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地図にない場所 — 吉田秋生『海街diary』 [コミック]

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この記事は吉田秋生『海街diary』を読んだ人を対象としています。読んでいないとわからないエピソードやネタバレがありますのでご了承ください。

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この『海街diary』のコミックス奥付を見ると第1巻の初刷が2007年、第9巻が2018年。完結までかなり時間がかかっていると感じたのだが、ともかくなんとなく読み始めて読み終わりました。随分と季節外れのヴァレンタイン、じゃなくて感想文です。

ストーリーは、端折って書いてしまえば、離婚した両親がそれぞれ出奔し、残された娘3人 (香田幸、佳乃、千佳) で生活していたところへ父の訃報が来る。葬儀に出かけた山形で3人は異母妹 (浅野すず) に出会う。すずの現在の境遇を案じた幸は、帰り際、突然すずに 「あたしたちといっしょに暮らさない?」 と誘い、すずはすぐに 「行きます!」 と返事する。やがて4人での生活が始まり、それからいろいろなエピソードが綴られるというような話。

複雑な人間関係を明快に描き出す手腕はさすが。でもこうしたややこしさって意外にどこの家庭にもあることなのだとも思えてしまう。
ただ、いきなり脇道にそれてしまうのだが、この作品の中でピークとなっている挿話というか、つまりサイドストーリーが2つあって、それは第6巻の 「地図にない場所」 と第4巻の 「ヒマラヤの鶴」 である。「ヒマラヤの鶴」 はこれだけでは軽いエピソードのように見えて、最終巻の 「夜半の梅」 につながる伏線なので重要なメインストーリーともいえるのだけれど、そういう意味では 「地図にない場所」 は真性のサイドストーリーであり、それゆえにきらりと輝いているように感じる。

すずの従兄である北川直人 (直ちゃん) がやってきて、鎌倉のすずたちの家に泊まっている。直人は美大生で、卒業制作にあたって行ってみたい雑貨屋があるということなのだ。
だが直人は超絶方向音痴で、すずが同行する。店を見つけるが、めざしていた刺繍作品はその雑貨屋では売り切れていて、店の人から作家のアトリエを紹介される。
2人はすずのクラスメイトで地図に強い尾崎風太と合流し、3人でアトリエを探すがそこは地図には載っていない場所だった。しかし、直人の直感でアトリエを発見する。刺繍作家 (桐谷糸/きりや・いと) と直人は話が合って盛り上がるが、直人が子どもの頃、学校でイジメにあって転校した話をすると、糸が突然、詩の一節を言葉にする。

 立ちあがってたたみなさい
 君の悲嘆の地図を

それはオーデンの詩で、糸も学校に行かなかった3年間があり、そのとき、この詩に何度も救われたと語るのだ。
この部分の唐突さと、唐突でありながらその言葉から受けるピンと張りつめた印象がこのマンガ全体のトーンを見事にあらわしている。そしてこの場面にもあらわれる何も描かれない真っ白な背景が、かえって凝縮された美学となって読者に訴えかけてくる。こうした意識的な白バックの使い方は内田善美の、たとえば『空に色ににている』ににている。

この部分をネットで検索してみたら、さすがに幾つもの言及があった。W・H・オーデン (Wystan Hugh Auden, 1907−1973) は20世紀の著名詩人のひとりであるが、大江健三郎がその詩句をそのままタイトルとして借用したことでも知られる。「見るまえに跳べ」、「狩猟で暮らしたわれらの先祖」、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」 など。

糸が言葉にした詩句の原文は次の通りである。

 Stand up and fold
 Your map of desolation.

このコミックス各巻のカヴァー絵は連載時の扉絵から採られているが、そのパースペクティヴと空の色の表情が素晴らしい。ネット上の画像ではその色が再現できていない。印刷物のほうがラチチュードが狭いはずなのに不思議である。


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末尾ルコ(アルベール)

W・H・オーデンについてはまるで知らなかったです。凄そうですね。読んでみたいと思います。
作品中などはもちろん、日常生活の中でもふと詩を引用したり、軽く朗読してみたりとか、とても豊かですよね、人生の深まりが違います。でも「詩が好き」なんて言うと、日本人だけでなく外国人にもよく驚かれます。日常生活の中から精神を一気に飛翔させてくれるものとしては詩が最高だと思うんですが、

吉田秋生についてはもちろんその名は知っていましたが、どうも自分とは縁遠いイメージがあってほとんど読んでおりません。これも悪しき先入観でしょうね。機会あれば手にしてみます。
それにしても『吉祥天女』も吉田秋生なのですね。画風がぜんぜん違うように見えます。おもしろいですね。
『海街diary』のお話し読ませていただいて、家族とか人間関係とか、表層のみを見ていると平凡そのもののように感じても、その奥底には無数の複雑が絡み合い、時に「怖さ」も存在する、そうした真実を見事に描いているのだろうかと想像しました。

・・・


イオン高知のCDショップでも山下達郎の新譜が並べられてましたが、ヤマザキマリの画、とても目立ちます。「目立つ」という意味においては、今回のジャケット大成功なのではと感じました。これがもしLPサイズだったら、さらにインパクトは絶大だったでしょうね。

中井英夫とかノックス的世界、好きそうですね。日本ではそもそも「本格派」や「新本格派」といった呼称がありますよね。わたし島田荘司や綾辻行人などもそこそこ読んでた時期があって、おもしろいにはおもしろいですが、でもけっこう笑っちゃう要素もあるかなあと。こうした作品はちょっと日本特有なんでしょうか。

>読むなら新訳です。

なるほど。わたしミステリに限らず旧訳本多く持っていて、どうも今ひとつもたもた読書になるのはこれも一因かもしれません。

前にいただいたコメントに関することですが、

>歌についてくる弦楽はかなり責めている

あ、それは感じました。歌と弦楽が対決しているような緊迫感。その意味では『TheFirstTake』とはかなり違う感触の視聴体験でした。

>ネットでの評判・評価というのを随分気にする

おそらくそれだけを基準にしている人、どんどん増えているのでしょうね。映画とかの検索しても、真っ先にユーザーレヴューの獲得ポイントとか表示されますから、そうしたものが何か「本当に意義ある点数」だと妄信している人たち、すごく多いでしょうね。彼らにプロの批評を目にする機会はないでしょうし、よしんば目にしたところで理解はできないでしょうし、そもそもそうした人たちの思考って、「理解できない作品=作品が悪い」となりますから。〈自分に理解力や鑑賞力がない〉とはゆめゆめ思わないようです。     RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2022-07-03 07:20) 

にゃごにゃご

たたんでもたたんでも、たたみきれない。
いっそ燃やそうかと考えてます。
by にゃごにゃご (2022-07-03 13:11) 

kome

海街diaryは読んだことないのですが、実家の近くの風景で馴染みがあります。
内田善美の何冊かは、引っ越しで失くしてしまって、クゥ~~!
by kome (2022-07-03 20:46) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

詩は小説に較べると言葉の扱いがシビアですから
翻訳者の技倆が作用するように思います。
それならいっそのこと原文を読めばよいのですが、
原文を読みこなせるだけの言語能力が
誰にでも備わっているわけではないので
このへんがジレンマとなります。
対訳のようにして見較べるという方法もありますが
そこまでやるのは研究者だけとも思えますし。

詩人についてはあまりよく知りませんが
オーデンはかなり有名な詩人です。
T・S・エリオットが1888−1965年ですから
エリオットの少し後の世代ということになります。
川端康成が1968年にノーベル文学賞を受賞しましたが
このとき取り損なった候補のひとりがオーデンです。

日本における詩歌、つまり短歌や俳句は
声に出して唱えてみることもあるという点においては
欧米の詩歌の朗読と同様の効果があります。
そしてそうした短歌や俳句を英訳した結果を見ると
残念ながらそのニュアンスはほとんど異なるものに
変換されてしまっているともいえますが
これは言語間の翻訳の限界であり、
同様のことが欧米語→日本語への翻訳にもあると思います。

マンガは多くは絵によって、
そしてそれに加えた言葉によって表現されますが、
吉田秋生はその時間的・空間的な処理の繊細さにおいて
とても優れていると思います。
この『海街diary』について私が書く場合でも
わざと全体のあらすじを明かしていません。
それをするとそれで読んだ気になられてしまうと
困るからです。(笑)
たとえば映画でも、映画そのものを観ずに
映画評だけで映画を観たように思ってしまったら
ダメですよね。それと同様です。
私のこの記事は映画の予告編と同じで
「あとは本編をご覧ください」 ということです。
また、コミックスとしてひとくくりにされますが
たとえば『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』と
吉田秋生や大島弓子の作品とはほとんど別のものです。

ミステリに関しては私は現役ではないので (^^;)
日本の作家についてはよくわかりません。
といっても海外の作家もよく知らないのは同様です。
日本ではかつて 「本格派」 というような
ジャンル分けをしていたようなのですが
あまり細分化してしまうのもどうかなと思います。
私がミステリに求めるものはその構造性ではなくて
雰囲気だったりシチュエーションの描きかただったりします。
たとえばエラリー・クイーンでは『盤面の敵』という
あまり有名でない作品があるのですが、
これは実際にはシオドア・スタージョンが代筆していて
そのほの暗い雰囲気が好きなのです。
昔のハヤカワミステリやサンリオSFなどには
ちょっとどうかなという翻訳もあるようですが、
でもそのしょーもなさ加減もまた面白いことがあります。

ネットの評価については
先日、「食べログ」 の評価が下がって店が打撃を受けた
ということについての裁判がありましたが、
私にとっては驚愕で、そういうのの影響ってあるんですね。
食べログにかかわらずネットの評価なんて
私はほとんど信用してないですから。
むしろ前にも書きましたがamazonで評価の悪い本だったら
逆に 「買い」 だろうと思います。(笑)
by lequiche (2022-07-05 07:57) 

lequiche

>> にゃごにゃご様

燃やしてしまうというのは視点を変えることで
それもひとつの方法かもしれませんね。
あ、安部公房に『燃えつきた地図』という作品がありました。
関係ないですが。(^^;)
by lequiche (2022-07-05 08:00) 

lequiche

>> kome 様

ご実家が鎌倉ですか。それは良いですね。
鎌倉には全然行っていません。
以前は立近代美術館で何かの展覧会があると行ったのですが、
展覧会よりもあの建物が好きだったのかもしれません。

引っ越しでなくしてしまった……それは残念ですね。
内田善美はほとんど全部ウチにあります。
『ぶーけ』の特集号もどこかにあるような気がします。(笑)
by lequiche (2022-07-05 08:02)