面が
あるように感じます。
坂本の場合、結果としてベルトルッチとの出会いがあり、
それが作曲家としてのステップアップにもつながるわけですが。

楽器とは太古の昔、人が葦で笛を作ったりしたように
ごく素朴な生成過程から生まれたはずなのですが、
鍵盤楽器というものはそうした楽器本来の生成から考えると
非常にメカニックな構造なので、
それが完成品に至るまでの歴史は大変面白いです。
音楽そのものとは関係ないといえばそうなのですが、
重要なツールでもあるので探究は尽きないと思います。

あとは例によって坂本教授は歌詞を聴かないので、
大貫さんにいつも怒られるというルーティン話があります。(^^)
少し古いですが2人のコンサートの映像があって
それを思い出しながら聴くと面白いです。

大貫妙子&坂本龍一/a life
https://www.youtube.com/watch?v=XQpkgcNs5NY

ユイスマンスの『ルルドの群衆』は知りませんでした。
国書刊行会は意欲的な出版社で、
興味をひく刊行物がとても多いです。
もともとは社名通り、国書を出版していた会社なのですが。
オカルトのことはよく知りません。
たとえばティコ・ブラーエもパルミジャニーノも
占星術とか錬金術のような現象へ傾倒したということですが
それは時代性もあるのでしょう。
もっと近代におけるオカルトは衒学性・宗教性を
どうしても帯びてしまうような気がします。
by lequiche (2021-10-18 04:01) 

lequiche

>> kome 様

チェンバロは現代ピアノに較べればルーズな調律ですから
どうしても狂いやすいと思います。
ホールのエアコンや照明の熱にも影響を受けます。
でもそれは古楽器に限らず、初期のアナログ・シンセサイザーも
コンサートではめちゃくちゃ狂ったようです。
シンセの場合は主に電圧に対する不安定さも
あったようです。
by lequiche (2021-10-18 04:02)